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第八話 潜在

 日誌を閉じ、整えられたベッドに横になる。おやすみ、と暗闇の向こうでアドルが言った。それに眠たい返事をして、クラウディアはすぐに眠りに落ちる。

 夜目の利くアドルの双眸は、暗がりの中でもはっきりとクラウディアの顔を見つめていた。カーテンの隙間から差し込む僅かな月光を拾い、黄金色の目を光らせている。

 クラウディアの寝息が聞こえてしばらく、アドルは椅子に座ったままぼんやりと、テーブルの木目を数えていた。

 夜風がガラス窓を撫で、夜回りの憲兵の足音が近づいてきて、遠ざかる。野良犬の遠吠えに猫の喧嘩、それからどこかの赤子の夜泣き。アドルの鋭敏な耳は、町中のあらゆる音を拾い集める。

 その中に、三度の鐘の音を聞いた。アドルはそれを合図に立ち上がる。裏口の鍵を取り、音を立てずに階段を降りた。

 早足で、夜の町を歩く。首や頬に触れる風は穏やかで、人の営みの匂いがかすかに混ざっていた。見上げれば、煌々と満月が空に鎮座している。青白い光が、アドルの足元に影を作っていた。

 昼間はあれだけ賑やかな大通りも、夜半過ぎとなれば静けさに包まれている。露店の商品はすっかり片付けられ、色鮮やかなひさしも、夜の中ではその色彩を失う。

 そんな中、歩むアドルだけがはっきりと漆黒だった。裸足の足は静かに石畳を踏み、足首の鉄枷だけが時折音を立てる。その音は、静かな通りによく響いた。

 上層に入り、アドルはまっすぐに神殿に向かう。入口の階段では、一人の神官が待っていた。神前審問に同席した神官だ。その手には、小さな鐘がある。拳大のそれは、神殿内で知らせに使われるものだ。


「本当に来た……」


 神官はアドルを見上げ、驚きを隠さずにつぶやいた。アドルは「聞こえると言ったろう」と自分の耳を指差す。

 神官に迎え入れられ、アドルは神殿に入る。夜の神殿は、暗い中、燭台の明かりでぼんやりと照らされていた。白い柱や壁、布がその灯りを反射し、天井画の端まで光を届かせている。

 祭壇の前に立ち、アドルは壁画へと手を伸ばす。神官はやや離れた場所に立ち、ごくりと唾を飲み込んだ。


「お前」


 アドルの指先が壁画をなぞり、離れる。


「神話の大戦を知っているか」

「え……ええ、はい。聖書でしたら暗唱してあります」

「レベリオという言葉に聞き覚えは?」


 神官は二度瞬きをすると、緊張していた肩から力を抜いた。


「それは、主神クロニクス率いる神々と戦った、太古の怪物達のことですね」

「……そうか」


 アドルは一歩退き、壁画を見上げる。


「……アドルさん?」

「明日、また頼めるか」


 口元を下手に笑わせて、アドルは神官を見る。


「明日、審問をするんだと」

「はあ」

「この爺がだ。神に会いたいならいてもいいぞ」


 親指で壁画を示し、アドルは「帰る」と足早に神殿から出て行く。その姿がすっかり見えなくなってから、神官は改めて壁画を見上げ、アドルが去った入り口を見た。


「……なんて?」




 薄暗い場所で、一人震える夢を見た。

 身を縮めてもやっとという大きさの洞窟の奥。裂け目から差し込む陽の光と、そこから滴る雫だけが生きる糧だった。外では、若い少女たちが楽しそうに笑い合っている声がする。

 自分とそう変わらない背丈の彼女たちが、仕事帰りの父親の腕にぶら下がり、お菓子を買ってとおねだりする。自分には決してあり得ない光景。ここには、誰もいない。誰も来ない。狭い。寒い。狭い。寒い――――


