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第七話 神前審問(1)

 神前審問は、上層の広場で行われる。戦女神ベルマの像の前に、純白の天幕が建てられていた。戦女神の像を見上げていたアドルに、イリウスが近付く。


「お初に」

「外でやるのか」

「決闘裁判のころの名残ですよ」


 イリウスは眼鏡を押し上げ、片眉を上げる。


「竜殿。あなたが弁護人ということで構いませんね?」

「ああ」

「ではこちらを」


 腕章を受け取り、アドルはぐるりと広場を見まわした。

 天幕を囲むようにロープが張られ、その向こうに見物人が詰めかけていた。天幕を支える柱ごとに憲兵が立ち、快晴の太陽の下、濃い影を落としている。

 腕章を持ったまま、アドルは再び戦女神の像を見上げた。すらりと通った鼻筋に、風にそよぐ髪。女性らしい曲線の中に戦士の鋭さを湛えて、握った鉾の先端を竜の鼻先に突き付けている。踏みつけられた竜は、唸るように口を開けていた。真正面から陽の光を受け、凛とした横顔の美しさが際立っている。


「懐かしさでも?」


 アドルが振り向くと、隣にゼネガが立っていた。アドルは指先で顔の傷をなぞる。それから目を伏せ、ゆっくりと首を横に振った。


「我は戦女神に踏まれたことはないゆえな」

「それは興味深い。しかしまあ、闇の王チェルナボグが人の裁判を見るとは。駄々をこねて眷属を呼び出さないでいただきたいな」


 鼻を鳴らし、アドルはゼネガに背を向けた。

 天幕の中心には、円環型の卓が準備されていた。憲兵に左右を固められたクラウディアが、広場に入ってくる。憲兵は円卓の天板を持ち上げ、クラウディアを内側に入れた。そこに用意されていた椅子に座ると、ちょうど視線の先に戦女神の像がある。

 背の高い杖を持った神官が、大股で天幕に入ってきた。年は若く、金に縁どられた法衣が一歩ごとに音を立てる。神官の到着と同時に、準備を終えた憲兵たちが天幕から出て行った。


「かたがた、ご足労感謝する」


 像の前に立ち、神官はざっと一同を見まわした。


「着席を」


 クラウディアの右側にアドルが、その向かいにもう一人の弁護人が座る。その弁護人の隣に座り、ゼネガはアドルをじっと見た。イリウスはクラウディアの正面に陣取る。三方を塞がれ、クラウディアは居心地が悪そうに唇を曲げた。


「開廷!」


 杖で石畳を突き、神官は高らかに宣言した。




 見物人のざわめきが遠ざかり、しんと静まるのを待ってから、イリウスは静かに立ち上がった。


「ご起立を」


 促され、四人は立ち上がる。だがイリウスが次の言葉を続ける前に、ゼネガが片手を振ってそれを遮った。


「宣誓の前に。神聖なる審問の場において、全ての立会人は公平な立場である必要がある。故に社会的地位、財産、および全ての功績はこれを判断に含めず、同時に武器の持ち込みも禁じられている。よろしいかな」

「ええ」


 視線を向けられたイリウスが静かに頷く。ゼネガは指先で顎を撫で、それからアドルに目を滑らせた。


「であれば」


 ゼネガの指が、アドルを指差した。


「彼がそのままそこに座るのは公平ではない。彼が拳を振り下ろせば、我々の頭蓋がザクロのように咲いてしまう」

「いいからさっさと、その懐の薬を出せ」


 アドルは苛立たし気に眉根を寄せてみせた。ゼネガは次の言葉を飲み込んで、服の胸元に手を入れる。


「恐れ入った」


 取り出されたのは、灰色の小瓶に入った液体だった。


「魔力を奪う魔法薬だ。君がこれを飲むのならば、弁護人として着席することを認めよう」

「そんな横暴な」


 息を吸ったクラウディアを制して、アドルはゆっくりとゼネガに近付く。背後を通られた一瞬、イリウスは身震いした。


「いいだろう」


 薬を受け取るなり、アドルはその中身をあおる。ゼネガは口の片端をあげ、それから片手で口元を隠した。空の小瓶を突っ返して、アドルは席に戻る。


「これで満足だな。始めよう。あまり待たせるんじゃない」


 戦女神の名に公平と真実を誓い、四人は着席する。神官が二度、杖を突いた。イリウスは咳ばらいを一つ、懐から巻いた羊皮紙を取り出す。木箱を持った憲兵が二人、イリウスの背後に控えた。


