少し変わった喫茶店
森川が連れてこられたその場所は、住宅街の端にある木々に囲まれた古民家だった。
鬱蒼としげった木や草花は風が流れるたびにさわさわと音を立てていて、木の合間からはぽっかりと夜空に浮かぶ三日月が見える。住宅街から少し外れて街灯が少ないせいか、夜空の星と月の光をいつもよりも強く感じた。
(なんかジ◯リみたいだな)
森川の最初の感想はそれだった。住宅街から少し隔絶された喫茶店の外観と空気には非日常的な雰囲気がある。
ひんやりとした秋の終わりの心地よい冷気を感じて、森川は隣の友人を見やった。
「いい夜だねえ」
「そうだな」
答える孝介はすでにどこかほっと落ち着いたような様子だ。見慣れない友人の姿を不思議に思いながら、森川は喫茶店の看板に目を向ける。
『喫茶 裕次郎』
(店名渋いな)
森川が某昭和俳優を脳内で浮かべてる間に孝介はさっさと店の戸を引いて中に入った。森川が慌てて孝介を追うと、思わず目を丸くする。
「裕次郎さん!」
喜びを含んだ声をあげたのは孝介だ。友人がここまで感情をあらわにする事は少ない。
しかしそれにも納得がいった。
店の戸を引いて現れたのは、店員ではなく一匹のゴールデンレトリーバーだ。金色のふさふさ艶艶な毛並みに、大きくてつぶらな黒い瞳。孝介を待ち焦がれていたかのように、嬉しそうな様子でお座りしながらこちらを見上げていたのだ。
「今日も出迎えてくれたのか!」
破顔した孝介はすぐに屈んで犬を撫でた。撫でられた犬は嬉しそうに孝介の手に頭を擦り寄せる。
「これが看板犬?」
「ああ。裕次郎さんだ」
「ここの名前と一緒なんだね」
「このお店の先代の名前を、お店と裕次郎さんが継いだんです」
森川と孝介の会話に、幼さを含んだ可愛らしい声音が乗っかった。
声の方向に目を向けると、シャツとエプロンを着こなした小学生くらいの少女が立っていた。
小学生!?と驚いた森川は、先ほどよりも目を丸くして言葉を失う。
「いらっしゃいませ。四宮さん、そちらの方はご友人ですか?」
「単なる腐れ縁だ」
孝介も顔を上げると少女に笑いかけた。慣れ親しんだ穏やかな笑みだ。常連になっているのは本当なのだろうとやりとりを見ていれば分かる。
少女は改めて森川を見上げて「いらっしゃいませ、こんばんは」と微笑んだ。長身の森川と幼い少女の身長差は40センチを超えていそうだ。
「こんばんは。コウちゃん…えーと、この目つきの悪い眼鏡の友人の森川です」
戸惑いながらも悪戯っぽく言うと、横から孝介の拳が飛んできた。痛い。
「誰の目つきが悪いってんだ、誰の」
「その凶悪顔でよく言えるね!!」
「ああん?」
軽口の応酬に、少女はクスリと笑う。
「席にご案内しますね。いつものお座敷で大丈夫ですか?」
「ああ」
「こちらへどうぞ」
案内は孝介にではなく森川にであろう。孝介は勝手知ったると言わんばかりにスタスタと歩く。
広めの店内はカウンター席、テーブル席、座敷とある。カウンターには2人、6つあるテーブル席は家族連れ1組とカップル1組、会社帰りらしき中年1組とそこそこ埋まっていた。
座敷は全部で3席に分けられており、案内されたのは一番奥側だ。
その通りすがりに、カウンターの男2人が振り返った。
「クソ眼鏡また来たのかよ」
日本酒の瓶を片手に持った、40代の男が顔をしかめた。無精髭に甚平姿の男は、すでに出来上がっているようで顔が赤い。
「てめえこそなんだって毎回いんだよ。ここに住んでんじゃねえのか。仕事しろよ仕事を」
「うるせ~。俺は飲むのが仕事なんだよ」
「シノミーさんこんばんは。今日のおすすめは鱈のホイル焼きだよ!すごいおいしかったよ!」
酔っ払い男の隣に座る30代前半くらい、つまりは自分たちと同年代ほどの青年が、無意味な問答を遮るように孝介に笑いかけた。
特徴の無い顔立ちだが青年の持つ雰囲気は柔らかい。こんな風に微笑まれたら、初対面だろうと大抵の人間は気を許してしまうだろう。
椅子にかけられたスーツから、会社勤めだろうと予想ができた。ただ、あまり職種は読めない。それは甚平姿の男にも言えた。
「鱈のホイル焼きか、うまそうだな」
