第六話 結び目とツギハギ
ベルマの町の治安を守っているのが、市民からの志願者で構成される憲兵達である。中層と下層の間、城壁に沿うようにしてその役場はある。
明かりの少ない廊下の先、クラウディアが通された部屋には、眉間に皺が刻まれた男がいた。簡素なテーブルには分厚い本があり、その横に紙とペンが置かれている。
「ようこそ、薬師さん。残念ながら光栄な話ではないよ」
椅子に座ったクラウディアに、男は胸元のバッジを見せた。憲兵の制服に天秤のバッジ。法律家の証だ。
「イリウスと申します。まずは宣誓を。女神ベルマに誓い、偽りなく、公平に、真実を見つめます。以降、あなたの身柄の安全は私が保証します。また、商会、議会からの干渉も受け付けません。しかし同時に、あなたの偽りは許されません」
ブラウンの目をぐうっと細め、イリウスはクラウディアの顔を眺める。
「さて、どうして呼ばれたかご存知か?」
「天法薬についてですね」
「ああ、彼らがおしゃべりしたかい?」
「いいえ。女性の腕をつかむ力加減以外は、彼らは真っ当でしたよ」
ふうん、と頷き、それ以上は詮索せずにイリウスは片手を広げた。
「話が早い。薬師さんが処方したのは、オルビスという薬で間違いないね?」
「ええ」
「昨晩、被害者ロブ氏は処方された薬を服用後、強い倦怠感に見舞われ、その後強烈な吐き気を伴う体調不良により意識が混濁。現在も目が覚めていない。彼が持っていた薬の半分と処方箋から、アストマーレで購入した薬であると分かり君を呼んだ。以上が経緯。ここまでで何か申し開きは?」
「ありません。オルビスの拒絶反応である場合、嘔吐と排泄で可能な限り多く体から出すこと、それから安静にして砂糖水を少しずつ飲むことがいいとお伝えください」
分厚い本を開き、イリウスは指先を額に当てた。
「確かに、ただ薬が合わなかった、ならば君の責任にはならない。君がキチンと手順に沿って処方したのならば」
「……何か?」
「これが、被害者の部屋から見つかった処方箋だ」
イリウスが差し出した紙には、見覚えのある医者の名前と、クラウディアのサインが書かれている。クラウディアは文字を目で追い、は、と息を飲んだ。
「処方箋に書かれているのはクルスス。オルビスより弱い薬だ。……さて、申し開きは?」
「あり得ません」
ぴしゃりと返し、クラウディアは語気を強める。
「私が受け取った処方箋にはオルビスと書かれていました。店には写しも残っています」
「しかし、事実こちらにはクルススと書かれ、君のサインもある」
「なぜ間違えなければいけなんですか? オルビスが副作用のある危険な薬だということは私がよく知っています。そこに書いてあるお医者様に聞けば分かるのでは」
首を横に振り、イリウスは息を吐いた。
「医者はクルススが正しいと言った」
「なっ……、そうだ、アドル! 私の店にいる男も、覚えているはずです。処方箋のことも、私の問診も」
「当然、彼のことも調べはついている。その上で断言するが、彼が君贔屓である以上、彼の証言は証言として信用されない」
「写しがあるのに、なぜ私が間違えた前提なんですか」
顔を険しくしたクラウディアに、イリウスは「落ち着きなさい」と声を低くした。
「私は、君が間違えたとも、処方箋が間違っているともまだ断じない。私は君を疑っていないが、信じてもいない。大事なのは」
処方箋を突きつけ、イリウスは目を細める。
「偽りはどちらか、だ。この処方箋か、君の言葉か」
「……どうしろって言うんですか、そんな水掛論」
「冷静になってくれたようで何よりだ」
処方箋を折りたたんで、イリウスは座り直した。
「そう、水掛論だ。君は間違っていないと主張し、向こうは君が間違っていると主張する。真実を追求する法律家としては、白黒はっきりさせた方がいいと考える。しかし憲兵としては」
天秤のバッジを片手で隠し、イリウスは眉を上げた。
「妥協のしどころを見誤らない方がいい。末端とはいえアグラミル商会の人間相手。賠償で済むか、身の破滅まで行くかは君の自由だ」
「……後ろ暗いところが私にない以上、賠償も破滅も受け入れません」
「では市民に寄り添う法律家として君の不利なところを列挙しよう」
イリウスはクラウディアの言葉に被せるように声を張る。
「一つ! まず、被害者の部屋から見つかった処方箋。これは証拠だ。しかし一方で、君の店から処方箋の写しが見つかったとしても、捏造だと言われかねない。もちろん同じことがこちらの処方箋にも言えるが、こちらは医者のお墨付きだ」
「……そ」
「もう一つ! 君が被害者と揉めていたという証言がある。怨恨がなくはないだろう。さらに一つ。君はアグラミル商会のゼネガ氏に借金がある。その経緯から、被害者の所属するアグラミル商会への恨みも十分ということだ。最後に」