「では、審問内容についての確認を。今月第三週の二日、薬店アストマーレで、被害者は天法薬の処方を受けました。その際処方された薬はオルビス、八種の生薬からなる天法薬です。同日夜、薬を服用した被害者は体調不良に陥り、一時意識不明となりました。その後、友人や家族の調べから、医者に出されていた処方箋はオルビスではなくクルススだったとして、アストマーレ店主クラウディア氏に訴えが起こされました」


 イリウスは、左右に置かれた木箱に手を乗せる。


「クラウディア氏は、渡された処方箋はオルビスであり、処方前の問診も行っているため自分に否はないとの主張です。ここまで訂正は?」

「ありません」

「よろしい。神前審問の告解人として、訴えを起こされたクラウディア氏を、原告として被害者の雇い主であるゼネガ氏をお呼びしています。両名、主張はまず弁護人を通じて行うこと。既に提出されたこちらの証拠の撤回は行わないことを原則とします」


 クラウディアとゼネガがそれを了承し、イリウスは席に着く。


「では、ゼネガ氏から」


 ゼネガの弁護人が立ち、咳ばらいをした。イリウスは木箱の一つを開く。


「我々が提出する証拠は僅かです。なぜなら、我々が正しいことを証明することは容易いからです。まずこちらが、被害者の部屋から見つかった処方箋。日付と共に、クルスス、と書かれています。当然、クラウディア氏のサインもあります」


 木箱から取り出されたのは、二枚の紙だった。


「こちらが処方箋。こちらが、医師の署名です」


 テーブルに紙を並べ、それから、と弁護人は胸を張った。


「我々にはこれを偽造する理由がない。対して、クラウディア氏がオルビスを処方する理由はあります。クルススはオルビスより安価ですが効果が出にくい。この被害者は一度、アストマーレで処方された薬の効果が出なかったとしてクラウディア氏と揉めています。とすれば」


 弁護人の細い指が、処方箋を叩く。


「自己判断で処方箋より強い薬を出した。薬の知識がない被害者に。そして偶然、被害者が副作用で命の危機に陥った。ともすればこれまで、何度となく行っていたのでは? 医師の資格がない調薬師による自己判断での処方はそれだけで罪となります」


 ぐ、と唇を噛み、クラウディアはテーブルの下で拳を握った。弁護人はちらりとクラウディアを見下ろすと、「さらに」と言葉を続ける。


「クラウディア氏には動機も十分です。金銭のことでアグラミル商会と軋轢があり、被害者本人とも過去にトラブルがある。対してこちらは、貴重な従業員を一人失いかけている。戦うことの大義こそあれ、嘘偽りを述べる理由などありますまい」


 滔々と述べてから、弁護人はもう一度咳ばらいをして着席した。声音に含まれていた嘲りに、見物人が息を飲む音がする。張り詰める空気の中、イリウスは落ち着き払ってアドルを見た。


