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夫も娘も帰ってこない。1人での家は寂しい。
夜の帷がそろそろ降りてくる時間帯。
依田家のリビングは結花が飲み食いしたもので溢れていて、電気もろくにつけておらず、暗いまま。
いつもなら来ているお手伝いさんも母も来るなと口止めされているため、結花は自分でやらなければならなかった。
マッチングアプリの相手とも連絡が取れなくなった。
結花はリビングでソファで横になりながら、スマホをいじる日々。
あー、だれか私の家の手伝い来て!
家事代行サービスを呼ぶにもクレカが止められていたので無理だ。
「誰よ! カード止めたの!」
思わずスマホを投げつけようとしたが堪えた。
まさか夫が? 明細書? そんなのどこにあるか分からない。
毎月自分と母だけでどれぐらい使ってるのか知らない。
明細書の通知は夫の方にくるようにしている。
全ての支払いは夫任せ。
今財布の中にあるのは予備の1万円。
普段はカード支払いか電子決算なので、現金をそれほど持ち歩かない。
支払いも基本的に夫がやってくれるから必要ないと思っている。
家事代行や宅配呼んでもすぐにお金がなくなるだろう。
宅配呼ぶか、自分で家事やるかしばらくあれこれ考えていたら、 スマホが鳴った。
名前の表示を見て結花の声が高くなる。
「あれ? はるちゃん? あのね、たすけてー! カード夫に止められったっぽいの! 夫連れ戻して! そうじゃないとゆいちゃん生活できなーいっ」
義兄の陽貴にここぞとばかりにねっとりとした口調で、夫を家に連れ戻すようにお願いする。
『――今からそちらに向かいますので、お待ちください』
陽貴は結花のテンションに流されることなく、要件だけ伝えた。
やった! 義兄がくる!
ぶっちゃけ顔は義兄がドストライクだ。ただ私にちょっと冷たい。またそれがいいんだけど。
義弟はカワイイ系。子犬のような顔してるから、多分女の子にモテただろうなと思う。
でも奥さんいるんだよねぇ。絶対クラスの隅っこにいて落書きやってそうなタイプの人。
私の方が絶対カワイイに決まってる。
夫は優しいし言うこと聞いてくれる。でも面白みがないからつまらない。
なんというか、勢いというのがないんだよね。
のんびりしてるというか、覇気がないというか。
昔みたいにぐいぐい来ないから面白くない。
「頑張ってお茶出してみるか」
いや、ここは義兄が来た時に一緒に手伝ってもらおうかな。ゆいちゃん場所がわからなーいとかやり方知らなーいとか甘えて。
うん、そうしよう。
陽貴が来るまでのんびり寛いでいるとインターホンが鳴った。
そそくさと立ち上がって応対すると、画面に写ってる人を見て舌打ちをした。
くっそ、あいついるじゃん。嫁が。連れてくるなよ。
2人っきりでお話しよって思ってたのに。
のそのそと玄関ドアを開けて「待ってたのぉ」と陽貴だけ挨拶をして、そっと手を握るが振り払われた。
隣にいる千雪は結花の態度に唖然として声が出ない。黙って見てるだけ。その視線は突き刺さるようなものだが、結花は気づいていない。
「ゆいちゃん、はるくんに会いたかったのぉ。さぁ、あがって。そこの人も一緒?」
陽貴は「ええ、同席してもらおうと」と告げて、家の中に入る。
結花はスリッパをすぐに用意するが、陽貴の分だけだった。
「あ、あの……」
私の分はと千雪が言いかけたが、結花はリビングに向かっていたので姿が見えない。
「千雪、これ履いて。俺は適当に取るから」
陽貴は結花に渡された分を妻に変えて、玄関から適当に取った。
うわぁ、こんな陰湿なことやってくれるのか。
お手伝いの柿本さんの言ってた意味がわかる。
メンタルが女子中学生。確かにそうだ。
この段階で怒りポイントが出ていたが、呼吸を整えて、妻の手を握りながら一緒にリビングに向かう。
「はるちゃん、ごめんねぇ、汚くって。そこの人も。適当に座って。ね、はるくちゃんさぁ、お茶淹れるの手伝ってぇ。私ゆいちゃん出来ないのぉ」
ダイニングテーブルに案内された2人はリビングの姿を見て、言葉を失った。
陽貴の背中をベタベタ触りながら、アヒル口でおねだりする。
千雪はその姿を見た黙って見てるしかなかった。