声を顰め、イリウスは囁くようにクラウディアに顔を寄せる。
「商会の人間を、一薬師が相手取るなんてやめておいた方がいい。今ならまだ傷は浅い」
かっ、とクラウディアの顔が赤くなった。
「不都合を飲み込んで丸く収まれと? どうして私が!」
立ち上がったクラウディアの勢いで、椅子が倒れる。
「向こうがその気なら戦います! 私は絶対に、何も譲りません」
「親切心を無碍にするとは。ひととき耐え忍ぶことが、命を救うこともあるだろうに。大人になるとはそういうことだ」
「偽りで利を得る輩に傅くのが大人なら、そんなのはまっぴらごめんです! 正しいと証明することこそが正しくあるべきです」
「詭弁だな」
首を振り、イリウスはもう一度長い息を吐いた。本を閉じ、立ち上がってクラウディアに目線を合わせる。鷲鼻に乗った丸眼鏡の奥で、鋭い瞳がクラウディアを見据えていた。
「では、神前審問を望むかい」
「はい」
「……三日後。それまでによく考えるといい。神前審問での敗北は君の破滅を意味する。これまで守ってきた矜持も、あの店も、全て失うかもしれない。見張り付きでなら今夜は帰宅を許される。彼によく説明しなさい」
本の背表紙を撫で、イリウスは机の上でそれをクラウディアに向けた。
「貸してあげよう。君が問われる罪を数えられる」
怒りに肩を震わせ、クラウディアは引ったくるように本を受け取った。
「つまりそのほーりつかというのを黙らせればいいんだな」
「やめてください! 何もしないでくださいよ、本当に!」
クラウディアの剣幕に、アドルよりも見張りの憲兵の方が身を縮めた。大鍋のスープをかき回し、アドルは「ふうん」とだけ返す。小皿にスープをよそって憲兵に突き出すと、憲兵は首をぶんぶんと横に振った。
「味見」
「……あ、はい」
「何もしないのはいい。だがそれでクラウディアが助かるとは思わないが?」
憲兵に小皿を押し付け、アドルはクラウディアを振り返る。かばんに着替えを突っ込んでいたクラウディアは、苦々しい顔で「そうですけど」と絞り出した。
「どうせ負け戦でも、戦うことに意味があるんです、こういうのは」
「クラウディアは間違っていないのに、負けるのか」
「私がオルビスを処方して、ロブさんがそれで倒れたのは事実です。少なくとも、そのことの責任は私にありますし」
「ふー……ん」
アドルは深皿にスープを注ぎ、一度長く瞬きをする。
「そうやって、一人で戦うんだな」
憲兵が、びくりと肩を縮めてアドルを見上げた。クラウディアは荷造りの手を止め、振り向く。
「そうですけど?」
きっぱりとした言葉には、怒気が滲んでいる。アドルは三人分のスープをよそい、テーブルの中央にパンを置いた。
「何ですか」
「そうカリカリするな。ベーコンみたいだ」
「煽ったのはあなたでしょう」
「それは認める」
クラウディアは大股でテーブルに近付き、片手をテーブルについて身を乗り出した。
「あの。何もしないでくださいっていうのは、余計なことをしないでくださいってことです。アドル、人間の法律なんか分からないでしょう? 神前審問で素人が出ていけば私が不利になる。せめて訴えは取り下げさせないといけないのに」
「弁の立つ知り合いのアテでもあるのか」
「ありませんよ。でも私だって、薬に関する法律ならよく知っていますもん」
アドルはスプーンをクラウディアに突き出す。クラウディアはそれを受け取らず、顔を険しくした。
「中二番の連中に頭を下げたらどうだ。ツテが見つかるかもしれない」
「助けてくれるわけないじゃないですか。代理とはいえ相手はアグラミル商会ですよ? 下手に恨みを買ったらこの町で商売なんて続けられない」
「ならなおさら、意地を張っている場合ではないのではないか? お前も」
かっ、と顔を赤くし、クラウディアはアドルの襟元を引っ掴む。蹴り飛ばされた椅子が、床に倒れて派手な音を立てた。
「私は戦う理由があるんです! 相手が誰だろうと、この店を守るために。分からないんだろうけど、あなたには!」
「そうだな、分からない」
「だったら黙って」
「何がそんなに怖いのかが、分からない」
クラウディアの手首をつかみ、アドルはまっすぐにクラウディアの目を見る。
「誰もかれもがお前の敵じゃない」
「あなたにはそう見えるんだろうけど、」
「クラウディア」
わずかにアドルの指先に力がこもる。手首を圧迫される痛みで、クラウディアははっと息を飲んだ。アドルの表情は一貫して穏やかで、静かな声はゆっくりと、言い聞かせるように続ける。
「我はクラウディアの味方だ」
「……それは、でも」