「では、クラウディア氏の主張を」


 ざっ、と、その場に居合わせた数十の目玉が一斉にアドルを見た。射貫くような視線にも表情を変えず、アドルは組んでいた腕を解く。


「承った」

 アドルが立ち上がる。イリウスがもう一つの木箱を開き、アドルの前に押し出した。


「クラウディアの弁護人。それから、クラウディアの父ファウストの名代として述べる」


 木箱に手を乗せ、アドルはゼネガを見下ろした。




 太陽と同じ色の瞳が、ゼネガを、その弁護人を見る。風も、見物人の息遣いすら止んだような静寂だった。

 アドルは目を閉じ、ゆっくりと息を吸う。


「提出した証拠はまず、当日の処方箋の写しと、アストマーレの帳簿。それから、保管してあった処方箋の写しだ」


 静かなアドルの声音に、イリウスは片眉を上げた。クラウディアは膝の上で拳を握り、目を伏せる。

 今は、祈るだけだ。アドルが言い負けないことを。


「当日の処方箋にはオルビスと書かれており、裏面にはクラウディアの問診のメモがある」


 三つの証拠を並べ、アドルは閉じた帳簿に指を乗せた。


「わ……たしは当日、同店内にいた。オルビスという薬の名前も、それをヒガイシャが承諾したことも聞いている」

「残念ながら、身内の証言は信用に値しない」

「であろうな」


 ゼネガの弁護人に返し、アドルは帳簿を片手で開いた。もう片方の手で持ち上げた処方箋には、クラウディアのメモがある。


「で、あれば。そちらの処方箋が偽物である、と証明すればいいわけだ」

「ほう、どうやってですか?」


 着席したまま、弁護人は指先で円卓を叩く。アドルは無表情でそれを見下ろし、「そう焦るな」と返した。


「このメモとクラウディアのサインは、帳簿や過去の処方箋のサインと同じインクを使用している」


 ふん、と弁護人は証拠を掲げ、そこに書かれたクラウディアのサインを指差す。


「こちらにもクラウディア氏のサインはあります。同じインクで」

「そうか。アストマーで使用しているインクがこれだ」


 弁護人に構わず、アドルは木箱からインク瓶を取り出した。


「確認する。お前達の出したその処方箋は本物なのだな。クラウディアがそれを見てサインをした上で、オルビスを処方した、と?」

「ええ」

「つまり、そのサインはこのインクで書かれた。それで間違いはないな」


 まるで絡まった結び目を解くように、アドルは弁護人に言葉を重ねていく。弁護人はしかし、どこか小ばかにしたように半笑いで言葉を返した。


「そうでしょうとも。黒に少しばかり赤の混じる独特な色合い。そして左利きゆえに少しばかり掠れのあるサイン。誰が見ても、クラウディア氏のものでしょう?」

「ふむ、妙だな」


 アドルは顎に指を当て、首を傾げてみせた。


「そちらのサインとこちらのサインは、どうやら違うインクのようだが?」


 は、と息を吐き、弁護人はしばし言葉に詰まる。アドルは片手を広げ、更に言葉を続けた。


「どちらが正しい、どちらが本物か。そんなものいくらでも偽ることができる。水の掛け合いと同じだ。だが、誰が見てもそれが偽物だと言えるのであれば、間違っているのはそちらであろう?」

「しかし……しかし」

「今からそれを証明しよう!」


 弁護人の焦りを察してか、アドルは畳みかける。


「しかし! 見目には全く同じインク。憲兵が確かに確認しているはずですが」

「そう。見目には。人間の目には見えないものがあるだろう?」


 アドルが、処方箋のサインに触れた。クラウディアはそちらを見て、え、と声を漏らす。


「たとえば、魔力、とか」


 持ち上げられた処方箋は、クラウディアのサインだけがうすぼんやりと、赤い光に包まれていた。天幕の影の下で、その光は本当に僅かなものだったが。


「アストマーレのインクは特別製でな。竜の魔力が含まれているゆえ」


 それでも、そのインクが特殊であることを示すには十分すぎる。


「この通り。魔力感応で光る」


 ゼネガの額に浮かんだ汗に、アドルは勝利の笑みを浮かべた。


「そちらのサインは、果たして光るかな?」


 弁護人は処方箋を持ったまま、ごくりと唾を飲む。ゼネガは唇を引き結んだ。クラウディアはアドルを見上げたまま、ぽかんと口を開けている。


「そ……それこそ偽造ができ」

「だから帳簿を持ってきた! ご覧あれ。私がこの町に来る半月より前でもきちんと光る。古い処方箋も同様だ」


 反論しようとした弁護人に、アドルは畳みかける。開いた帳簿の古いページに、アドルの指先が触れた。色褪せたインクは途端に赤みを取り戻し、文字全てが同じように光る。


「それでも疑うなら。イグリー!」


 アドルが見物人を振り返ると、そこにいたイグリーが息を吐き、紙束を差し出した。アドルはそれを受け取り、円卓に戻って来る。


「今しがた、受け取った。これなら私がどうこうはできまい?」

「それは?」

「過去の処方箋だ。アストマーレに行ったことのある人間に総当たりして探してもらった」


 イリウスに一度紙束を差し出し、検分させてからアドルはそれをテーブルに広げる。


「クラウディアのサインは光る。店にあったこっちの処方箋と照らし合わせてもらって構わない。クラウディアは、そちらの弁護人が言うような不誠実な薬師でないと証明できる」