今ここで喧嘩しても何もならないだろう。
後で話す時にしっかり言おう。
「さっきご飯を済ませてきたので、お茶は結構です」
「えー、そう言わずにさぁ。食後のってことで。でもゆいちゃんやり方わからん分からないの。はるちゃん教えて」
「いいから、早く本題に入りたいので」
陽貴の顔から血管が浮き出そうだった。
言葉に棘があるように返すと、結花はあっそうと、あっさり引き下がった。
陽貴と千雪は横並びで座って、結花と対面する形となった。
「えー、ゆいちゃん、はるちゃんの隣に座りたぁい! だめ?」
ほお膨らませて駄々っ子モードになるが、それを無視して、陽貴が「本題に入ります」と短く告げた。
「なんなの! さっきからはるちゃんこわーいっ」
わざとらしく泣くフリをはじめる結花に対して
「結花さん、ふざけないでください」
千雪が強い口調で咎める。それに対して結花は「あの人こわーい、追い出していい」と指さす。
陽貴は舌打ちしたい衝動を抑えて「では本題に入ります」と告げた。
自分の要望が何一つ聞いてもらえないことに気づいたのか、結花は足を組んで頬杖つきながら、視線をベランダ側に向けた。
この様子を千雪が結花に向けてスマホで撮影しているのは気づいていない。
陽貴から結花の態度と言動を撮って欲しいと頼まれた。
千雪としては早くこの場から出たかった。
挨拶はしないわ、名前覚えてないのか、あの人呼ばわりするわ、夫にいちゃつくわ、挙げ句の果てには、来客にお茶の用意手伝えと言われるわ、踏んだり蹴ったりだ。
どこが呉松家のお嬢様だ。
呉松家といえば、この辺りでは昔から権力者の家として有名だ。
とはいえ、それは今となっては昔の話し合いになりつつある。
きちんとしつけされてると思いきゃ、そんな要素なし。
お嬢様ならもう少し人付き合いきちんとしてるもんだと思う。
こんな目の前でいないもん扱いされて、屈辱を受けに来た訳じゃない。
「あのですね、結花さん。単刀直入に言います――うちの弟と離婚してください」
「はあ?! なんで?! 私は夫と結婚してやったの! そういうのは私がいうものよ! なんで、はるちゃんが口出しするの?!」
机をドンと叩いて威嚇するが、陽貴と千雪の顔色一つ変わらない。
「弟はね、あなたのわがままに疲れたんですよ」
「ゆいちゃんがわがままなのは昔からよ。それを分かった上で結婚してるんでしょ? はるちゃんがとやかくいうのは違う」
「職場で倒れるほどの状況になったから言ってるんです。悠真さんは結花さんと陽鞠ちゃんのために頑張ってきた。その姿をみた陽鞠ちゃんも、少しでもお父さんの負担がかからないようにって、家事と勉強と部活の両立をしてきた。専業主婦である結花さんがなーんもしないから」
諌めるような口調で話す千雪に対して
「ちょっと、そこの人、あんたも何? ちょっと黙ってよ。この人間のなり損ないの分際で。私をなんだと思ってる? 天下の呉松家のお嬢様、呉松結花よ」
腕を組んで鼻息荒く彼女を罵倒する結花。
「あのねぇ、あなたお嬢様って言ってるけど、前に自称がつくんでしょ。本当にお育ちがよかったら、私のことそこの人なんて言わないでしょ。分からないなら名前聞くでしょ。私は依田陽貴の妻で、依田千雪という名前があるの」
「あ、そうだっけ? あんたはるちゃんの奥さんだだけ? ごめんねぇー、私同性大嫌いだから、名前覚える気ないの。空気だとおもってるから。底辺の癖に私に口出しするなんて100万年早いよ。せめて、その不愉快な顔変えてから言って」
悪びれもせず手をひらひらさせて、はるちゃんってこんなブサイクな顔が好みとか物好きねとからかう。
追い討ちかけるように、世界一可愛いゆいちゃんと結婚しよと陽貴の手を包む。
陽貴は手を振り払って「やめてくれませんかね」と怒気のはらんだ口調になる。
「――悠真が倒れたあの日、何で病院に行かなかったんですか?」
声のトーンが変わったのにやっと気づいたのか、結花は「あ、いや、その日は……用事があって……それに倒れたって聞いて気が動転してたから」と目を逸らす。
「そうですか。気が動転してるのに、友達と遊ぶ元気はあるんですね」
陽貴は鞄から分厚い紙を取り出して、結花に見せる。
その瞬間、結花の顔が凍りついた。




