夏の終わり
その日、四宮孝介は疲れていた。
いや、疲れていたのはもうずっと前からだ。
死ぬかと思ったのは特にこの3週間である。
数ヶ月かけた大口の取引先相手との商談がまとまった中で、やっと使い物になりかけていた新人が逃げ出した。
唐突に来なくなった常識のなさを責める気持ちと、この忙しさじゃ仕方ない、という諦めにも似た感情がある。
なにしろ花形の営業とは言うが、休みの日も取引先から電話はあるは、クレーム処理に奔走するわ、人手が足りないからと商品の梱包をするわ、安まる時がほとんどない。
自分だってギリギリのところでやっている。
逃げ出すか逃げ出さないかは誰にでもつきまとう悩みだろう。残ったから偉いわけでも、逃げたから悪いわけでもないのだから。
ともかく、新人に任せていた雑務をただでさえ忙しい課内でまわさなければならない。
そのせいでこの3週間、孝介を含む営業の主力メンバーは働き詰めだった。
「もうダメだ…」
商談の外部発表と事後処理に奔走していた営業課だったが、さすがに泊まり込みに次ぐ連勤に心が折れていた。
無事に終わった、というよりはひと段落ついた今日、明日こそ完全休みにしようと全員が儚い笑みを浮かべていた。
どうせまた会社の個人携帯に電話がかかってくるのだろうと皆諦めていたが、とりあえず課長である自分に連絡がくるように社内通達を出した。
これで下の連中は明日完全に休みになるはずだ。
実力主義から早めの出世で課長とは言え孝介もまだ33歳だ。
働き盛りとは言うが限界まで体力を削られてはさすがに休みがほしい。
それでも自分が被らなければ、今残っている連中も辞めてしまうかもしれない。
そう思ってしまえば、我慢せざるを得ない。
それに今日は早上がりの方だ。
まあ、6時から出社して21時に帰宅にはなっているが、早上がりだ。
係長クラスからは手当が入る分、残業がつかないせいか感覚が鈍っている気がする。
「あー腹減った」
思わず呟いていた。
大口取り引き後だから打ち上げだ!となるには全員ほぼ気力体力共に尽きていたため却下された。
なにしろ睡眠時間が圧倒的に足りていない。
とは言えもちろん腹は減る。昼からコーヒーと栄養ドリンクしか口にしていないのだ。
自分で作る気力は無いが、コンビニで済ませるにはなんとなく嫌な気がした。
なにしろ本当に大変な数ヶ月だった。それに対してコンビニ弁当ではあまりに自分に悲しい。
しかし賑やかな居酒屋に行きたい気分でもないし、酒を飲むには胃が弱っている。
睡眠不足とストレスのせいだろう。
「つっても今の時間やってる店を探すのも…」
今日は珍しく電車ではなく徒歩だ。
人に会うのが億劫で静かに道を歩きたかった。
普段あまり通らない道を帰れば、なにか見つけられないだろうか。
しかしこの近辺は店はまばらでほとんど住宅街と言っていい。
半分諦めて孝介は足を進めた。
「まあ、そんな都合よくあるわけないよな」
「ギャハハハハハハ!」
少し遠い場所からドッと数人の笑い声がした。明らかに酔っ払いの声だ。
人に出くわしたくなかった孝介は思わず顔を顰める。
はっきりとした言葉は分からないが、大勢でバーベキューでもやっているのだろうか。
楽しげな声と肉の焼ける匂いがする。
孝介はなんとなく声がした方向に首を巡らせた。
「ん…?」
住宅街のその先に薄明かりが見える。
少し奥まった場所にあるからか、木々が鬱蒼としている。
その木々に隠れるように、看板のようなものがあった。
目を凝らすと看板には「喫茶 裕次郎」と書かれていた。
「喫茶店か…」
バーベキューはその店の近くで行われているのだろう。近くで笑い声が聞こえる。
孝介は吸い寄せられるように店の前にきていた。
表に出ているブラックボードには、「挽きたてコーヒー」「本日のおすすめは鯵の開き」「手打うどんやってます」など、食事メニューがいくつか書かれている。
店の外観は古民家を改装したのかレトロな雰囲気だ。
格式高い様子ではないが、かといって安っぽい様子でもない。
それが今の気分になんとなくあっている気がした。
(他の飲食店探すのもなんだし入ってみるか)
ガラリと木製のドアを引くと、チリンチリンと鈴が鳴り、ふわりとコーヒーの優しい香りがした。