「クラウディア?」


 はっ、と目を覚まし、クラウディアは自分が泣いていることに気付いた。


「……?」


 体を起こすと、差し込んでいた朝日が顔を照らす。いい香りのする皿を持ったアドルが、驚いた顔でこちらを見ていた。


「泣いているのか? どうして」

「……わかんない……です」


 変な夢、とクラウディアは首を振る。

 夢の話をすると、アドルは気が抜けたように笑った。


「半分は我の記憶だな。一緒にいたから魔力に当てられたのかも知れん」

「えっ」

「神の爺が我を閉じ込めたところだ。朝飯はリゾットでいいか?」

「えっ、あ、はい」


 朝食は、雑穀と野菜を牛乳で煮たものだった。


「これミルクがゆって言うんですよ」

「そうだったのか」

「病人食ばっかり上手になりますね、アドル」

「ふふん」


 得意げに腕を組んで胸を張るアドルに、クラウディアは息を吐く。気を張った自分が阿呆のようだ。


「今日から店も再開するか?」

「ええ。ですけどその前に、ちょっと確かめたいことがあって」


 クラウディアが言うと、アドルはきょとんと首を捻った。




 突然の来客に、ロブは大急ぎで上着を羽織った。療養中とはいえ、寝巻き姿を他人に見せるのはあまりにも気が引ける。


「はいはい、と……」


 リビングに出ると、そこには見知った薬師の少女と背の高い竜がいた。茶を出した母が離席すると、二人の視線がロブに向く。胃の辺りがぎゅうっと締め付けられるのを感じながら、ロブは二人の向かいに座った。


「ああー……えっとぉ、狭っ苦しい我が家へようこそー……?」

「この度はご迷惑をおかけしました」


 クラウディアは立ち上がり、深々と頭を下げる。ロブはぶんぶんと首を横に振った。


「いや、いや! この間の審問のことは聞いたけど、オルビスだと俺も分かってたし、何も悪くな……死ぬかと思ったけど、死ぬかと思ったけどな!?」

「今回のことは、私の認識不足もありました」


 クラウディアは椅子に座り直し、ロブをまっすぐに見る。背後に立つアドルの圧も相まって、ロブはぐっと続きの言葉を飲み込んだ。


「問診の際、勤め先で薬草を摂取していないとは限らない、とおっしゃっていましたよね」

「え? ああ、うん」

「……アグラミル商会で、薬草を扱っているのは……」


 ぐ、とクラウディアは拳を握る。ロブは首を傾げ、頬を掻く。


「俺はただの荷運びだから、細かいことはよくわからねえけど……よくしてもらってるのはレティ爺さんのとこだぜ」

「そいつに何か貰ったか」


 椅子の背もたれに手をかけ、アドルが身を乗り出す。ひえ、と身を縮めながら、ロブは視線を彷徨わせた。


「ああ、えっと……菓子とかはよくもらうけど……ああ、この間は確か、あれ貰った。母さんが最近、腰痛いって言ったら、よく効くって」

「この茶がそれか」


 アドルが、出された茶を一口啜る。


「まずい」

「単純な悪口じゃねえか」

「どうする、クラウディア」


 カップを空にしてからテーブルに戻し、アドルはクラウディアの顔を伺う。クラウディアは俯き、緩く唇を噛んだ。


「クラウディア?」

「アドルはどう思いますか」

「ん? んー……」


 アドルはクラウディアからロブへと視線を滑らせ、その困惑顔にぐっと目を細める。


「な、なんだよそんなに睨んで」


 嫌そうに顔をしかめるロブをじっくり眺めてから、アドルは首を横に振った。


「どうして、あいつがクラウディアに嫌なことをする? 何もいいことはないだろうに」

「分かりませんか」

「……分からない。ゼネガはクラウディアの何かが欲しくて意地悪をしていたんだろう。だが、あいつがそんなことをしても、何もいいことはないだろうに」


 眉間に指をあて、クラウディアはゆっくりと息を吐いた。クラウディアの視線が、アドルからロブへと滑る。


「だったら、アドルにはきっと分かりません」


 クラウディアは立ち上がり、もう一度ロブに頭を下げた。

 よく分からない、という顔をしたままのロブに見送られ、クラウディアは足早に集合住宅を後にする。そのまま、黄壁商店街へと足を向けた。その背を追い、アドルはクラウディアを引き止めようと手を伸ばす。


「アドルは先に店に戻っていてください」

「ダメだ」

「分からないなら分からないままでいいんです」


 伸ばされたアドルの腕を振り払い、クラウディアは首を横に振った。だがアドルは、強くクラウディアの手を引き寄せる。


「何度も言わなければいけないか。お前を一人にするのは、ダメだ」


 そのまま、クラウディアを引っ張るようにアドルは反対方向へと歩き出す。クラウディアは小走りになった。


「……すみません」

「お前はそうやって生きてきた。もう知っている」


 アドルはクラウディアを自分に引き寄せた。


「だから、我はお前を一人で戦わせない。諦めろ」


 まっすぐにこちらを見てくる竜の瞳は、クラウディアにわずかな逃げも許さない。きゅ、と唇を噛んで、クラウディアは一度視線を落とした。ずかずかと歩くアドルに、気を抜けば置いて行かれそうになる。