「待て、説明がつかない!」


 腰を浮かせたのは、ゼネガだった。


「どうしてそのインクに魔力が含まれている、その理由が説明されなければ」

「どうして?」


 アドルの手が、インク瓶をひっくり返した。石畳にインクが落ち、派手な模様を作る。突然のことに、ゼネガは言葉を飲み込んだ。


「クラウディアは知らなかっただろうが」


 アドルはそのインクの中から、何かを拾い上げる。と、インクが赤黒く燃え上がった。イリウスが息を飲んで腰を浮かせた。

 こぶし大の炎に似た光は、アドルの鼻先まで立ち上り、現れたのと同じ速さで消える。アドルの掌には、拾い上げられたものだけが残った。

 それは黒く、薄平べったく、緩やかに湾曲した板。


「我の鱗だ。クラウディア、このインクはいつから使っている?」

「え……ええと」


 クラウディアがイリウスを見遣ると、イリウスは頷いて発言を促した。


「五年……六年前です。父が買ってきたような……それ以来、注ぎ足しながら使っています」

「だそうだ。注ぎ足しのインクはいつも同じ店。聞けば同じものが手に入るだろう。どちらにせよ証明できるはずだ」


 アドルは鱗を円卓に置き、勝ち誇ったように告げる。


「このインク、我が魔力がこもったインクで書かれたものこそ、アストマーレで書かれた本物であると!」


 インク瓶をテーブルに置き、「以上だ」とアドルは座った。

 ざわめきが広がり、神官の杖の音がそれを止める。だが静寂が戻ってきても、円卓の誰も口を開かなかった。クラウディアは空のインク瓶とアドルの顔を見比べ、まだ呆気に取られている。イリウスは表情を変えないまま、クラウディアとゼネガをゆっくりと見た。ゼネガは口を閉じたままだが、その顔には汗がにじんでいる。


「反論は?」


 イリウスがゼネガを見遣る。ゼネガはテーブルを睨みつけ「予想外だ」と口の中で呟いた。


「何が予想外だ?」


 頬杖をつき、アドルはこめかみを指で叩く。


「己の眼の曇り具合か」

「……発言は控えさせてもらおう」


 ゼネガに視線を向けられ、弁護人は頷いた。


「そちらの提出した証拠から、こちらの主張と行き違いがあったことを認めましょう。しかし、こちらもこの処方箋が被害者に近い人間から回収したものであることは事実。我々はそれを信じるだけです」


 弁護人は立ち上がり、証拠を折りたたんで木箱に戻す。む、とアドルは唇を曲げた。


「双方正しいとなれば、真実がどちらとも分かりますまい。法律家殿。この場合、どう処断されますかな?」

「……ふむ。双方主張を曲げないと。であれば、こちらの処断としては、双方鉾を収め和解でいかがか、としか」


 イリウスがアドルを見る。アドルは「まあ待て」と手を振った。


「その処断には異議がある。まだそちらが間違いであると確かめていない」

「先に述べたように、こちらはこちらが正しいのだと」

「ならばいるはずだ。本当に、嘘を吐いた人間が」


 ぞくり、と身震いしたのはクラウディアだけではなかった。アドルが立ち上がると、服の裾から竜の尾が垂れる。その先端が、がりがりと石畳を削った。


「なぜ誤魔化す? 分かっているんだろう。偽物のしょほーせんを誰かが作った。それに乗じてクラウディアを陥れようとした。ならばどちらに非があるのか」


 なあ、とアドルの目がゼネガを捉える。


「……竜殿にはそれが分かるのか?」

「分かるとも」


 アドルの目が、見物人へと向いた。自分の背後に向いている視線に、クラウディアは背筋を緊張させる。アドルは誰を見ているのか。想像すると、足元が寒くなった。


「だが、我は今クラウディアの弁護人で、代理人ゆえな。クラウディア。追及するか?」

「えっ、あ、えっと」


 クラウディアの返事を待たず、イリウスが立ち上がった。


「双方に関係のない者が関わるのであれば、此度の神前審問でそれは断ずべきではありません。主張があれば再度の訴えを。今現在の焦点は、ゼネガ氏が、あれが偽物であったとご存知かどうかです」


