愛する者を奪われたとき人はどのようにして許すのか、、、
明日という日は必ず来るものだと思っていた。皆に与えられた平等の権利。若かったせいもある。しかしそれ以上に幸せすぎた。その幸せにより不幸が隣り合わせにあることを失念させていた。
まさかという言葉さえ念頭に置いてはいなかった。突然の出来事に別れの言葉さえ告げられなかった。当たり前。その当然の権利として受諾していた幸福が音を立てる間もなく崩れ去り、そして無くなった。
後に残ったのは悲しみ。しかし途方に暮れていた期間が過ぎると悲しみは怒りへと変化し、更にその先に絶大な苦しみが待っていた。記憶のページをめくる。褪せることのない思い出にはしっかりと色がつき事細かく細部まで想起できる。それなのに現実の世界に君はいない。会いたい。しかし君は網膜に像を結ぶことはなく瞼の裏でただ笑う。その笑顔だからこその悲しみは決して癒えない。
君を映せぬ目など私にとって何の意味があるだろうか。
君に想いを告げられぬならこの口などいらない。
君の香を嗅げぬならこの鼻などいらない。
君の声を聞けぬならこの耳などいらない。
君を抱きしめられぬならこの腕などいらない。
君と共に歩む道が無いのならこの足などいらない。
君と疎通を通わせられぬのならこの心なんていらない。
そう、君がこの世にいないのならこの命なんて、、、、、もはや、いらない。
年端もいかぬ子供に何の恨みもあろうはずが無い。しかし沢田誠は七歳である少年の首元に回した左腕の力をわずかたりとも緩めようとはしなかった。
そういう風に見えた。周りに控える警察官達は沢田の右手に持つ鋭利な刃物がいつ少年の首元めがけて振り下ろされるか気が気では無い。しかしそれでも沢田が叫ぶように大声で示す要求を”はいわかりました”と簡単に受け入れる訳にはいかなかった。
「いいから早く連れてこいよ。そうしないと本当にこの子の命はないぞ!」
目を血走らせる沢田の要求はこうだ。人質にとった男の子の父親である吉井和夫をこの場に連れてくること。
ことは七年前、沢田が二十六歳の時だった。沢田の四つ下である妹の結愛が切れた調味料を買いに近くのコンビニに出かけた。すでに既婚しており大好きな旦那は結愛にとって申し分ない夫だった。
それほど広くない一本道。前から来る車を避けようとして道の脇に寄った。そうしてやりすごそうと思っていた結愛の目の前であろうことか車が急ブレーキをかけ突然停車した。別にすれ違うにあたり自分の対応が悪かった訳では無い。しかしあまりにも予期せぬ事態であったため結愛は一抹の不安を覚えざるを得なかった。
黒いワンボックスカー。その横のスライドドアがいきなり大きな音を立てて開いた。素早く出てきた男は大柄で腕力が強く身構え抵抗しようとする結愛を力任せにそのまま車内に引きずり込んだ。その後車は急発進し帳の降りた夜の町へ忽然と姿を消したのだった。
結婚二年目を迎えた結愛の夫である正は妻の帰りが遅いことに不安を抱かずにはいられなかった。いつもなら仲むつまじい二人はたとえ近所とて共に足を運ぶ。しかしこの日に限って正は風呂に入ったところだったのですぐ戻ると言い残した妻を引き止めること無く言葉だけで見送ったのだった。
携帯が繋がらない。返ってくるのはリングバックトーンだけで、いくら呼び出し音を鳴らしても一向に出る気配が無かった。もしかしたら、そう思い携帯が無いか家の中を探した。
いつも置く場所は定位置として決まっている。そこに無いとなると持って出かけたとしか考えられない。じゃあ何故出ない。正はいてもたってもいられなくなり念のために書き置きを残すと急いで家を飛び出したのだった。
コンビニまで徒歩五分。一応その間はあらゆる可能性を考慮し様々な箇所に目を配った。上下左右、時に立ち止まって振り返り360度高低差関係なく視線をあちこちに這わせた。その様は他人から見ればさぞかし異様に映ったことだろう。しかしもちろんのこと正がそんなことを気にするはずもなく、徒歩5分の道程の間、急ぎたい反面見落としたくない気持ちが歩幅を広げ時に狭め何度となくその場に立ち止まらせたのだった。
コンビニに着いた。慌てて店内に入るが結愛の姿は見当たらない。依然電話は繋がらず不安は増すばかりだった。
「すいません、、、」一縷の望みを託し店員に声をかけた。しかし店員はあろう事か三十分ほど前に調味料とビールを買った結愛の事を覚えていたのだった。もし店に来ていないなら他の店に行ったのかもしれないと、その可能性に望みを託せた。しかし店員の証言はそれをさせなかった。ましてやその姿を見たのは三十分も前との事だった。その時間の経過が危惧の念を増幅させると共にたった徒歩五分という決して長くないその距離が逆に果てしない隔たりとして正の心にただならぬ恐怖心を植え付ける事となったのだった。
どうする。警察に連絡した方が良いか。しかし普通に考えればまだそれほどの時間が経過しているとは言い難い。おそらく警察の方でももう少し様子を見るように言ってくるだろう。ただ何か問題があった場合、少しでも早い対応が状況を左右する場合があることは確かだ。正は悩んだ。そして悩んだ末、今しばらくそのまま結愛を待つことに決めたのだった。そして、、、、、。
残念な事に危惧が杞憂に終わることは無かった。ただ最悪な結果だけは真逃れた。きっちり三時間後死相を浮かべたような結愛がただならぬ気配を身に纏い家に戻ってきた時正はそう思った。
靴を履いていなかった。服が無残に破られていた。髪は振り乱れ焦点の定まらぬ目には怯えの色がはっきりと浮かび今までそこに何を映していたのかが気になった。
正の呼びかけに結愛は答えないどころか何の反応も示さない。何かあったのは一目瞭然だが無理強いするのは躊躇われその日は何も問わずひとまずベッドで休ますことにしたのだった。
明くる日一睡もできなかった正に同じく一睡もしなかった結愛が語りかけた。全くの無表情は敢えて装ったものではなく心情が自然に表れたものだった。もしそれが意図して貼り付けられたものであれば、そこに何らかの意思を見定められたのかもしれなかったが心なくした機械のような感情の無さは生気を一切感じさせず、それが不憫でならぬと共に不安をあおった。
極度の緊張と恐怖が続くと人は自己を失う事がある。そうした辛く耐えがたい状況を説明する結愛の言葉一つ一つが全て正を素通りしていく。今目の前の事態全てが何一つ像をなさず、まるで絵空事を聞いているかのようだった。訥々と話し出した結愛の言葉はそれぐらい衝撃的で俄には信じられぬ事ばかりだった。
それにしても何ということだろう。正は想像力を持たせ心に与えられるダメージを軽減させるためいくつかの可能性を前もって想定していた。にもかかわらず現実を現実として受け止められない。しかしそれでも今自分は誰よりも現実を受け入れないといけないと思う。その上で動揺を見せず毅然とした態度で対処しなければいけないと思った。
正は結愛を説得し警察へ被害届を提出しに行った。警察では前日に一応いなくなった経緯を話していたので詳細はすんなりと理解され聴取はスムーズに進んだ。
結愛の言葉は生々しくそれだけに聞き手の心情を揺さぶった。様々な事件に対処している刑事でさえも思いがけず顔をゆがめたぐらいなのだから正が平常心を保つことは極めて難しいことだった。
まさか自分の妻がこんな事になるとは夢にも思わなかった。しかし夢ではなくれっきとした現実の世界で起こってしまった事には否が応にも向き合わねばならない。本当に辛いのは自分ではない。正は何度自分にそう言い聞かせたかしれない。ただ安易な言葉を掛けるのは憚られた。憔悴しきった結愛を目の前にするとどれだけ彼女の心中を忖度したところでもどかしさと虚しさが邪魔をし、涙を流すことしかできなかった。そんな正を見かねた結愛が微笑を浮かべ頬を伝う涙を指で拭う。痛々しいその笑みを見てまた自分が情けなくなり滂沱となる。
お互いの言葉が減った。お互いがお互いに見繕うべき言葉というものを探し得られなかったのだ。正は自分を励ますよう時間が解決してくれると信じ時にすがった。お腹には二人の人生のなか運命として存在するべき生を受ける子供もいるのだ。忘れることさえ出来ればまた以前のように仲むつまじい二人に戻れる。自分達の未来は燦々と輝いていた。二人の未来。いや三人の未来。しかし事件から一ヶ月後結愛はお腹の子と一緒に未来を捨てた。マンションの十二階は未来を絶つに十分な高さだった。