店内は木製のテーブル席とカウンター、奥には座敷もある。
しかし、店員も客も見当たらない。
「すみません」
もしかしてハズレだったかとも思うが、他を探す気力は既になかった。
孝介が探るように声をあげると、厨房らしき場所から「少々お待ちください!」と鈴のような可愛らしい声が響く。
「お待たせいたしました!」
慌てたように現れた店員に、孝介は目を見開いた。
短めの髪を後ろに一本にくくった店員は、柔らかな笑みを浮かべている。
清潔な白のシャツに、オシャレな黒の腰巻エプロン、黒いキュロットをはいた店員はとても可愛らしい。
しかし、どう見ても小学生にしか見えない。
11歳前後といったところだろう。
「テーブル席とお座敷、どちらにいたしますか?」
小学生にしか見えないが、接客には慣れている様子で、立ち振る舞いにはよどみがない。
「座敷で…」
あっけにとられながらも孝介は無意識に返事を返していた。
労働基準法…そんな言葉が脳裏を過ぎる。
だが実家のお手伝い、といった事であればこの時間でも働いていいのだろうか。よく分からない。
(まあ俺には関係ないからいいか)
孝介はすぐに疑問を外に追いやる。何しろ脳みそがマトモに働かないのだ。
少女は孝介の考えなど知る由もなく、笑顔で孝介を促した。
「こちらのお席の方へどうぞ。今日は満月ですので、奥の方がおすすめです。窓から月が見えますよ」
「満月…?」
言われてみれば月が丸かったような気もする。
靴を脱ぐと、孝介は勧められるままに奥の座敷に胡坐をかいた。
孝介が席につくと少女は手早くおしぼりとお茶を持ってくる。
「こちらメニュー表です。お決まりになりましたらお声掛けください。……あ」
それまでよどみなかった少女がふと声を上げた。それは外から笑い声が響いた瞬間だった。
「お客様、たいへん申し訳ございません」
「うん?」
「本日、うちの常連のお客様が裏庭でバーベキューをしておりまして、その……少々、うるさいかと……」
言いにくそうに少女は眉を下げた。
窓を閉め切っていれば聞こえないが、まだ少し暑さの残る時期だ。
開け放った窓の向こうからは楽し気な声が聞こえた。
(ああ…あの声と匂いはここからだったのか)
合点がいった孝介は申し訳なさそうに言った少女に笑いかけた。
「大丈夫。そこまで気にならない」
あのテンションで相対するのは嫌だが、声が聞こえるくらいは問題ないだろう。
それに声を気にして窓を閉めるには、窓から流れ込む空気が心地よすぎてもったいない。
「ありがとうございます」
ほっとしたように少女は笑い、思い出したように言葉を重ねた。
「ちなみにお客様は犬は平気でしょうか?」
「犬?」
「はい。当店には看板犬がおりまして。ゴールデンレトリーバーの裕次郎さんと言うのですが、たまにお店に入ってくることがありまして。でもすごく大人しいですし、もちろん衛生面にも気を使っておりますので」
「いや、犬は好きだから構わない」
答えながら、それにしてもこの少女は随分接客に慣れているなと孝介は内容とまったく関係ないところで感心していた。
自分がこの年の時はもっとアホだったはずだ。
気遣いなんて無縁なほどの野生児だった自覚がある。
「ありがとうございます」
少女は人好きのする笑顔で息をつく。
こんなにしっかりした子供にはなかなかお目にかかれない。どうせならばきちんと接客してもらおう。
「この店ってなにかおすすめあるかな? 胃は疲れてるんだけどガッツリ食べたい気分なんだ」
メニューを開くのも考えるのも億劫で、孝介は子供に判断を委ねた。
しかし少女は困った様子もなく首を傾げる。
「お嫌いなものや、アレルギーはございますか?」
「レバーくらいかな。アレルギーはない」
「それでしたら、牛丼定食はいかがでしょうか。こちらの定食は手打ちうどんとのセットになってまして、茄子のお漬物と出汁巻き玉子が付いてます。ボリュームも結構ありますよ。うどんはプラス100円で肉うどん、プラス50円で月見うどんにすることもできますし、さらにプラス200円でドリンクセットもお付けできます」
「いいね。じゃあ牛丼定食で。月見うどんにしてほしい。ドリンクはなにがあるんだ?」