 イリウスはゼネガに発言を促す。ゼネガはしかし、目を伏せたまま黙っていた。


「ゼネガ殿」

「黙秘する」

「よろしい」


 何よりも雄弁な表情に、イリウスはゆっくりと頷いた。何か言いたげに口を開いたアドルも、イリウスの視線に言葉を飲む。


「双方、新たに主張は?」


 アドルと弁護人が揃って首を振り、イリウスは「では」と眼鏡を押し上げた。


「審議に入ります」


 控えていた憲兵達が円卓に近付き、木箱を持って端へと下がる。本と書見台、羊皮紙が神官の横に用意され、イリウスがそちらへと向かった。視線を遮るように布が下ろされると、神官とイリウスの姿は見えなくなる。ゼネガは目を閉じたまま腕を組んで黙っていた。その隣で、弁護人は青白い顔をして俯いている。


「……色々聞きたいことがありすぎるんですが」

「何だ?」

「うちの父と、いつからお知り合いで?」

「六……ん、七年前、だな。あいつ、薬草を探しに随分高いところまで登っていてな。気に入ったので、魔除けをやった」


 アドルは、テーブルに残されていたインク瓶を指先に引っ掛ける。そして、側面の金字をクラウディアに見せた。


「『栄光の星(グロリアスター)に感謝を』……」

「我が名は」


 首を傾げ、アドルはクラウディアの顔を覗き込む。そして、静かに、囁くように告げた。


最古の竜(ルゥ)孤独の光(アドラスター)我が友(フォン)栄光の星(グロリアスター)。与えられた名に恥じぬよう、お前に降りかかる災いを払いに来た」


 刻まれた言葉と同じ名。黒い瓶に浮かぶ金字のような、黒髪の奥の金の瞳。その二つが重なって、クラウディアの鼻の奥がつんと傷んだ。


「泣くのか? どうして」

「ちょっとほっといてください」


 クラウディアはアドルから顔を逸らし、鼻をすする。アドルは首を傾げたまま、足を前後に揺らした。服の裾から出た竜の尾が、それに合わせて揺れている。


「……しっぽ」

「魔力を縛られてるんだ。変身しているだけで結構疲れる」

「薬が効いているようで何よりだ」


 ゼネガが口を挟み、アドルはふんと鼻を鳴らした。


「これで効いていなければ、いよいよ立つ瀬がない」

「負け惜しみはやめておけ」


 アドルは体を起こし、両手を前に出して伸びをした。袖口から覗く腕に、鱗のような模様が浮いている。


「みじめになるぞ」

「……謝罪しよう。貴殿を見くびっていたらしい」

「貴様が謝罪する相手は我か?」


 ゼネガの眉間にしわが寄る。アドルは腕を引っ込め、持ち上げた尾の先をいじる。


「結果を焦り浅慮になったな」

「それは認めよう」


 ゆっくりと天幕を仰ぎ、ゼネガは長い息を吐いた。


「結局お前には勝てなかったな、ファウスト」


 気の抜けたようなゼネガの顔に、クラウディアは言葉を飲み込む。アドルは腕を組み、それ以上は何も言わなかった。




 あとは結果が出るだけとなり、飽きたらしい見物人は徐々に数を減らしていた。人々のざわめきが遠くなり、クラウディアは強張っていた肩から力を抜く。振り返らなくても、よく知った声がまだざわめきに残っていることは分かった。

 布を引く音がして、イリウスが現れる。


「判決!」


 神官の宣言の後に、イリウスが持っていた羊皮紙を両手で掲げた。


「告解人クラウディア、無罪! 以上、閉廷!」


 杖の音に続いて、見物人から歓声があがった。椅子を蹴って立ち上がり、クラウディアはアドルを見る。アドルは、ようやく安堵したように長々と息を吐いた。アドルはクラウディアを持ち上げ、円卓から引っ張り出す。