正はそこで初めて自分の愚かさに気付いた。何が最悪の結果だけは真逃れただ。これ以上の最悪は無い。この一ヶ月結愛はどういう思いで毎日の生活を送っていたのだろう。
お腹に子供がいることを踏まえた上での自殺に踏み切った心情は推し量りようが無かった。どれだけ悔しかっただろう。どれだけ自分に申し訳ないといわれの無い罪悪感に苛まれてきたのだろう。そして生成すはずだった子供にどのような説明と謝罪を、、、、、。
正は思った。もしその場で殺されていたならば一ヶ月という果てしない時間を苦しまずに済んだのではないだろうか。結愛は悩みに悩んだ末、苦しみに苦しみ抜いた末、自ら命を絶った。しかし自殺は自分で選んだ選択肢の一つでは無い。結愛にとってこれしかない加害者に強いられた一択だったのだ。これをはき違えてはいけない。
”何故自殺なんか”
”別に死ななくても”
この考え方は被害者の心中を察することが出来ず、所詮他人事としてしかとらえられていない考え方だ。殺されたのだ。陵辱され一ヶ月もの長い間罪悪感からくる後ろめたさに苛まされ気が狂うほどの懊悩を抱えたまま、、、、、殺されたのだ。
正はやるせなさで胸が張り裂けそうだった。許せない、、、、絶対に許さない。正はこの時から身命を賭する覚悟で結愛の復讐を誓ったのだった。
「早くしないと本当に、、、、」そう言うと沢田誠は包丁を子供の顔に向けた。鬼気迫る表情。向き合う警察官達は血相を変え「早まるな!」と叫びながら両手を前に突き出した。
緊迫した時間が流れる。マンションの六階。玄関を背に外廊下で沢田は数名の警察官と対峙していた。
六階からの景色はよく晴れている上、近くに高い建物が無いため見通しが良く遠くまで空が抜けていた。沢田は子供を抱えたままそこから真下を見下ろした。下にはいくつかの遊具が揃った公園がある。その周りに何台もの警察車両。またその周りを幾人もの野次馬達がスマホを片手に囲んでいた。
サイレンを鳴らして新たにパトカーが加わる。それと共に人が掃き出され沢田の目の前制服警官と入れ替わるように私服の刑事が何人か加わった。
事前に予備知識はある程度得ているのだろう。加わった刑事達の表情は幾分か落ち着いて見えた。しかし小さな子供を人質として捕らえられている以上迂闊な行動はとれない。万が一があってはいけない事を重々承知の刑事達はただ思いを留まらせようと闇雲に言葉を用いるのでは無く何が解決の糸口になるか探るべく、状況の把握、人物の把握、またその心中から動機の把握に努めようと解決策の模索に脳をフル回転させていたのだった。
「君の名前は?」先頭に立つ刑事の一人が優しい語り口で声を掛けた。とりあえずどんな話題でもよいので会話を試みたいと思ったのだ。
「なあ刑事さん。俺の要求はこの子の父親である吉井和夫をこの場に呼ぶこと。この一点だけなんだ。それなのに何でそこに俺の名前が必要なんだ?」
「いやそれはだな、これから話をするに当たってどう呼べば良いのかわからないからだよ。だから別にフルネームが欲しいって訳じゃない。名字や下の名前だけでも良いんだけどな」
「おいおい、あんた上手いこと言うなぁ。まぁいいや、どうせ調べたらすぐにわかることだし、、、、せっかくだからフルネームを教えてやるよ」
そう言って沢田はその場でフルネームを名乗った。
すかさず後方にいる刑事の一人が無線で連絡を入れる。余りあからさまにし過ぎて機嫌を損ねさせては元も子もないと柱の陰に身を隠すことを怠らない。
「そうか、沢田さんか。ありがとう」刑事はそう言うと軽く会釈をした。媚びるほどではないにせよ誠意は見せておきたいといった感じだ。それを見て沢田も悪い気はしていないようだった。ただ軽く上げた口角も鋭い表情の中すぐに下がった。
「とりあえず沢田さんの要求はわかった。しかしそれをすぐに飲むという訳にはいかないんだ。だから何故その子の父親をこの場に呼びたいのかその理由を教えてもらえないだろうか」
「なあ刑事さん、今俺が何のために名前を名乗ったのかわからないのか?俺の身元は遅かれ早かれ割れることだ。従ってその手間と時間を省くために教えてやったんだよ。つまり無駄な時間は使いたくないって言ってるんだ」
「ああ、それはわかった。だからその無駄な時間を使わないためにもだなぁ」
「ちぇっ、わかってへんなぁ。あんた達なら俺の名前を調べればすぐに吉井とはどういう関係なのかわかるって言ってるんだよ」
子供を人質に取り警察沙汰にしてまでの行動に”おそらく”という形で怨恨という言葉を浮かべている。しかも警察が調べればわかるというのだから形としてそれなりの事件という扱いになっていることも推察できた。
しかし刑事達の狙いはスムーズな解決が理想とはあっても人命保護が第一の優先事項であり、より確実な方法をとらねばならない。即ちこの場合時間を引き延ばす必要があった。刑事達は懸命になって状況の把握に努める上層部の為にもより適切な言葉を選ばねばならなかった。
「なあ沢田さん。あんた今調べれば吉井という人物との関係性がすぐにわかると言ったが、それは過去に貴方たちの間で警察が介入せざるべく何かがあったと言うことでいいのかい?」
「あんた今俺が言ったこと聞いてへんかったんか?調べればわかるって言ったところやろ」
「いや、それはわかっている。でもどうせだったら直接沢田さんの口から聞きたいと思ったんだよ。あなたはここまでの事をしているんだ。だったらそれ相応の理由ってものが有るはずだろう」
刑事はそう言うとまっすぐ沢田の目を見つめた。会話が始まってからは包丁を持つ沢田の右手はだらりと緊張を抜くように下がっている。いつ何時再び子供に向けられるかわからぬ事態ではあるが、とりあえず今は表情や口調からそれは無いと踏んでいる。この間にできるだけ情報を引き出したい。そしてここまでするにあたっての沢田の懊悩を理解したい。本気でそう考える刑事は気持ちと気持ちのぶつけ合い、ぶつかり合いこそが今一番必要なことではないかと考えていた。
「まぁええ、どうせやから教えといてやる」沢田の表情は怒った風でもなく何気に落ち着いている。それを見た刑事達も幾分安堵感を得て落ち着いたものとなっていた。
「吉井和夫。もうあんた達もわかっていると思うが、この子の父親であると共に俺の妹の未来を奪った男だ」
「奪ったって?」思わず聞いた刑事の表情はすぐれない。
「俺の妹の命を奪ったって事だ」
ある程度の予測をしていたにも関わらず刑事達の表情が俄に一変した。情報はまだ上がって来ていないものの話が本当なら確かにすぐにわかる事だ。刑事の一人が無線で確認を取る。すると同時にいくつかの情報がもたらされた。それを耳打ちして刑事達はすぐ様共有を図った。
「俺の妹に性的暴行を加えたのは、あいつが二十二歳の時だ。でもそれが初めてのことじゃない。あいつは既に十八の時に同じ過ちを犯していた」
”同じ過ち” 刑事達にとっても重い言葉だった。罪を憎む以上人が更正することは原則だ。そうでないと人を憎む事になってしまう。刑事として犯人検挙を職務とする以上、人ではなく信念を持って罪と正対する。だからこそ同じ過ちを繰り返されるとやりきれなさを痛感することになるのだった。
「何故なんだ?何故十八の時一度捕まっているのに再び同じ過ちを繰り返したんだ。十八って言ったら十分に大人だろ。分別のつかないガキじゃあるまいし自分のやったことに責任を取って当たり前の歳だろ。なのに成人していないという理由で少年院送致。しかも一年ばかしで退院したと聞いている。その三年後、、、、、」
沢田は一度そこで言葉を切った。辛く苦しい過去を思い出しているに違いない。瞑目するその姿に刑事達は心痛を抱きながらそう思った。
「もし反省し改心していたら俺の妹を襲うことはなかっただろう。もし施設でちゃんと教育し直していたら、、、、でも、悲しいことにそうじゃないんだよな。あいつが同じ過ちを繰り返したのは施設の所為でもなければ罰の度合いの所為でもない。あいつは自分で犯した過ちを過ちと思っていない。だから反省するはずがないんだよ。悪いことだと思っていないから反省しない。そうなると当然のごとく改心などするはずもない。いや、出来ない。だから改善更生出来ないのは当たり前のことなんだよ。一度の過ちで立ち直る者はいる。勇気と強い意志を持って二度と同じ過ちを繰り返さないと更正の道をたどる者は少なからず存在する。そういう者達が間違って犯した罪は過ちだ。道徳的に、そして社会的に間違った行為とは言えど、その過誤は自分自身で気付く限り取り返しやり直せる。、、、でも二度同じ過ちを繰り返せばそれは最早過ちとは言わない。もうそれはそいつの人生であり生き様だ。そしてその生き方に何の疑問も抱かない。だから何度だって同じ事を繰り返すんだ」