尋ねると少女は手際よくメニュー表を見せた。
ソフトドリンクの他に、本格コーヒーの記載がある。
「コーヒーは自家焙煎で一杯ずつドリップしておりますのでおいしいですよ」
メニューの横には簡易的な豆の種類の説明が書いてある。
珈琲の事は全く詳しくないが、とりあえず目についたものを頼むことにする。
「じゃあこのストレートのモカ・マタリで」
「ありがとうございます。食前と食後どちらでお持ちしますか?」
「食後で」
「かしこまりました! カンさん!牛丼定食月見でお願いします」
「わかった」
少女が声をかけると、厨房から音が聞こえた。
すぐに肉を炒める音がして、孝介は出されたお茶を口にする。
少女は気を使ったのか、厨房に姿を消した。
外からの喧騒はあるものの、店内はシンとした空気が流れている。
ひんやりとちょうどいい温度のお茶は上品な味で渇いていた喉を潤す。
広がる風味とまろやかな舌触りは、食に疎い孝介でも質のいいものを使っていると分かった。
(ようやく一息つけたな…)
外からは賑やかな話し声と木々がざわめく音が聞こえる。
窓の外に目を向ければ、少女の言っていた満月がぽっかりと浮かんでいた。
音は確かにしているのに、心地よい静寂感が孝介の体に流れ込む。
少し前まで忙殺されていたのが嘘のように穏やかな時間である。
古民家特有の木の香りと暖かな雰囲気も相まって、懐かしい安心感があった。
しかしすぐに肉の焼ける匂いがしてきて、孝介の腹の虫が騒ぎ出した。
いい匂いだ。これが絶対おいしいに違いない。
そんな風にワクワクしていると、少女がが注文の品を運んできた。
「お待たせいたしました。月見の牛丼定食です。お好みで大根おろしと紅生姜をどうぞ」
少女が膳を置くと、孝介はゴクリと喉を鳴らした。
(うまそうだな…)
玉ねぎをからめた牛丼は醤油ベースで仕上げられているのかいい照り具合だ。
透き通るようなスープのうどんには、たっぷりのネギと丸い黄身が乗っている。
孝介は牛丼に紅生姜を乗せ、うどんに大根おろしをいれると、急ぐようにうどんのスープを啜った。
「――うまい」
思わず声に出していた。しかし、本当においしいのだ。
慌てて麺を啜ると、もちっとやわらかい麺が出汁のきいたスープと絡んでこれまたうまい。
とろりとほぐれた卵とも相性がいい。
牛丼もと手にとって口にすると、これまた衝撃的なおいしさだ。
ごく普通の醤油ベースの甘辛いタレで味付けされている。それが信じられないほどにおいしい。
出汁巻き玉子も絶妙な味付けがされており、食べるたびに孝介は息を止めた。
慣れ親しんだ懐かしい味わいのはずなのに、高級料亭で食べた時のような衝撃がある。
食に対していつも「腹が埋まってそこそこうまいならそれでいい」というスタンスの孝介だったが、そんな考えが覆りそうなおいしさだった。
(これは通ってもいいかもな)
美味いものを食べれば元気になる、とはよく言ったものだ。
疲れて鬱々としていたはずなのに、それがすっかり吹っ飛んだ。
胃がすっかりと満たされて一息つくと、ふわりとコーヒーの香りがした。
くるりと顔を巡らせると、カウンターで大柄の男がコーヒーの準備をしている。
食べるのに夢中になっていたせいで全く気付かなかった。
コーヒーを入れているのは大柄で顔立ちの整った男だ。
40代前半くらい、髭はきちんと整えられ、ウエーブがかった髪を後ろでくくっている。
和風の古民家の中でシャツに黒のベストと腰巻のエプロン姿の美中年。
これはさぞかしモテるんだろうなと、観察していると、男が視線を上げた。
ニコリと笑うその姿は、店の雰囲気と本人の雰囲気が相まって映画のワンシーンのようだ。
「お客さん、初めてよね? どうかしら~うちの料理。ちょっとないくらいおいしいでしょう!」
「………」
見かけから想像できない高めの声で問いかけられて孝介は一瞬フリーズした。
動揺した自分にこれじゃ営業マン失格だ、と思いつつも納得のいかない気持ちが沸き上がる。
「それは詐欺だろう」
意識を取り戻して出てきたのはそんな言葉だった。
「失礼ね。詐欺ってなによ」
「この店の雰囲気とその見た目でそれは詐欺だ」
「なにも騙してないでしょ!」
男の憤慨は尤もなものなのだが、孝介は何故か反抗的な気持ちになった。