「アドル!」

「先にあいつらの方に行ってやれ」


 アドルは、イグリー達を目で示す。その背後には、中二番通りの商店街の面々が揃っていた。


「お前のためにとしゃかりき証拠をかき集めた。お前の人望だ」

「でも……ありがとうございます」


 クラウディアは、商店街の達に駆け寄ると、顔を赤くして頭を下げた。勝利を祝う声に囲まれながらはにかむクラウディアに、アドルも目を細める。


「さて片付けて上申ですよ。立った立った」


 イリウスは肩に手をやって首を回した。


「じょーしん?」

「詳しい求刑を決めるんです。今回は話し合いで、いい落としどころを見つけるってところですね。どっちも主張は曲げていませんから、和解で」


 イリウスは、腰から吊るしていた巻紙を取り、広げて見せる。そこには、訴えから神前審問、上申までの流れがまとめられていた。


「神前審問は市民の前で行う是非の決定。上申は神に是非の報告をした上での決着。安心してください、クラウディア氏の無罪は覆りません」

「ならいい」


 ひとしきりもみくちゃにされたクラウディアが、気の抜けた笑顔のまま戻ってきた。片手で髪を整え、アドルを見上げて首を傾げる。


「アドルはそんなに嬉しくないんですか?」

「うれしい……? んん……よく分からない」

「私は嬉しいですよ」


 笑顔のクラウディアに、ふ、とアドルの口元が緩んだ。


「そうか。なら我も気分がいい」


 アドルはくしゃりと顔をほころばせた。




 ところで、上申は神殿で行う。


「嫌だ!」


 つい先刻、如何にも理性的に弁護人を務めていた竜は、幼子のように柱にしがみついていた。


「その中にはあの爺がいるんだろう、絶対嫌だ!」

「駄々こねないでくださいよ! 上申の立ち合いも弁護人の仕事なんですってば!」


 クラウディアが両手でアドルの服を引っ張るが、アドルはびくともしなかった。既にゼネガ達と神官は神殿に入っており、イリウスが呆れ顔で、入り口で待っていた。


「何でそんなに神様が嫌いなんですか、ちょっとの時間だけなのに」

「お前っ……お前、あの爺が我に何をしたか! 機嫌を損ねたら滅多打ちにされて岩の下敷きにされてそのまま何百年と放っておかれるんだぞ。怖くないわけあるか!」

「あ、怖かったんですね……」

「だから嫌だ、話ならここでも聞こえる!」

「アドル氏」


 イリウスが近付き、にんまりと笑んで見せた。


「上申を拒否するなら神前審問が無効になりますが? よいのですか?」

「ぎっ……う、ぐう、でも」

「それに神様なんて、いやしませんよここには」


 神殿でその言葉はどうなんだろう、とは思いつつも、クラウディアも無言でそれに同意する。とにかく今は、この駄々っ子に神殿の敷居を跨がせることが最優先だ。


「アドル」


 クラウディアはアドルの顔を見上げ、眉を下げる。アドルは唇を曲げるが、まだ両腕はがっしりと柱につかまっていた。


「手、握っててあげましょうか?」


 なだめすかすような声音とともに、手が差し出される。


「……うう……ぐ……分かった……」


 しぼり出すように言って、アドルはクラウディアの袖をつかんだ。うんうん、と笑顔で頷いて、クラウディアは神殿に入る。アドルは顰めっ面のまま、とぼとぼとそれに続いた。


「あなたにも怖いものがあったなんて」


 アドルは唇を尖らせた。

 白い柱に囲まれた神殿は、幾つものアーチ型の入り口が並んでいる。その向こう側は壁際にぐるりと純白の布がかけられ、その布をくぐって見上げた先に、荘厳な天井画が広がっていた。奥の祭壇の前で、待ちくたびれたような顔で神官が立ち上がる。天井画に顔をしかめ、アドルはクラウディアの背後で視線を床に向けた。


「では、上申を始めましょうか」


 祭壇の燭台で、蝋燭の炎が揺れた。




 正式な謝罪と、以後のアストマーレへの不干渉を誓う証文に、ゼネガは仏頂面のままサインをした。騒ぎとクラウディアが拘束されていた三日間の売り上げの保証は、そのままクラウディアの借金から差し引かれる。クラウディアにとってはこの上ない好条件であり、まさか叶うとは思っていなかった事態である。