強い口調が怒りの度合いを物語る。その語勢が刑事達に不安を与えた。
「だから早く連れてこい。俺が奴にきちんと罰を与えないとまた誰か犠牲者が出る。そうならない為にもこれは言わば必要な制裁なんだ」
沢田の目には怒り、悲しみと言った感情がはっきりと浮かんでいたが、心はやるせなさで充溢しているかのごとく頽廃的な情緒を表情全体に漂わせ捜査員達の心痛を誘った。
一体この男はどれだけの闇を抱えているのだろう。敢えて心を閉塞させ感情を不通にさせているのだろうか。人としての感情を枯渇せざるべく意志。何故この男はそうしてまで強い意志で決意を持たねばならなかったのだろうか。今の表情は夜叉のごとき形相だがどう見ても普段はどこにでもいる健全な青年だ。そんな一人の若者の人生を狂わしたきっかけたる不条理に刑事達は憤りを感じていた。
しかしだからといって目の前の男の取る行動に正当性はなく許すつもりはさらさらない。ただどうせならこの場を極力穏便に収束させ出来るだけ軽い罪で終決させてやりたかった。
「沢田さん、あなたの気持ちはわかった。だがやり方が間違っている」
「間違ってる?、、、、確かにあんたの言うように間違っている。でもいくら刑事だからと言って俺の気持ちはわからないっ!」
信念を持って強く言い切った刑事の言葉に対し沢田も負けず劣らず確信を持って強く言い返した。
「刑事さん、怪我や病気の痛みって当の本人にしかわからないんだ。たとえ医者だって患者の持つ本当の苦しみはわからない。それと同じで被害者が受けた痛みってのは本人以外誰にもわからないんだよ。俺の妹の受けた苦しみや負った悲しみは兄の俺であってもわからない。そして俺の悲しみも苦しみも」
確かにそうだ。被害者感情を簡単にわかると言ってしまったのは迂闊だったか。しかし想像は出来る。でもそれは理解では無く真の痛みに届かない。
「すまない、、、」
「あいつは俺の妹を殺しておいて六年で出てきた」
殺人罪ではない。あくまでも強制性交罪であり、その量刑は致し方ない。しかしあえて訂正はしない死との因果関係を立証するべきところではない。逆上させては元も子もないからだ。
「妹さんは本当に気の毒だった」
「だったら早く吉井をここに連れてこいよ。妹のことを本当に可哀想だと思うなら早く吉井をここに連れてこいよ」
若干声のトーンが上がり気持ちの昂ぶりが見えた。
「沢田さん、あなたは知らないかもしれないが吉井と奥さんは既に離婚している。だから吉井がここに来ることは無い」
「どうしてそう言い切れるんだ。あんな男と離婚した嫁さんの判断は賢明と言える。でも別れたからと言って親子の縁が切れる訳ではないだろう。この子が吉井の子である限り吉井は呼べば必ずここに来る。だから呼べよ。早く呼べよっ!そうしないと本当にこの子の命は、、、、」
沢田の口調ががらりと変わった。それに伴い表情も険しさが増した。しかしこの状況に対し刑事は沢田の放った怒声より更に強く声を張り上げた。
「出来ないっ!、、、、沢田さん、我々はあなたの要求を聞くわけにはいかないんだ」
刑事の強く言い放った断言は予期するところではなかったのか沢田は虚を突かれた様子で押し黙った。
「なあ、沢田さん。頼むからこれ以上その子を巻き込むのだけはやめてくれないか。あなたの意向にその子は、全く関係ない。それはあなたもよくわかっていることだろう。あなたの表情を見ていたらわかる。我々もだてに刑事をやっているわけじゃない。その人の表情を見れば本意かそれともそうではなく苦し紛れの偽悪心かがわかるんだよ。あなたがそれだけ苦しそうな表情をするのは何も妹さんのことだけが原因ではない。復讐心を貫き通すためとは言え、その手段に子供を巻き込んでしまっていること自体に心苦しさを覚えてしまっているんだよ。あなたの信念はぐらついている。そのぐらつきを必死で立て直そうと心を鬼にしようとしている。でもそれは所詮無理なことだって私にはわかる。これまで何人もの犯罪者を見てきた私にはわかるんだよ」
刑事はまっすぐと沢田の目を捉えている。沢田に目を逸らさせまいと熱い視線で。核心を突いた言葉で動揺が見えた沢田に刑事はさらに言葉を継いだ。
「沢田さん、あなたは罪を憎んで人を憎まずって言葉を知っていますか。私たち刑事はこの言葉の意味を深く心に刻み日夜職務の全うに努めています」
刑事の熱を持った視線は力強くただまっすぐと沢田を捉えていた。
「罪を憎んで人を、、、憎まず、、、」
「そうです」
「でもこの言葉って、、、おかしくないか?所詮他人事だから言えることだろ」
「いいえそれは違います」
「ちよ、ちょっと待ってくれよ。よくよく考えたらこれって綺麗事どころか犯罪者を擁護しているだけの言葉じゃないのか。そうだよ絶対そうに決まっている」
沢田の口調は最初とつとつとしていたが自身の言葉に説得力を感じたのか語尾はやたら勢いづいていた。黙っている刑事をよそに自信を持った沢田が言葉を継ぐ。
「よく加害者にも人権があるがどうのと言うけど、じゃあ被害者の人権はどうなるっていうんだよ。さっきも言ったように確かにきちんと向き合った上で罪を償い更生する者はいる。人を憎まず罪を憎めっていうのは性善説が前提で人は過ちを犯しても罪を償い改心し立ち直れる。その機会を与えるためにも罪を憎めって言ってるんだろ。でも吉井のように改心しない奴も実際にいる。そういう奴はどうなんだ?こいつらの人権って何なんだよ。立ち直り、やり直す機会?じゃあ明日を奪われた俺の妹はどうやってやり直せばいいんだよ。罪を犯した加害者に未来があって被害者には未来がない。こんな理不尽なことってあるか。おかしいだろ、罪を犯すのは人なんだ。あんたが言う憎むべき罪を犯すのは結局は人なんだよ。だったら憎むべきものは人だろ。罪を憎むんじゃなく人を憎むのが当然なんだよ。あんたここにきて加害者を擁護するような言葉をよく言えたもんだよな」
沢田は蔑むような目で刑事を見ると再び「早く吉井を連れて来いよ!」と怒鳴ったのだった。
「沢田さん!、、、」刑事はなおも沢田の目をまっすぐ捉えていた。
「、、、違う。この言葉は決して犯罪者を擁護するようなものでもなければ、他人事ととらえ虚飾したものでもない」
刑事は沢田にひるむことなく声を発した。気持ちと気持ちをぶつけ合う機と、この状況を捉え下手な小細工はせず本音の対応を心がけた。その分言葉は熱を持ち表情からも真剣さ以外の全てが消えた。
「、、、あなたはもう充分に苦しんだ。だからこれ以上の苦しみをあなたには味わってほしくないんだ。沢田さんあなたは罪を憎んで人を憎まずという言葉は加害者を擁護するためのものだと言ったが本当はそうじゃないんだ。これはむしろ被害者を守るためにある言葉なんだよ。教えてほしい、もし被害者が悲しみや苦しみから脱却するため怒りを罪ではなく人に直接向けたらどうなる。それこそ復讐心にかられその思いを成就させようとそれだけに身を投ずることになる。子供を人質にとっている今のあなたならわかるだろ。それがどれだけ辛く苦しいことか。しかもここでもしあなたが相手に危害を加えてしまったらどうなる。今まで被害者だったあなたが今度は加害者の立場に一転する。人を殺せばそれ相応の痛みを伴う。その痛み苦しみを一生背負わなければいけないことになるんだ。刑務所だってそうだ。殺人は大罪だ。もちろんそれなりの年数を食らうことになる。復讐を果たせばこうして被害者が加害者となり新たな被害者を生むことになる。罪を憎んで人を憎まず。人を憎んでしまえば被害者は更なる被害者になる。わかるかい。被害者は加害者になることで改めて新たな苦しみを背負う被害者になってしまうんだよ。なぜ辛く苦しい思いを続けてきたあなたが改めて苦しい思いをしなきゃならない。あなたはもう充分に苦しんだ。だから我々はそんなあなたを更なる被害者にしたくないんだよ。復讐を果たしてあなたの妹さんは戻ってくるのかい?あなたが新たな被害者になることを妹さんは望んでいると思うのかい?お願いだ。今一時の感情に流されないで欲しい。妹さんの未来は確かに閉ざされてしまった。でもあなたの未来を妹さんは信じている。そう思わないか。、、、、お願いします。妹さんを大切に思うようにあなたはあなた自身をもっといたわってあげてください。お願いします」