「いいや、それはずるいだろう。詐欺だ詐欺」
別に美中年のバリスタがオネエでもなんら問題はない。もちろん理不尽なのも分かっている。
しかしせっかくノスタルジックな気持ちでいたのに、よくわからない世界線に引きずり込んで混乱させないでほしい。
男は「失礼しちゃうわ~。これだから無神経な男は嫌なのよ」と呟いていた。
「早希ちゃん、この失礼な色男にコーヒー運んでくれる?」
「はあい」
クスクスと笑っていた少女が孝介にコーヒーを運んできた。
「マスターのコーヒーも、ちょっとないくらいおいしいですよ」
いたずらっぽく笑った少女はマスターと呼んだ男の元にかけていく。
「早希ちゃん、今日はもういいわ。明日お休みだからってこんな時間までダメよ。ていうかカナはなにしてるのよ」
「庭で酔っぱらってます」
「減給ね。ごめんね、早紀ちゃん。バカな大人たちは放っておいていいからもう寝なさい」
「はあい」
小さな声音でやりとりをした後、少女は孝介を振り返った。
「お客様、お疲れのようですし、ゆっくりしていってくださいね」
「ああ、ありがとう」
綺麗なお辞儀をして少女は店の奥に消えていった。
少しして「早希ちゃんおかえりいい」と酔っ払いの声がしたのでバーベキューに参加したのだろう。
孝介は息をつくと、冷めないうちにとコーヒーを口にする。
「……確かにうまいな」
昔同期の友人に連れられて専門店で飲んだ事があるが、そこで飲んだ時よりもおいしく感じた。
「うふふ。ありがとう。結構本格的でしょ?」
「あんたは詐欺だけどコーヒーは本物だな」
「ほんと失礼ね。でも嬉しいわ。うちの常連、酒ばっか飲んだりカフェイン中毒でコーヒーならなんでも良かったりするアホばっかでロクなのがいないのよ。ってあら、裕次郎さん来たの?」
マスターとなんとなく話をしていると、厨房とは別のドアからトテトテと綺麗な毛並みのゴールデンレトリーバーが現れた。
艶艶の黄金色の毛並みと、ゴールデン特有の優しげでつぶらな真っ黒い瞳。
鼻をふすふす鳴らし、長いしっぽを小さく振りながら座敷に座っている孝介の元へやってきた。
躾がなっているのだろう、座敷の前には来ても上がってはこない。
いらっしゃいませ、触りませんかと言わんばかりにキラキラとした目で孝介を見つめている。
犬好きであるのなら、この誘惑に勝てるはずがない。
頬が盛大に緩むのを感じながら、孝介は座敷から足を投げ出して、ゴールデンを撫で回した。
滅多に帰れない実家には犬が5匹いる。
昔から犬に囲まれて育った孝介は社会人になってからこっち万年犬不足だ。
「裕次郎さん、だったな」
問いかける声音は自分でも驚くほど優しい。
部下に鬼だの鉄壁超人だのなんだの言われている孝介は、基本的に営業先でしか微笑まない。
仕事を進めるのに笑顔が必要なら作るが、そうしなくても仕事が進むなら無駄に表情筋を使いたくないのである。
だが今は犬を堪能するために表情筋を出し惜しんでいる場合ではない。
裕次郎さんは力強く柔らかな孝介の手つきにふすんふすんと鼻を鳴らした。
気持ちが良くてご満悦、といった表情である。
「あらお客様も裕次郎さんもお顔がゆるゆるじゃない」
マスターが肩肘を付いて顎に手を乗せてにやけている。店員としてどうなんだろうか。
早希ちゃんと呼ばれた少女の方がよほどきっちりとした接客をやっているではないか。
しかしそれほど気にならないのはオネエ口調ゆえなのだろうか。
まあそんなことはどうでもいい。はっきりしている事がある。
「マスター、この店は最高だ」
マスターがオネエでも、子供が店員でもどうでもいい。
外観も良し、雰囲気も良し、接客も良し、料理もコーヒーもずば抜けてうまい、しかも可愛らしい看板犬がいる。
完璧である。
「当たり前でしょ」
マスターはまんざらでもなさそうにニヤリと笑った。
「この店は何時から何時までやってるんだ?」
「昼間が11時から15時で、夜が17時から0時ね。定休日は木曜日よ」
「そうか」
今は22時をちょうど過ぎたところだ。
まだ裕次郎さんを撫でてもいいだろう。
「撫でたいだけ撫でてていいわよ。平日だし、お客様もたぶん今日は来ないもの。常連が裏で騒いでるし」