森川の内心はつゆ知らず、孝介は幾分柔らかな表情で返した。青年の雰囲気からなのか、鱈のホイル焼きによるものかの判別はつかないが珍しいことである。
「その人はシノミーさんのご友人? 初めて見るけど」
「ただの腐れ縁だ」
「森川です。彼とは高校時代からの友人でして。職場も一緒なんですよ」
「へえ。それは面白いね。僕は清水基です。よろしく」
「よろしくお願いします」
軽く挨拶を交わした森川は、名刺を取り出そうとしてやめた。せっかく寛いでいるのに邪魔をするのは忍びない。
森川が挨拶している間に孝介はさっさと席に着いてしまったので、森川もそれにならった。短気の孝介は待つことを知らないのだ。
着席と同時に、少女がお冷とおしぼりを持ってきた。いつの間にか案内を孝介に任せて準備していたようだ。
「失礼します」
森川は少女の手際の良さに感心した。
自分がこの年の頃はもっとろくでもないクソガキだったはずだ。
「メニューが決まりましたらお声掛けください」
少女は森川に言うと、孝介に視線を投げる。
「四宮さんはどうしますか?」
「今日は飲みたいからとりあえずビール。あとさっき基が言ってた鱈のホイル焼き。あと2種類くらいつまめるものをよろしく」
孝介の慣れた様子に森川は呆れた。
「コウちゃん、もしかして毎回メニューも見ずにこの子に決めてもらってるの?」
「うるせーな。早希ちゃんのおすすめは間違いないんだからいいんだよ」
短気ここに極まれりである。自分たちから2回りほど離れた子供に思考を委ねる大人はなかなかいない。
「ごめんね、この人めんどいでしょ」
「大丈夫ですよ!いつも美味しそうに食べてくださいますから」
ふわりと笑う少女に森川は虚をつかれた。これはその辺のダメ大人よりもしっかりしてそうなお子さんである。
「出来た子だなあ。あ、あと俺もビール。とりあえずから揚げと出し巻き卵お願いするね」
また呼びつけるのもなんなので、森川はサクッと決めて注文をした。
「かしこまりました。四宮さん、今日って食べ物、お二人でシェアするんですよね?」
「ああ」
「森川さんは苦手な食べ物やアレルギーはありませんか?」
「納豆くらいかな。ほかはなんでも」
「かしこまりました。それでは少々お待ちください」
「ああ」
少女を見送った孝介は、そのまま席にはいなかった。
さりげなく後をついてきた犬の裕次郎に近づくと、座敷から足を投げ出して触り始める。
「おとなしい犬だね」
孝介の手に完全に身を委ねている犬は、幸せそうにふすふすと鼻を鳴らしていた。
「言うこともよく聞くいい犬だよ。小出もこれくらい賢くなればいいんだけどな」
「部下に対してひどい言いようだ」
森川は呆れながら、ふと窓の外を眺めた。丸く切り取られた窓から、三日月が見える。
程よく人がいて、楽しげな声が飛び交っている。
大衆居酒屋よりはほんの少し静かで、普通の喫茶店よりはほんの少し賑わってる店内は居心地がいい。
すっかり犬にかかりっきりになった友人は無視して、森川は改めてメニュー表を見た。
「それにしても喫茶店とは思えないくらいお酒の種類あるね」
「常連の酒飲みに増やされたってマスターが嘆いてたな。俺としては助かるけど」
「確かに。あ、コーヒーも種類多いね」
「うまいぞ」
孝介の言葉に森川は目を見開く。
「こうちゃんがコーヒーの味が分かる、だと…?」
「お前俺をなんだと思ってんだよ」
「効率重視ゆえの味覚バカ」
「殴るぞ」
言葉は冷たいが、孝介の手は裕次郎をやさしく撫で続けている。ゆえに迫力もなにもない。
(なんか不思議な感じだ)
孝介とは長い付き合いだ。こんな風に会話もほとんどなくダラダラ過ごすことは珍しくもない。けれど、どこか懐かしい気がした。
学生時代と社会人との隔たりは、余裕が無くなるところにある。
休日に気を抜きたくても携帯が気になるし、ふと仕事の事を考えてしまう。
寛いでいてもどこか気を張ってしまってしまうのだ。
「こうちゃん、俺ここ好きだな」
ポツリと森川が呟くと、フッと孝介が笑う気配がした。
「お前、その台詞はメシ食ってからにとっとけよな」
その声音は、嬉しそうに柔らかかった。