刑事の体が直角に曲がった。そしてその態勢をしばらく保ち続けた。
「妹の、、、大切、、、苦しみ、、、」
沢田は独り言のようにいくつかの言葉を呟きながら階下を覗き込むように焦点の定まらぬ目で俯瞰した。と、その時だった。ざわめきの中いくつかの怒号が六階にいる刑事たちの元に階下から届いた。と同時に虚ろな目をした沢田が右手に持っていた包丁を音をたててその場に落とした。子供が緩んだ手をほどき沢田から離れ駆け出した。刑事の一人が真っ直ぐ走ってきた子供を抱きかかえた。
「沢田―!」包丁が刑事の足で蹴られると同時に沢田の腕か背中で練り上げられた。
「確保!」刑事の一人が叫んだ。取り押さえられた沢田は神妙な面持ちでおとなしくしてはいたが虚ろな目をしてなぜかやたら階下を気にしていた。
非常事態の発生を示すべく怒声とざわめき。沢田の身柄を確保すべく懸命になっていた刑事たちもずっと気になっていたことだった。六階から望む景色の中一目でわかる砂糖に群がったアリのようなかたまり。階下では警察官の制服がいくつも重なりながらひしめくように蠢いていた。刑事の一人が無線で犯人確保の旨を伝えた。その報告の中いくつかの新たな展開を示すべく情報が寄せられた。
「えっ!?」無線を握った刑事が突然絶句した。一瞬にして顔色をなくすほどの狼狽を示しながら。その後何度か「ハイ、ハイ、、、、」とただ返事を返すにとどめ刑事は無線を口元から離した。刑事が連行される沢田の前に立ちはだかり、その場で止めた。悲痛な表情。
「お前は知ってたのか?」自然と声が震えた。沢田は顔を上げずただ黙っていた。周りの刑事たちは何事が起こったのか知らされていない。刑事が言った。
「たった今階下で吉井和雄さんが何者かによって刺された」刑事たちの表情がにわかに変わった。最初驚きに、その後怒りに。
「何が起こったのかお前は知ってるんだろう?!」
湾曲することなくまっすぐ沢田の目を捕らえる刑事の視線。
「どうなんだよ!」
しかし沢田は表情を変えることもなければ何も答えることもなかった。しかしその態度は言葉より雄弁に心情を語っていた。
「誰なんだ!?」刑事は言質をとりたかった。のちの調べで共犯と認定させるためだった。
「刑事さん、、、、」連行されながら沢田が口を開いた。周りを取り囲む警察官たちも黙認している。
「、、、さっきあなたが言った言葉は確かに被害者、そしてその家族を庇護するためのものだといえる。あなた方刑事が持つ信念に被害者やその家族を守りたいという気持ちが含まれていることもよくわかった。だから、、、、感銘した。でも復讐することでしか癒されないものってものがこの世の中にはあるんだ。復讐しない限り永遠に癒されない気持ちってものがこの世の中にはあるんだよ。こればかりは復讐以外何をどうしたところでなくならない。悲しいけどね」
沢田は泣いていた。エレベーターが音をなし一階に着いた。マンションを出ると何人もの捜査員が待ち構えていた。沢田が頭を押さえられパトカーに乗せられる。その一部始終を見ていた刑事が同僚に言った。
「もしかしたら時間を稼いでいたのは俺たちじゃなくてあいつの方だったのかもしれないな」
おそらく的を射た推測だろう。そうなると犯人は沢田の身内。
「まっ、いずれわかることだろう」
刑事は首を振ってパトカーに乗り込んだ。サイレンの前野次馬たちが道を開ける。
納得が行く行かないは別としてその後もたらされた事実。犯人は沢田の妹である結愛の夫、正。この義弟は頑なに沢田の関与を認めなかった。殺人罪で刑は十二年。報復殺人は下手をすると負の連鎖を引き起こしかねず罰則は厳しい。にもかかわらず良心的範囲の量刑に収まったのは情状の面を考慮され人情的判断を裁判官が下した結果と言えた。そして自らも関与を否定した沢田一郎は執行猶予付き判決に留まったのだった。
夕方仕事から戻るとポストに茶色の封筒が入っていた。触れた感じからして入ってても便箋一枚の薄さだったのでそれほど気になるものではなかった。ほかの郵便物と一緒にまとめ持ちカバンから家の鍵を取り出す。山田登は扉を開け静寂漂う暗闇の空間に「ただいま」と帰宅時の挨拶を告げたのだった。
リビングに入りソファーに腰を下ろすとネクタイを緩めた。袋の中から取り出したコンビニ弁当。五十も半ばを過ぎサラダなども健康を気にして合わせとるようにはなったが自炊にまでは至らない。何より登は料理がまったくできなかった。昔は食生活のことなど全く気に留めなかったがそれは別れた妻が料理学校にまで通い味はもちろん栄養バランスにまで気を配ってくれていたからだ。今になってそのありがたみが痛いほどよくわかる。だからというわけではないが別れて十二年が過ぎた今も家に戻るとつい「ただいま」と声を出してしまうのだった。
弁当を見て苦笑が漏れた。「まだ言ってるよ」ひとりごちた。十二年の歳月は長いのか短いのかがわからない。未だ無意識とは言え「ただいま」と言ってしまうことを考えたら短いような気もするが一人息子の拓哉に会えぬ事を考えると、とてつもない時間のように思えてしまう。別れた時拓也は十二歳だった。その小学六年生だった息子は今成人して社会人となっている。しかし登はその姿を遠目にさえ一度も目にしてはいない。望むらくは会って抱擁をかわしたいところだが、肝心の息子がそれを望んではいないのだ。妻と別れる原因を作ったのは登だった。ある事件がきっかけとは言え理不尽極まりない態度を妻にとってしまった。洗濯物のアイロンがけがなっていない。食事の味付けが悪い。言うに事欠いて悪態をつき、とるにたらない些末なことをあげつらった。それだけならまだしも一度ならず二度までも登は妻の明美に手を挙げたことがある。その二度目を息子の拓也に見られた。手を挙げたのは決定的だった。明美はそれで別れる決意を固めたのだろう。ただ明美はそれでもある部分懐疑的な見解を持ち合わせていた。
「本当はあなたが別れたかったんでしょ」だからなのか最後にこんな言葉を残した。もしかしたら自分でも気づいていない深層にある想いを明美は読み取っていたのかもしれない。最後の言葉はそんな風に思わすものだったし実際別れを切り出されたとき登は妙に諦念しどこか納得もしていた。あんなことさえなかったら自分は自分を壊さなかったのではないのか。自暴自棄になることで、そうして家族を壊すことで、自分を戒めようとしなかったのではないのか。責任転換と言われればそれまでだがあの事件は登にそうさせるだけの瑕疵を与えるに足る充分な出来事と言えるのだった。
リモコンを取ってテレビをつけた。ザッピングすると野球のナイター中継がやっていたのでチャンネルをそこでとめた。大阪生まれ大阪育ちの登にとって贔屓する球団は一チーム。パ・リーグはテレビ中継がほぼないため正直思い入れがなかった。打席に相手チームの打者が立った。ワンアウト二、三塁カウント二―二から渾身のストレート。打った瞬間打球の行方がわかる当たりに一夫は顔をしかめた。カメラが捉えた打球はなだらかな放物線を描きスタンド中段にまで届いた。七回表の攻撃。これで点差は七点にまで開いた。登はそこで一気に興味をなくすと共にポストから郵便物を取ってきていたことを思い出したのだった。
二通のダイレクトメールは一応内容を確認してから廃棄と決めた。請求書等はそれ専用の箱を用意してある。残すは一通の茶色い封筒。最初、感じからして郵便書簡の類かと思ったがどうやらそうではないらしい。まず切手が貼っていないことでそれに気付くと次に住所が記載されていないことに疑問を抱いた。”山田登様”宛名はボールペンで描かれている。しかしなぜか差出人の名前は表裏どちらにも記載されていなかった。
どういうことだろう。登は思わず首をひねっていた。結局のところ自分の宛名しか記載されていないのだ。これを踏まえると差出人は自分宛の封書を家にまで来て直接郵便受けに入れたことになる。そこにどんな意図があるのかその一計に考えが及ばない。しかしそこまで意に介するほどのものでもないのではないか。ペラペラの封筒の薄さが登にそう考え直させた。それに見れば答えは自ずと分かることなのだ。登は封筒の口をハサミで切るとふっと息を吹きかけ中を押し拡げたのだった。
案の定薄さに見合うたった一枚の便箋。登はそれを指で摘み取り出すと目の前で広げた。