クラウディアは首を横に振る。アドルは言っていた。『この傷の主に会いに来た。それから、幸せにしなければいけない。だから、恋をさせにきた』と。アドルの顔の傷は当然、戦女神ベルマがつけたものだろう。それに会いに来たと言うのならば。
「確かに我はこの傷の主、ベルに会いに来た。だがそれとクラウディアは関係ない」
クラウディアの心を読んだかのように、アドルは言った。
「……は?」
突然の告白に、クラウディアは思わず言葉を失う。
「古い約束というのは、ファウストと、だ」
逃げようとしていた手から、力が抜けた。
その名前は、クラウディアもよく知っている。
「……嘘でしょう」
「まさか」
「……、」
お父さん、とクラウディアは口の中で呟いた。アドルが手を離すと、クラウディアはすとんと床に両足をつく。強く握られていたと思った手首には痣もなく、ただ、アドルの掌の熱だけが残っていた。
「……約束は、父とだったんですか」
「そうだ」
「足りないと思います。言葉が」
「そうかもしれない」
俯いたクラウディアの視界に、アドルの足が現れる。日に焼けた裸足の足首に、鉄色のアンクレット。それは、罪人の足枷と同じ形をしている。差し出されたアドルの指先が、そっとクラウディアに上を向かせた。太陽のようなアドルの瞳が、ランプの灯を反射する。嘘偽りなど少しも見えないその双眸に、クラウディアの記憶が引っかかる。
あ、と、喉の奥から息が漏れた。
「……あのとき、もしかして」
ぎゅ、と目をつぶり、クラウディアは大きく息を吸った。
「あのとき、お父さんを連れてきたの……アドル?」
「思い出したか」
アドルが目を伏せ、クラウディアはゆっくりと頷く。
それは、五年ほど前のこと。
ひどい雨の日だった。厄介な病で高熱を出して、まだ意識がぼんやりとしていた。夜半過ぎに窓をたたく音がして、寝ぼけ眼でカーテンを引いた。そこに、真っ黒なものが立っていた。鳥のような足で街頭をつかんで、大きな翼を広げていた。窓をたたいていたのは、長く伸びた尾のようだった。
真っ黒なそれがゆっくりと振り返って、太陽と同じ色の瞳をこちらに向けた。伸ばした指先も定かではないような夜だったというのに、その体の輪郭とぎらぎらと光る目だけは、クラウディアにもはっきりと見えた。
思わず窓から離れて、腰を抜かした。手探りでベッドから毛布を手繰り寄せて、そのまま、気付くと朝になっていた。来客の音で店へ降りると、ドアの前に、三日前から帰っていなかった父がいた。既にこと切れていた。手足は小さな傷だらけで、腕の中に、見たこともない花をこぼれそうなほどに抱えていた。
「だから、お前の幸せのために我は来た。お前の味方だ。クラウディアの、味方だ」
あの夜、夢か幻かと思った眼が、クラウディアを見ている。クラウディアはアドルを見上げ、二度ゆっくりと瞬きをして、
「でも、どうしてそれが恋をすることになるんです?」
「うん?」
浮かんだ疑問を口にすると、アドルはきょとんとした顔になった。
「私があなたに恋をすることが、私の幸せだと思ってたんですか?」
「なんでクラウディアが我に恋をする?」
「……やっぱり言葉が足りないと思うんですよ」
口元を緩め、クラウディアは目を細めた。アドルは考えるように視線を巡らせてから、ぱん、と両手を合わせる。
「飯にしよう」
「そうですね」
火にかけっぱなしの鍋を振り返ると、置物に徹していた憲兵がようやく、ほっと息を吐いた。
スープを温めなおし、三人は食卓につく。パンを半分食べ終えてから、クラウディアは「それで」と口を開いた。
「アドルは、どうしたほうがいいって?」
「何の話だった?」
「……私が、一人でも戦うって話です」
クラウディアは唇を尖らせる。アドルはスープ皿を空にして、「そうそう」と頷いた。
「クラウディアの無実は我が証明できる」
「身内の証言は相手にされないですよ。アドルは私を贔屓してますから、よけい」
「証言するのは我じゃない」
「ロブさんですか? しばらく安静にしてもらいたいですし、無理は」
「ひみつ。ほーりつかの本あるんだろう? 借りておく」
え、とクラウディアはパンをちぎる手を止める。
「神前審問が何かご存知ですか?」
「うん? うん。ほーりつかの話を聞いていた。我、耳がいいゆえ」
自分の耳を指差し、アドルはにぃっと口元を笑わせる。
「三日もあるんだ。証拠くらい集まるとも。クラウディア。お前は人望があるから」
「皮肉ですか」
「?」
首を傾げたアドルに、クラウディアはばつが悪そうな顔をした。アドルの隣でスープを口に運びながら、憲兵は眉間のしわを深める。
「まあ、うん、ともかく。一緒に戦うさ。クラウディアが嫌がってもな。ファウストの願いは我の願いだ」
その笑顔に父の面影を見て、クラウディアはきゅっと唇を引き結んだ。