「……いつもそれくらい、ちゃんと話してくれればいいんですけどね」

「人間だって、大事なことほど言わないじゃないか」

「じゃあ言いますけど」


 クラウディアは足を止める。アドルはそこでようやく、ぱっとクラウディアの手を離した。赤くなった手首をさすり、クラウディアは眉間にしわを寄せる。


「?」

「速いです」


 息を弾ませるクラウディアに、アドルは二度、目を瞬かせ――ふ、と微笑を浮かべた。歩調がそろうと、クラウディアは胸に手を当てて息を整える。


「……冷静になりましょう。今レティさんの所に行ったら喧嘩になってしまう」

「そうだな」

「次の買い出しに、アドルも一緒に来てくれますか?」

「ああ、もちろん」


 アドルの袖を握り、クラウディアはかすかに、本当に聞こえるかどうかというほどの声で、ありがとう、と呟いた。




 細く長く、吐いた息が尾を引いて、夜の風に溶けていく。窓から夜空を見上げ、クラウディアは指先に髪を絡ませた。


「クラウディア、我今夜出かけるゆえ、これ夜食な」

「え? あ、はい」


 小さな鍋に蓋をして、アドルも窓際にやってくる。窓枠によりかかったアドルを、クラウディアは横目で見た。


「……悪意」

「うん?」

「昼間のことです。アドルが分からないと言った理由を、人は、多分、悪意と呼ぶんです」


 クラウディアは窓から身を剥がし、タレットに入る。月明かりが差し込むそこは、青白い光を湛えてクラウディアを迎え入れた。調合部屋の静謐に目を伏せて、クラウディアは椅子にゆっくりと腰掛ける。


「悪意」


 ぽつり、とアドルは繰り返して、それから長い息を吐いた。


「そうか。あれが……。あれが」


 クラウディアが振り向くと、アドルは指先を頬に当て、静かに一度、目を閉じる。


「人間の醜さというやつか」

「幻滅しました?」

「なぜ?」


 アドルの目がクラウディアを捉え、唇が笑う。作り物のような完璧な微笑に、クラウディアは小さく身震いした。夜の明かりの中では、なおのこと彫刻のように感じられる。アドルから目をそらし、クラウディアは「いえ」とだけ返した。


「そうだな、あるいは、我が神であれば、がっかりしたかも知れないが」


 唇に指を当て、アドルはくっくと笑いを漏らした。


「あいにく、『きらわれものの黒い竜』ゆえな」

「あ……」

「ただそこにいるだけで、石を投げられる。そういうこともあろうさ」


 鼻の先から尾の鱗まで、太陽が逃げたように真っ黒で、誰もかれもがそれを嫌った。そう謳われた竜が、いったい何をしたのかといえば、ただ、ほかの生き物とは姿が違った、それだけだ。だからだろう。そんなこともあろう、と言うアドルの笑顔は、何かを諦めたようにくすんでいた。


「そろそろ約束の時間だ。朝には戻る」


 話を切り上げると、アドルは大股で部屋を横切り、階段を下りていく。いってらっしゃい、とその背に投げて、クラウディアはまた椅子に腰を落とした。

 裏口が開き、また閉まる。クラウディアは椅子の上で身を縮め、膝を抱きかかえた。


「悪意……」


 じんわりと、自分の言葉が胸に落ちて、吐き出す息が震えた。悪意。言うのは簡単な言葉だが、それが自分に向いていたのだと考えると、体の芯が震える。一人で店を切り盛りしていれば、理不尽なことはいくらでもある。


「……私は、怖かったのか」


 父の親友だったのだから、助けるのは当然だと言った大商人は、アストマーレを潰すことに熱心になった。得意先だから、商会に入っていなかろうと卸し続けると誓った薬種売りは、どうやら自分が調薬師でいられなくなるように陥れようとしたらしい。

 一人で戦う、一人で立ち向かう。そう頑なになった理由は、きっと、裏切りを恐れてのことだ。意固地になっていれば、いつか誰も、自分に手を差し伸べなくなると分かっていて。


「………………」


 息をひとつ吐いて、クラウディアは立ち上がる。椅子には、上着がかけっぱなしいになっていた。

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