”山田登様”段落を変えて”望み叶えます”
一応裏返しても見たが文字は他に見当たらず文面はそれだけに留まった。おのずと出るはずの答えが出てこなかった。そればかりか謎は余計に深まった。宛名がフルネームで書かれていることもあり、自分に宛てられた手紙だということはわかる。しかし”望み叶えます”だけでは誰が何をどのようにして望みを叶えるのかが分からない。それよりもまず一体何の望みなのか。もちろんこの望みにあたるものが自分のものであるだろうことは推測がつくが何の望みかまでは想像できなかった。
一体なんだったのか。いたずらにしては妙に手が込んでいる。しかしいくら考えたところで判断材料が少なすぎて答えを導き出すには無理がある。そう判断した登はとりあえず形状を記憶しているかのごとく意識をしないぐらいの力ですっと元に戻るよう折り畳まれた便箋を再び封筒に戻した。考えるのはよそう。早々に諦めるよう気持ちを切り替えた登はその場で衣服を脱ぎシャワーを浴びるため浴室へと向かったのだった。
それから五日後登は朝出勤途中にコンビニで買ったパンを自身の机上で新聞片手に頬ばっていた。朝家を早めに出るのはこのためであり、ゆっくり新聞に目を通すのは日課だ。入れたての熱いコーヒーと最初に目にする4コマ漫画が一時の安らぎを与えてくれる。そうして心を幾分和ませた後そのまま社会面に視線を移して行くのだった。
虐待、いじめ、自殺、日々凄惨な事件、事故は後を絶たず、いくつか並ぶワードに顔をしかめる。毎日のように悪逆な事件を目にしてもこれだけは慣れるものではない。それなのに明日になれば今日の事件は過去のものとなり記憶は上書きされてしまう。母が被害にあったオレオレ詐欺事件も今となっては過去のもの。ただ当事者やその家族にとっては風化されず一生傷跡として残るのだ。登の心にも大きな傷が薄れることなく今も残っている。登の人生を狂わした原因ともなる事件。登は虚空に向けていた視線を新聞に戻した。
思わずながら気持ちが過去へともっていかれることが度々ある。おそらく新聞の中にある事件そのものが誘引するのだろう。登は気分を改め新聞の記事に再び戻った。
そこで見つけた大阪市住吉区という地名。文字を追いかけていた登の目がぐっと押し開き意識がそこで止まった。それは馴染みのある地元で今も住む町だったからだ。そしてその後に現れた”大和川”と言うワードでさらに興味を惹かれた登は思わず新聞と顔の感覚を極端に狭めていたのだった。
大和川の川べりで見つかった刺殺体の身元が判明。被害者は同区に住む日下小次郎(40)。死因は刃物で胸部を刺されたことによる失血死。
そこまでの情報を目にした登は自分でも顔面が蒼白になっていることを自覚した。一応惰性で追った続きの内容が全く頭に入ってこずもう一度最初から読み返す。
十一月十六日午前六時頃近所の住人が犬の散歩でこの川べりを訪れた際、橋の橋脚部の裏に人足のようなものを発見しすぐ様その場所から携帯電話で110番通報した。その後駆けつけた警察官が橋脚部の裏で横たわる遺体を発見し事件が発覚した。
被害者は地元に住む日下小次郎氏40歳。死因は鋭利な刃物で胸を突き刺されたことによる失血死。後に刃物が心臓にまで達していたことが判明。死亡推定時刻は十五日の午後九時から十時。即ち発見された前日の夜と言うことになる。また争った形跡がない上人通りの極端に少ない場所柄から被害者と面識のある者の犯行である可能性が高いと警察は見ている。
登は思わず目を見張っていた。日下小次郎という名前。しかも年齢も記憶通り合致する。もしかしたら同姓同名か。しかし日下という苗字と小次郎という名前の組み合わせがその可能性を疑問視する。全国にどれだけ同じ名前の人物がいるのか。数はわからないまでも地元という場所の限定でその数字が限りなく低くなっていることは予想できた。最早あいつしかいない。登は確信めいたものを感じていた。しかしそうだとしたら刑期を全うし地元に戻ってきていたということになる。普通の感覚なら報道されるような事件を犯した者は後ろめたさから出所後地元に戻ることを避けるだろう。登は一瞬そう思ったが奴が普通の感覚の持ち主でないことを思い出し考えを改めた。登は嫌というほど奴の人格を知っている。
登は新聞を机の上に置き背後にある窓から切り取られた空を見た。青い空に浮かぶ真っ白な雲が網膜に像を結ぶ。しかし脳はかいま見るかのように時を隔てた過去の心象を心に映していたのだった。
時は十三年前。登の母よしこが特殊詐欺の被害にあい預金額のすべてである五百六十万円をだまし取られた。当時よしこは七十二歳で、長年連れ添った夫に先立たれており遺族年金で細々とした暮らしを送っていた。
遺族年金は生計を支えていた者の死亡後、その遺族に支給される年金制度だが掛けていた年数によって支給額が変わる。よしこの場合夫のかけた年数がそれほど長くなかったため満額に及ばぬどころか生活保護の支給額と大差ない決して満足のいく額ではなかった。
しかしながら小さいまでも家は持ち家でありつつましい生活にも慣れていたためよしこはこの状況を苦とすることなく一人息子の登にも頼らない生活を送っていたのだった。
それに多少の蓄えもあった。老後のためを思いこつこつと貯めてきたお金だ。よしこはそれを切り崩すことは一切せずわずかながらもさらに積み立てていた。今では孫の拓哉に少しでも多く残すことを目標としている。七十二歳という年齢から先行きに不安を覚えないと言えば嘘になるがそれでも孫の存在自体が不安を取り除くとともに希望が糊口を凌ぐ現状の生活にあっても満足を与えていたのだった。
ある日息子の同僚と名乗る男から電話がかかってきた。慌てるような急ぎ口調。よしこはいったい何事かとにわかに不安を覚えながら聞き耳を立てた。
意図する所の弱冠の間。男はあえて大きな深呼吸を電波に乗せた後息子さんが自動車事故を起こしたと深刻な口調で切り出したのだった。
男の語り口は慣れていた。今まで幾度となく同じ話を語ってきたのだろう。しかし動揺を感じさせてもその慣れを決して相手には悟らせなかった。
「しかし幸いにも怪我は大したことなく入院の必要もありません」
安堵を誘う言葉と声。よしこが話を間にうけ胸をなで下ろした時点で金が騙し取られることが決定づいた。
再び空いた意識的な間。それがゆっくりとした溜めとなり言葉の効果を演出する。
「、、、、しかしながら相手の方が怪我をしておりまして、このままでは裁判となり多額の慰謝料を請求され会社にも多大な迷惑を掛けてしまいます。おそらく発覚と同時に息子さんは会社を辞めざるを得なくなるでしょう、、、、しかしご安心ください」
一転した爽やかな口調は内容が違えばテレビショッピングでも見ているような気分を起こさせるものだった。よしこは男の言った”ご安心ください”という言葉にすがりつくようぐっと心を持っていかれた。
思わずごくりと唾を飲んだよしこにここが好機と踏んだ男がおもむろに言葉を継いだ。「、、、、今ならまだ弁護士を介し相手の方と示談交渉が可能です」
男はここでもあえて間をあけた。よしこが乗ってくることを前提とした計算高い意図した間だ。
「じゃあ登は会社を辞めなくても、、、、」
「はい大丈夫です、、、、しかし大丈夫なんですがそれにはまず先方と和解する必要があります。そのため登さんは相手との示談交渉にあたり、示談金を用意する必要があるんです」
「示談金、、、、」
よしこは男の話の途中”息子さん”から”登さん”に呼称が切り替わっていることに気付いていない。
「はい、、、ただ現在登さんは警察の聴取を受けておりまして相手の方と交渉することができません」
「じ、じゃあ、、、どうすれば、、、」
「お母様、ご安心ください。私が先程大丈夫と言ったばかりじゃありませんか。ちょうど私の同級生に弁護士をしている者がおります。その者には既に連絡を取ってあり後は示談金を持って交渉に当たるばかりです」
「でも、、、、」
「そうですね、確かにお母様がご不安になるのは当然のことだと思います。しかしこの示談金は後で必ず返ってくるものなんです。お母様はご存知かどうかわかりませんが、自動車には必ず加入しなければいけない保険があります。これは義務ですので当然会社の車にもこの保険は掛けられています。ですので事故の相手方に支払う示談金は保険金で賄われるものなのです。しかしながら保険会社には当然ながら手続きというものが必要です。そしてこの手続きには多少の時間がかかります。もしこれを待っていて相手方との示談が取れなかった場合、最初にも言いましたが登さんは会社をクビになる可能性が高くなります。わかりますか。とりあえず今は時間がありません。とにかく相手との交渉を早急にする必要があるんです」