「ありがとう。その分のお代を払ってもいいくらいだ」
「そんなに? まあ、常連になってくれるんならいくらでも触っていいわよ。裕次郎さん、あなたの撫で方好きみたいだし」
「いくらでも通う」
「ああ、でもうちの常連ほんとうるさいわよ。なんか気付いたら一癖も二癖もある変なのが多くなってたのよね。常連になると絡まれるかも」
「……常にいるのか?」
「バラバラの時もあるんだけど、たまに時間合わせてみんなで騒ぐのよ。でも常連以外のお客様がいる時は節度は守ってるし、大人しい常連さんには変に絡んだりしないんだけど、あなたはなんとなく絡まれそうな気がするのよね」
「俺は短気な方だけど大丈夫かな?」
「ああ別にぶん殴ってもいいわよ。ほんとあいつら、礼儀を知らないし図々しいから多少殴っても問題にはしないわ。だって今やってるバーベキュー、この店の所有者のあたしがいないところで計画されてたんだから!」
憤慨するマスターの目が座っている。
体格のいいヒゲの美中年の渋面はなかなかの迫力があった。
「じゃあ、まあ、いいか」
どうせこの店自体も一癖も二癖もありそうなのだ。
毒を食らわば皿までという言葉もあるしいいだろう。
「……それにしても裕次郎さん、ほんと気持ち良さそうね」
話をしている間も、孝介は裕次郎を撫で続けていた。
最初は気持ち良さげにうっとりしていた裕次郎さんは、今はもう横にでろんと転がり口を開けて舌をだらりと垂らして恍惚としている。
孝介も座敷から完全に降りて全身をくまなく撫で回していた。
「慣れてるんだ」
「ああ、飼ってたのね」
「ああ」
頭の回転が速い相手だからなのか、会話が楽だ。
その時孝介はふと不思議な感覚に陥った。
この店に入る前の自分と、今の自分が酷く遠く感じた。
どちらも自分であるはずなのに何故だろう、と考えて、ここ数年安らぐ事が無かったのだと思い至る。
能力主義の今の職場で仕事をするのはそれなりの達成感はあった。
だがいつかかってくるか分からない電話対応に結果が全ての取り引きに加えて、雑用もこなしながら何人分もの仕事をしていた孝介はのんびり何かをする事が出来なくなっていた。
しかし今、ここにいる自分はひどく緩やかで、夏の終わりを告げるような心地よい外からの風や、木々の音や、月の光や、誰かの笑い声を染みるように感じている。柔らかいコーヒーの香りに包まれて犬を愛で、癖はあるが話しやすいマスターと言葉を交わす。
なんでもない事のはずなのに、軋むように胸が苦しかった。
満月に気づく事もできなかった自分は、どれだけ余裕がなかったのだろう。
自分は辛かったのだと気付く。
今まで無自覚だったが、擦り切れるような日々に消耗していたのだ。
気付いたところで日々はまた巡るだろう。
働かなければ、大抵の人間は生きてはいけない。
それでも、それを自覚すらしなければ限界はどこかで訪れる。
息抜きすらせずにがむしゃらだった自分は、危うい事もあったのかもしれない。
孝介は息を深く吸って、静かに吐き出した。
「この店は、いい息抜きになりそうだ」
「嬉しいわ。だってあなた、最初はなんとなく張り詰めた空気だったもの。まあそれはそれで唆られたけど」
「いつから見てたんだ怖いな。でも確かに癒されてる。犬セラピーもあるし」
「いいことよ、それ。人生なんてね、どうやっても流れるものなんだから楽しまなきゃ損よ。多少ズルしながら生きてかなきゃやってらんないわ。ラクするためにズルしたり逃げたりサボったり犬を撫でたり好き放題しちゃえばいいわ」
「それはいいな」
「でしょ? それにここの常連、常識外れの自由人ばっかりだから、あなたも見習うといいわね」
だって、これから常連になるんでしょう?と、オネエの美中年がウィンクをする。
イラっとしない事もないが、憎めない。これがオネエの魅力なのかもしれない。
手元の裕次郎さんを愛でながら、久しぶりに心から孝介は笑う。
何かが劇的に変化したわけではない。
それでも、今を美しいと思えるようにもう少し気を抜いていこうと思えた。
これが孝介と『喫茶 裕次郎』との出会いだった。
その後常連になった孝介が、古参の常連達に揉みくちゃにされかけて殴り合い一歩までいったのはまた別の話だ。