「では、これで万事おしまいということで」


 クラウディアが差し出した手を握り、ゼネガは息を吐く。


「私の信用は地に落ちたかもしれませんが」


 だが、とゼネガはもう一枚の証文を持ち上げる。そこには、処方箋の偽造はゼネガ、及びその指示によるものではない、という証言が、クラウディアとアドル、そしてイリウスのサインとともに書かれていた。今後、ゼネガが処方箋を偽造したという証拠が出れば、問答無用でゼネガに処罰が下る。


「どちらにも罪はなかった。とすればアグラミル商会は依然、あなたの商売敵ですよ」

「そこは問題ではありません。人を救う仕事に、敵も味方もないでしょう」

「……言動まで父上に似てきたな」


 不快そうなゼネガにつんと鼻を持ち上げて、クラウディアは微笑んで見せた。


「私はファウストの子ですから。ぜひ店に遊びに来てください。父の話でもしましょう」


 ゼネガは言葉に詰まる。口の中で何かを呟いてから、観念したように息を吐いた。

 祭壇から離れた壁際で、アドルは天井画を眺めていた。創世神話から天上の大戦、地上へ降りてから主神が人を導くまでの様子が描かれている。祭壇の背後の壁には、主神クロニクスが鉾を掲げ、人々を導くように大戸の前に立っている。そこから左へ視線を向ければ、武器を携えた人々の先頭に、戦女神ベルマの姿があった。

 話が済んだらしいゼネガが、アドルに近付く。アドルは腕を組んだままゼネガを見下ろした。


「はん。お前も、ファウストの友だったか」

「それは否定させてもらおう。だが故人を悪くは言いたくない」

「ファウストはまだ生きている。ベルと同じだ」


 アドルは自らの胸に手を当て、それからゼネガの胸元を指差した。


「そこに」

「……思い出は幻影だ」

「だがその幻影は魂の欠片だ」

「貴殿と我々では、命の定義が違うらしい」


 ゼネガはアドルを見上げ、眉間の皴を深めた。


「一度、ゆっくり話をしたいものだな」

「我はごめんだ。世界の終わりのまどろみにお前を思い出したくはない」


 話を切り上げ、アドルはクラウディアのほうへと足を向ける。と、生ぬるい風がするりと、ゼネガの首筋を撫でた。


「……?」


 外から風が吹いたか。しかしそれにしては、入り口を覆う布が揺れていない。神官が不思議そうに、燭台を見上げていた。




 足早に帰ろうとしたアドルを、ゼネガが呼び止めた。


「クラウディア女史から目を離さない方がいい」

「言われずとも。次にお前の手先がきても追い返す」

「私じゃない」


 ゼネガは軽く肩をすくめた。


「もう彼女に手出しはしない。そんな惨めったらしいことはしないとも。ただ、彼女は少々敵を作りやすいからね」

「……ああ、あいつか」


 アドルはそっぽを向き、小指を耳に突っ込む。


「そうやいやい言われずとも。あいつもお前と同じ臭いがした」


 意外そうに、ゼネガはアドルを見上げた。


「……あの日の我は、口を出さない約束をしていた。それに、我がいれば、クラウディアに危険なことは何もない」

「傲慢だな」

「何だと?」

「人のことをよく知らない君が、庇護するなどどだい無理だと言ったんだ」


 唇を曲げ、アドルは腕を組んだ。ゼネガは一足先に神殿の階段を降りる。その先では、暗い顔の付き人が馬車を用意して待っていた。


「何かあったら相談しに来るといい。同輩の友人として、暖かい茶くらいは用意しよう」


 誰が、と吠えるアドルに背を向けて、ゼネガは馬車に乗り込んだ。駆け寄ってきたクラウディアが、アドルの渋い顔を見上げて首を捻る。


「何を話していたんですか?」

「別に。さあ帰ろう。勝利の夜、人間は美味いものを食べるんだろう?」


 クラウディアを片手で抱え上げ、アドルは目を細める。


「お前のために動き回った奴らにも、きちんと礼を言わないとな」

「ええ」


 アドルにしがみつき、クラウディアは顔を綻ばせた。


「ありがとうございます」


 クラウディアが顔を寄せると、アドルは不思議そうに目を瞬かせた。

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