一つ一つのワードは分かりやすく、しかし内容は理解しにくくするよう言葉巧みにたたみ掛けた。
「その、、、、示談金っていくらぐらい、、、、」
「失礼ですがお母様今どれ位の預貯金がお有りですか?」
五百六十万円。よしこは正直に答えた。そこからの男の話はマニュアルを読んでいるかのごとくであったが、最後に登先輩の力になりたいと会社の後輩を装う狡猾さを見せた。息子のため骨を折ってくれる親切な会社の後輩。ものの見事によしこは男に騙されたのだった。それから一週間が経った。よしこはその後の状況がずっと気にはなっていたがあえて登には連絡をとらなかった。事故を起こし下手をすれば会社もクビになっていたほどの思いもよらぬ事態にためらいと遠慮が生まれたのだ。それに連絡がないということは最悪な状況は免れたということだ。よしこの希望的観測とも言える都合のよい解釈がそんな風に考えさせた。
「あっ、登!、、、」ちょうどよかった。自分からは何か催促するようでかけにくかった電話だったが登の方からかけてきた。よしこは安堵で胸を撫で下ろすと共にこの際だからと聞きたかったことを素直に言葉にしたのだった。
「え、今なんて言ったの!」
登の声が思いの外上ずり詰問口調だったのでよしこは思わず黙ってしまった。
微妙な間の後流れた異様な空気。登はこれはただ事ではないと即座に判断した。
「母さん、とりあえず今からすぐそっちに行くから待ってて」
よしこが何か言おうとしたが登は構うことなく電話を切った。そして妻の明美に母のところに行く旨を伝えると、すぐさま車を走らせたのだった。
夜の八時を回ったところ。道は思ったより空いていた。登はそんななか焦燥感に駆られ思わずスピードをあげていた。頭には先程母から聞いたいくつかのワードが存在感を示しながら浮かんでいる。会社、車、事故、そして示談金。登はこれらの並びがどうだったのかまでは憶えていない。しかしよしこの話はとりとめがなく要領を得ないまでも幾つかの単語がある着地点へと導いていた。
「母さん!」登は車を玄関前に止めると急いで家の中へと入った。居間で身を縮めるような母の姿。登は挨拶もろくに交わす事なく単刀直入に話を切り出した。
訥々として語る母よしこの話。途中いくつかの質問を挟んだが、ことごとく悪い答えが返された。何故だ。一体なぜそんな話を鵜呑みにしたのだ。冷静になって考えれば判ることだろうに。それでなくとも未だ特殊詐欺の被害はなくならない為、毎日のようにテレビや新聞などで注意喚起を促しているではないか。ここにきてなぜ簡単にそんな手に引っかかるのだろうか。登には目の前に突きつけられた現状がどうしても信じられず現実感が伴わなかった。ただ未だ特殊詐欺被害が無くなっていないのも事実。それは被害者を生み続けているということなのだ。しかし興奮している登にはそこまで頭が回らなかった。そして向けるべき相手を間違えた怒りをそのまま母へとぶつけた。登のまさかの応対に、よしこは訳が判っていないまでも状況が悪い方に向かっていることだけは理解できた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。悪気はなかったの、、、悪気はなかった、、、、の」
あまりのことに理性を失い暴言をぶつける息子によしこはなす術無くただただ謝るのだった。
その時間が後になって苦痛となることも知らぬ登。しかも永遠という長さの苦痛。
すぐに警察に被害届を出した。同情はしてくれたが犯人逮捕の確約はしてくれなかった。
当然だ。このまま泣き寝入りというケースも少なくないという受け入れがたい現実をそれとなくほのめかしもされた。もちろん全力は尽くしてくれるだろう。ただ現状と真実を伝えてくれただけだ。余計な言葉のようにも思ったがそれでも諦めと覚悟をそれなりに持てたような気がする。登はそれでも気落ちする母に労りの言葉を掛けられずにいた。頭ではわかっている。こういう時こそ慰めの言葉が必要なことを。しかしながら甘えなのか性格なのか、育ててくれた恩を受けているにもかかわらず、事あるごとにネチネチと言葉で母を責め立てた。なぜ一本自分に確認の電話を入れなかったのだろう。たった一本だ。その簡単で手軽さが余計に登の気持ちを逆なでた。しかも自分を好餌とした策にまんまと引っ掛かったのだ。そこが余計に腹の立つところでもあった。しかし裏を返せば母は息子の事だからこそせっかく貯めていた預金の全額を使用する覚悟を決めたのだ。
あとになればわかる。しかしその時は分からなかった。
冷静になればわかる。しかしそのときは冷静になれなかった。
それから二週間。詐欺被害にあって一ヶ月。母は自ら命を絶った。家の居間、父の仏前で首をくくって死んでいた。
何か予感めいたものはあった。それまでの愚行を反省し母に詫びたいと思っていたのかもしれない。登は母の好物であるどら焼きを持参し実家を訪ねた。
呆然と立ち尽くした。目の前の光景に我を失った。救急車を呼んだ。しかしその事も、その後の事もよく憶えていない。これは後になっても思い出せぬ記憶で頭からすっぽり欠落している。嫌な出来事として脳が処理を怠ったのかもしれない。
何故だろう。何故優しい言葉の一つも掛ける事ができなかったのだろう。実に簡単なことだ。その容易さゆえ、できなかった己の不甲斐なさが情けなく、どうしても自分を許せなかった。
特殊詐欺が母を死に追いやった原因ではあるが、追い詰めたのは紛れもなく自分自身なのだ。登は自己嫌悪に陥った。
この時を境に登の人格が変わった。妻に当たり会社まで辞めた。挙句の果ては妻に離婚を切り出されそれを承諾した。幸せになってはいけないような気がした。自暴自棄になった登は幸せになることを自ら放棄したのだった。
登は毎回裁判に赴くと傍聴席の一番前に座った。そこからだと被告人席に座る日下小次郎の表情がよく見えるからだ。日下は毎回上下共に白のスウェットというラフな出で立ちで傍聴人たちと決して目を合わせようとはしなかった。
被害件数、額、逮捕された人数の多さにマスコミはこぞって事件を取り上げ当然の如く新聞やニュースでも報道された。起訴された件数だけでも軽く二十を超えている。従って傍聴者の数も多いし罪状認否の回数も多く登の傍聴回数も今回で八回目となっていた。二十四件の起訴事実。そこに億を超える被害額。感覚が麻痺してきているのか登はもうこの時になると多少のことでは驚かなくなっていた。淡々と進む裁判。しかし被告人尋問で検察官があることを述べた時、それまでほぼ目線を上げなかった被告人が挑むような鋭い眼差しを尋問する検察官に向けたのだった。
「あなたは被害者の一人である山田よしこさんをご存知ですか?まあ知らないのも無理はないでしょう。何せこの被害者の方に電話をかけたのも、そしてお金を受け取りに行ったのもあなたではないのですから。そら仕方のないことです。でも名簿などを用意して指示を出したのは誰ですか?紛れもなくあなたご自身です。そしてその指示に従い計画を遂行したのは命令には絶対に服従のあなたの部下達です。だからあなたは騙し取った金額が五百六十万円だということは認識していても騙し取られた被害者のことは、顔も、声も、性格も認識してはいなかった」
「異議あり。検察側の質問は事実を誇張し述べているだけに過ぎず話の意図が見えません」
「弁護側の異議を認めます。検察側は質問の内容をもう少し明確にしてください」
登のまなざしは真剣だった。それもそのはず今この法廷で母のことが取り上げられているのだ。日下は今どんな心境なのだろうか。反省し悔い改め被害者に対し申し訳なさを抱いているのだろうか。登はそこがどうしても知りたかった。
「大変失礼いたしました。確かに今のはご指摘のように意図が見えず質問形式になっておりませんでした。ですので改めて我々が今一番聞きたいことを率直に質問させて頂きます」
そう言うと検察官は裁判官に一礼した。どことなく演出めいたわざとらしさが伺えた。
「それでは改めまして日下小次郎さんにお尋ねします。あなたは被害に遭われた山田よしこさんをご存知ですか?」
この質問に日下が答えた。
「名前は知ってます。ですが、さっきあなたが言われたように顔も声もそして何でしたっけ、髪型?いやスリーサイズ?あっ、ちゃうちゃう性格や。そやそやその性格含め正直何も知りませんわ」
この状況で見せるふてぶてしさは殊勝な態度からはかけ離れたものだった。いくら検察官の質問が腹立たしいものであったとしてもこの答弁はあまりにもひどすぎる。さすがに裁判官を意識した弁護士も表情がにがりきっていた。
登はこんな日下から反省の色を少したりとも見い出すことができなかった。
「そうですか、いやそうでしょうね。じゃあ当然のこと山田よしこさんが今何をしておられるのかもご存知ない?」
答えるのが面倒くさいのか日下はただ横着に首を振った。不遜な態度に悪びれるそぶりは一切無い。それどころか嫌悪感を全く隠そうともしなかった。
淀む空気。余儀なく開いた沈黙の間。それを検察官がよく通る大きな声で破った。
「よく聞いてください!」
それまでどこかおどけてでもいるような口ぶりだった検察官の口調ががらりと変わった。
それに伴い表情も笑みを一切引っ込め、厳しい顔つきとなった。
「山田さんは、、、、山田よしこさんはあなたに全財産を奪われたことで自殺しました」
法廷が一瞬にして水を打ったように静まり返った。静寂が否応なしに耳につく。思ってもみない成り行きにこの場に居る全員がどう反応してよいのかわからずにいた。
裁判官は呆然とした。弁護士は愕然となった。そんな中日下だけは苦虫をつぶしたような表情で眉間に皺を寄せたのだった。そして、、、チェッ。
法廷内はよく音が響く造りになっている。それでなくとも裁判中。しかもたった今驚愕の事実を知らされ静寂の中意識を取り残されていたところだ。日下の舌打ちは誰の耳にも届くこととなったのだった。登は思わず立ち上がっていた。そんな登に一瞥をくれた日下が検察官を睨みながら声を荒げた。
「そんなん俺と関係ないやんけ!」
「関係ない!?あなたのせいで人一人の命がなくなっているんですよ。それでも関係ないと、、、、あなたはよくそんなことが言えましたね!」
検察官の剣幕に気圧されたのか日下は浴びせられた罵声に言い返すことはしなかった。
ただ、、、、下を向き誰にともなくこう言った。
「なんで今やね、、、、どうせやったら裁判終わってから死ねや」
裁判官や検察官のいる場所からこの言葉が聞こえたのかは分からない。しかし傍聴席の一番前に立つ登は、はっきりと聞き取っていた。
「人殺し!」もう一度叫んだ。裁判官も遺族であることを察したのか注意しようかしまいか迷っているようだった。
登は自らその場を離れ退廷した。あの場所にいてこれ以上自制する自信が持てなかった。
「課長、、、、山田課長、、、」ハッとして馳せていた思念から意識を戻した。
たたずむ女子社員を認め目の前に出された書類を慌てて受け取る。
「確認お願いします」女子社員は尚も怪訝な表情を向けている。
登は体裁を繕うかのように鷹揚に頷くと壁にかかる時計を確認した。始業時間を二十分過ぎていた。まさか、とにわかには信じられない針の位置に多少の驚きを覚えると共にそれだけの時間回想していたことに大きく驚く。そして書類にほぼ目を通すことなく捺印するとそのまま決済箱に放り込んだ。
引き出しを開け書類を取り出し机上に並べた。こうしておけばある程度のごまかしはきく。それにしても新聞の記事にあった日下とは本当にあの人物のことなのだろうか。ほぼ間違いないと思いながらも確信までには至らない。あれから十三年。長いようで短く、短いようで長いその年月の間、さまざまなことがあった。そのさまざまな出来事を考えると時の流れを早く思うが、未だ癒えぬ悲しみ、怒り、苦しみを思えばつい昨日のことのように事件を思い出し十三年の隔たりを感じることができなかった。
十二年の判決。その量刑は重いのか軽いのか。詐欺罪としたら充分な重さととれる。しかし人の命を奪う可能性を秘めた犯罪だと認識すればもっと厳罰に処しても良いぐらいに思える。この十二年の間に日下は改心したのだろうか。もし改悛の情を沸かせ改めて人生をやり直そうとしていたならば十二年という歳月が無駄ではなく罪に見合った刑ということになる。しかし登には分からない。命の重さをあれだけ軽視していた男がそう簡単に心を入れ替えるとも思えなかった。でも、もし新聞の被害者が日下だとしたら何故やつは殺されなければいけなかったのだろうか。あいつが犯した罪は詐欺罪だ。したがって金を騙し取られた者は多数いるが、殺意を抱くまでには至らないような気がしてならない、、、。母を亡くし悔しい思いを抱く自分を除けば。だが自分はやっていない。それは自分自身が一番良く知っていることだ。もし機会があれば手をかけようとしたかもしれない。しかしそんな機会が訪れることは皆無に等しい。十年を超える長期刑に処された者のゆくえを知る術などありはしない。出所後の居住地も調べようがなく知ることなど不可能なことなのだ。現に奴が地元である住吉区に戻って来ていた事など全くもって知らなかった。
じゃあなぜ?。、、、登はそこで考えた。じゃあ日下を殺した犯人はどうやって奴の居場所を特定できたのか。まさか行きずりの犯行ではないだろう。その可能性もなきにしもあらずではあるが、怨恨や何かのトラブルと考えた方が日下の人物像に当てはめやすい。
登は色々と想像を膨らませたが、どうしても適当な答えを導き出せなかった。
まあいい。何にせよあいつが死んでくれたのなら、その何者かに感謝せねばならない。
登は思った。自分はこうなることを望んでいたのだ。殺してやりたい。その思いはどこか不可能な事だと認識しつつの願望であり、実際に手を下せるとは思っていなかったであろう。したがって殺してやりたい気持ちはあってもそれはただの望み。
「あれっ、、、」登は再びハッとなり虚空に視線を彷徨わせた。五日前自宅のポストに入っていた宛先のない茶封筒。その中に収められた一枚の便箋に記されていた言葉。
”望み叶えます” いや、まさかな、、、。
登は我ながら余りの突飛な発想に思わず苦笑を漏らした。
いくつかの席から感じる好奇な視線。登はわざと大きめの咳払いでそれらを払いのけた。さて、そろそろ溜まった仕事に取り掛からないといけない。登は手にした書類に目を通していく。この時始業から既に四十分が経過していた。
午前六時四十分。この時間帯に鳴る携帯の用件は限られている。リビングのソファーに座り新聞を広げていた杉下は果然スマホの画面に表示された高杉係長の名前に納得しながら電話に出た。
「杉さんか、、、、、。住吉区にある大和川の河川敷で男性の死体が発見された。すぐに現場に来れそうか」
高杉は大阪府警本部捜査第一課の五係をまとめる班長だ。杉下はすぐ行く旨を伝えると手帳に詳しい住所をメモ書きした。
家をすぐ飛び出しタクシーに乗り込んだおかげで朝の渋滞に巻き込まれることなく割とスムーズに現場に到着することができた。料金を支払ってタクシーを降りる。警察車両の周りを野次馬達が遠巻きにしており警察が動いている慌ただしさとは別の喧騒も伺えた。中高年の男女に混じって通学途中の中学生らしき一団も現場の方に興味津々と目を輝かせている。河川敷に下りる階段の所には制服警官が立ちものものしさを漂わせていた。杉下は制服警官に警察手帳を示し階段を下りた。
大和川は一級河川に指定され大阪湾に注水している。そのため川幅は割と広い。橋のたもとにはブルーシートが広げられ遠くからでは詳しい様子が窺えない。カバンの中から白手袋を取り出してはめると更に奥の現場へと足を踏み入れたのだった。
橋脚の裏何人か人が群がっていた。高杉係長と五係の同僚。他にもスーツ姿の男たちが数人。これは所轄署の刑事だろう。それとは別に何故か明らかに装いの違う一人の老人が立っていた。
「杉さん、、、、」高杉が声を掛けてきた。
「遅くなりました、奥行けますか?」橋脚の裏を指差した。
「もう少しかかるみたいだ。今第一発見者から話を聞いている」
高杉と一緒に隣に立つ老人が会釈してきた。杉下もそれに倣う。
「この近所に住む方で日課としている犬の散歩を朝から行っていたそうだ」
「そうなんですよ。いつもはこの河川敷を西にまっすぐ行くだけでここまでは立ち入らないんですけど、今日に限って犬がやたら吠えたもんで」
老人はそう言って犬の赴くまま現場に引っ張っていかれたことを強調するが如く説明した。ワンッという泣き声が聞こえる。今は所轄署の刑事にリードがたくされているせいか、やたら吠えじっとしていない。先程からリードを持つ若い刑事は犬を宥めるのに必死の様子だった。
橋脚の裏から鑑識課員が出てきた。杉下も知っている顔だ。「どうぞ」声を掛けられ杉下は橋脚の裏に回った。男性がうつぶせに倒れていた。橋脚の裏ということもあり道路からこの遺体は目に付きにくい。だとしても普通犯人の心理からして何かを被せるなりして遺体を隠そうとするのではないか。杉下はその点がまず気になった。
杉下は被害者の横にしゃがみ込んだ。胸部を鋭利な刃物で刺されたことによる失血死。死因は判明しているが所持品が一切なく身元が判明していないということだった。
「ラフな服装ですから端からそれほど荷物は持っていなかったんでしょうが、現金や家の鍵、あとスマホが無いってのは気になりますね」
杉下は遺体から離れた。
「おそらく犯人が全部持って行ったんだろう」。高杉も同調した。
「もしかして身元を隠すためですかね?」
「もちろんそれも考えられるしただの物取りとも考えられる」
高杉がそう言った所で先程から犬のリードを任されていた所轄署の刑事が「すいません」と少し離れた所から誰にともなく声を掛けてきた。その隣で老人が神妙な面持ちをしている。杉下が「何だ?」と言ってそちらに赴くと「あのー、話があるみたいなんですけど」と若い刑事も右に倣えと言わんばかりに何故か神妙な面持ちを作っていたのだった。
「今ですね、ちょっとお話を伺っていたんですけど、、、、」
「何だ、言いたいことがあるならハッキリ言え」
杉下はじれったくなり語気を荒げた。すると見かねたのか第一発見者である老人の方がとりなすように割って入った。
「いや、違うんです。私も聞かれなかったって言うか何と言うか」
こちらの話も要領を得ない。しかし刑事であるとともに強面の杉下が一般人を相手に激を飛ばす訳にはいかなかった。
「あのですね、この方が被害者の身元を知っているらしくてですね」
「何!どういうことだ?」杉下が若い刑事の方を向いて問い詰める。
「いや、実は通報したあと気になって遺体を見ちゃったらしいんですよ」
「じゃあ遺体に触れたって事か?」
「あっ、いえ触れてはいません。うつ伏せにはなっていましたが顔は横を向いてましたんで。そうですよね?」
若い刑事が聞くと老人は観念したように小さく頷いた。老人は警察への110番通報の際、橋脚の裏から人足のようなものが見えると伝えたらしい。しかしその通報後興味にかられ遺体を確認してしまっていた。血に染まる惨殺死体。その現場に足を踏み入れてしまったことで捜査に影響を及ぼしてしまうのではないかと懸念した。それで今まで遺体の身元に心当たりがあるにもかかわらずそれを打ち明けられずにいたのだった。
「私この近所で妻と二人で中華料理の店をやってまして、、、、、あの遺体の人の所に何度か出前を届けた事があったんですよ」
「そ、それって間違いなくあそこの遺体の方なんですか?」杉下が尋ねた。
「間違いないと思います。つい先週も届けたばかりですし、気さくな方で行けば必ず二言三言、言葉を交わしますので。それに、、、、、」
老人は少し躊躇いを見せた後言葉を継いだ。
「、、、、いつもお釣りは受け取らなくてタバコでも買ってくれって、時に二千円もいかない金額に五千円くれたりして」
三千円以上のチップ。これはかなり珍しいことと言えるだろう。老人が被害者を覚えていると言うのも頷ける。それから老人は出前をしたマンションの場所を説明した。名前は日下と言っていたらしい。これは大きな手掛かりであり進展と言えた。この後老人には更に詳しい話が聞きたいということで所轄署まで同行を願い出た。
「おい若いの、、、、」杉下が緊張しきりの若い刑事を呼んだ。それでなくとも人間凶器のような顔つきの杉下は目尻の横に縦に長い創傷まで携えている。若い刑事は恐縮した様子で声高に返事した。
「よくあの老人から今の話を聞きだしたな」
元々老人から事情聴取していたのは杉下と同じ五係の班員であり、刑事として優秀な猛者だ。いかに聴取の途中ではあったとしてもこれだけ大切な話を今まで聞き出せていなかったことは不手際と取られても仕方がない事象だ。それを踏まえると今目の前にしている若造の機転を褒めるべきなのか。
「いや、たまたまです。あの方はずっと今の話をするつもりではいたようです。その相手が偶然僕になったというだけで」
謙遜か。的確な質問をしない限りなかなか肝心な答えは引き出せない。それは鋭い観察眼や洞察力があってこそのものであり杉下は偶然ではなく必然と考える主義の持ち主だった。「まあいい、名前は?」
「あっ、申し遅れました。住吉署の太田と申します」
「太田?」杉下の表情が俄かに変わった。目の前に佇む太田の顔をまじまじと見つめる。
「はい、太田 大。大って書いてまさるって言います」
「太田、、、、もしかして太田さんの?」
「はい、父は捜査一課の刑事でした。もしかしてご存知なんですか?」
「ああ、お世話になった三期上の先輩だ」
そこでお互い後の話に続く言葉が見つからず会話が止まった。
「杉さん、、、、」高杉係長が声を掛けてきた。杉下は太田との会話を打ち切った。
「胸を一突きってどう思う?」
「場所からして間違いなく顔見知りの仕業でしょう。そうでないと胸を一突きってのはある意味鮮やかすぎます」
「そうだよな。まだ死亡推定時刻ははっきりしないもののおそらく夕べ夜間に殺されたのではないかと鑑識も言っていた」
「夜間この附近は極端に人通りが少ないらしいですからね」
「ああ、それを踏まえると犯人と被害者は面識があり何らかの理由でここで会っていたことになる。待ち合わせか、それとも一緒に訪れたか」
「まあそう考えるのが自然でしょう。それに全く抵抗した形跡がないっていうのも解せないですが、それはそれだけ咄嗟の事であり被害者は全くもって予想していなかったってことになります」
「まーあれだな、そこら辺は付近の防犯カメラを解析していけば判ることだろう」
「そうですね、とりあえず今ここであれこれ言っても仕方ありません。とりあえず署に行ってからにしましょう」杉下と高杉は歩きだしパトカーに乗車した。
既に住吉警察署の前には報道陣の車両が何台か停まっていた。署内にある講堂では若い刑事たちが長机を運ぶのに大忙しである。特別捜査本部の開設にあたりその準備の中杉下は陣頭指揮を任されていた。五係の片桐が講堂に入ってきた。まっすぐこちらに向かってくるのだから自分に用があるのだろう。その杉下の予想通り片桐が開口一番用件を伝えてきた。
「杉さんすいません。係長がお呼びです」
「わかった、じゃあ後は任せていいか」杉下は片桐に言って出口に向かった。
「杉さん、今回の事件長引きそうですか?」片桐の言葉に振り返った。
「お前はどう思う?」
「何だかんだ早く決着が付くような気がしてるんですけど」
「なんだ、それはお前さんの勘か?」
「はい、刑事の勘ってやつですか」
「嘘つくな、ただの希望的観測だろ」杉下が笑った。
「いやー、おふくろが先月怪我しちゃいまして入院してるんですよ」
「そりゃ心配だな」
「はい」
「お袋さんお幾つになられた?」
「もうすぐ六十七です」
「そうか、それで怪我の具合は?」
「ハァー、、、」
溜息の具合からしてあまり良くないらしい。杉下はそう感じた。
「あっ、それより杉さん早く係長のところに」
「あっ、そうだったな。お袋さん大事にしろよ」
そう言葉を残して杉下は足早に講堂を後にしたのだった。
刑事課の部屋には府警本部の一課長、管理官、住吉署の署長、刑事課長など幹部が集まっていた。これから捜査本部の陣形を考えるのだろう。そこに高杉の姿もあった。
「杉さん、もうすぐ被害者のご家族が来られるそうなんだ。悪いが立ち合ってやってくれないか」
被害者の身元は判明しており既に家族とも連絡がついていた。遺族から話を聞くのは気が重いが誰かがやらねばならない。
「わかりました」杉下は即答した。そうして家族の到着を受付横にあるソファーで待つことにしたのだった。
三十分もかからずその時は訪れた。きょろきょろと中を窺うようにして一人の女性が扉から入ってきた。四十歳という被害者の年齢からすると幾つか上の姉のように見える。てっきり両親が訪れるものだとばかり思っていた杉下だったが、そういえば誰が来るかまでは説明を受けていなかった事を思い出した。ただの思い込み。こういった状況では遺体に親が泣いて縋り付