第五話 平穏と暗雲
風が窓を揺らす音で、クラウディアは目を覚ました。ベッドから体を起こし、手探りでカーテンを持ち上げる。窓の外では、まだ星が瞬いていた。
「クラウディア?」
暗闇から飛んできた声に、息を呑んでそちらを向く。
「どうした。この家なら我が守っている」
「あ……いえ。少し、風の音が」
闇に塗りつぶされた部屋に目を凝らしても、アドルの姿は見えない。と、「ああ」と声がして、暗闇の中に燈が灯った。橙色に揺れる炎が、アドルの顔を浮かび上がらせる。
「見えるか」
「あ……はい。いえ、でもすぐに……アドルは眠らないんですか?」
「……? 必要ない。ここは本がたくさんある。暇にはならない」
アドルが首を傾げ、蝋燭を軽く持ち上げた。テーブルに置かれた分厚い本が、灯りの中に現れる。
「毎日眠らなければいけないとは人間も難儀だな。横になって動かないなど、命の終わる時くらいだと思っていた」
ああ、とクラウディアは納得したように頷く。だから家に初めて泊まった時、眠っている自分を大声で叩き起こしたのか。あの時はただ迷惑だと思ったが、あれも彼なりにクラウディアを心配していたらしい。
しかし、とすればこの数日、夜更けから朝方まで、この竜はずっと真っ暗な中で本を読んでいたのだろうか。妙に知識が増えるのが早いとは思っていたが。自分が起きないように息を潜めて、灯りもつけずに。
「……眠らなくていいだけなら、寝てもいいんじゃないですか」
きょとん、とアドルは首を傾げ、それから困ったように、眉根を寄せて笑った。
「我、眠り方を知らない」
その客は、カウンター奥で雑用をしていたアドルを見るなり顔を青ざめた。アドルは自分の顔を指差して首を傾げる。
「あなたが腕を粉砕した人です」
「あ? あー……そんなこともあったな」
男の右腕は大きな布で首から吊られており、患部である二の腕には分厚い包帯が巻かれていた。
「まだ治らないのか」
「人間そんなに早く骨は治らねえよ!」
「まだ十日なんですよ。反省してます?」
男とクラウディアに同時に責められ、アドルはきゅっと口を閉じる。
「だってクラウディアに絡んでたし」
「珍しく言い訳するじゃないですか。でもそれはそれ、仕事は仕事です」
クラウディアは、男が差し出した封筒を受け取る。中から、四つ折りにされた紙が二枚出てきた。
「処方箋ですね。ええと……ロブさん。処方は痛みを抑える薬です。うちで天法薬は初めてですよね?」
「あ、ああ、うん」
「では少しお時間をいただいて、薬の説明と副作用についてお話を。念のためカウンセリングも行います。アドル、お茶ください。三番の茶葉のやつ」
「……お前すごいな」
アドルの言葉は無視し、クラウディアはカウンターから出て丸椅子に座った。男はクラウディアの手の処方箋とクラウディアの顔を見比べる。
「ちゃんと仕事しますってば」
むっとして、クラウディアはペンを執った。
「今まで他の店で天法薬を買ったことは?」
「いいや、初めてだ」
「出来合いは? うちで買った日の控えがあれば、何を買ったかは分かりますが」
「控えは捨てちまったな。買ったのは前の一回きりだ」
「アドル、十一日前の帳簿見せてください」
階段を下りてきたアドルは、開いた帳簿をクラウディアに、カップをロブに差し出す。クラウディアは帳簿に指を当て、ずらりと並ぶ売り上げの記録を辿った。
「虫下しですね」
「腹の虫追い出そうとして腕を折られては世話ないな」
「だから誰のせいですか」
しっしっ、とアドルを追い払い、クラウディアは処方箋を一枚裏返す。
「今回処方されているのは、オルビスという痛み止めです。特に大きな怪我の痛みを軽減し、治りが早くなるように手助けする薬です。ただ、同系統のクルススよりも使用している生薬が多く、効果は高いですがいくらかの副作用が考えられます」
八つの生薬の名前を処方箋に書き出し、クラウディアはそれをロブに見せる。ロブは目を細めて字を追い「ああ」とだけ返事をした。
「今まで薬を飲んで、具合が悪くなったことは?」
「ない」
「食べ物、飲み物では?」
「ない」
「果物などを食べて口や喉が痒くなることは?」
「ない」
「直近で、アブ、レグ、ルネールを含む食べ物を摂取したことは?」
「ない……と、思う。勤め先が勤め先なんで、可能性はゼロじゃないが」
「では反応が出にくい調合にしますね」
カウンターに頬杖をついて、アドルはつまらなそうに二人の会話を聞いていた。細かな質問を終えると、クラウディアは「最後に」と語気を強める。
「他に、今飲んでいる薬は?」
「ない」
「本当ですね。オルビスは強い薬ですから、飲み合わせによっては命に関わるんです」
「……薬で?」
ええ、と頷いて、クラウディアは聞き取った内容をメモしていく。
「もともと、毒と薬は表裏一体なんですよ。過ぎれば毒、適量なら薬。指示に従い、用法、用量をお守りください。死にたくないならね」
最後の一言に、ロブは唇を曲げた。
クラウディアが調合のために席を立ち、丸椅子にはアドルが代わりに腰掛けた。長い足を組んで頬杖をつき、じっとりとロブを睨んでいる。ロブは所在なさげに視線を彷徨わせて、「何だよ」と絞り出すように言った。
「別に」
つっけんどんにアドルは返す。
「なあこの店員さん怖いんだけど!」
「ほっといてください、噛みつきやしません」
てきぱきと調合を進め、クラウディアは薬包紙に完成した薬を乗せた。黒い粉薬を同じ分量、二回分に分けてそれぞれ包む。きっちりと折り畳まれた薬を一回り大きな封筒に入れ、クラウディアはロブを呼んだ。ロブが椅子から立ち上がると、アドルも立って丸椅子を片付ける。支払いを済ませ、ロブは礼もそこそこにそそくさと店を出ていった。その姿がすっかり見えなくなってから、ふん、とアドルは鼻を鳴らす。
「アドル」
「何だ、あいつは嫌な奴だろうが」
「ええ、アドルにとっては」
空のマグカップを手渡し、不満げなアドルに小さく笑う。
「そのうち分かりますよ」
「……はあ。言うことまであいつに似ている」
アドルは半眼になった。クラウディアは調合道具を片付けると、処方箋の写しを箱に入れた。
「午後は予約のお客さんもいませんし、少しゆっくりできるかと。アドルはお休みにしますか?」
「やすみ?」
「仕事をしない日のことです」
分かったような、分かってないような顔でアドルは頷いた。
「休んでもすることがない」
そう、と返事をして、クラウディアは帳簿を開く。
「じゃあおつかいをお願いしても? もうすぐインクが切れそうで。注ぎ足し用の……ええと、アストマーレのいつものって言えばいいですから」
カウンターに置かれたインク瓶に、アドルは目を瞬かせた。
「クラウディア、そのインク」
「はい?」
「……。いや、何でもない。他に何を買う?」
「そうですね、夕飯用のパンとか」
「クラウディアの好きなクルミのやつだな」
「よく覚えてますね」
笑顔を見せて、アドルは胸に手を当てた。
「我は忘れないんだ。何かあればすぐに呼べ。五つ数えるうちに戻ってくる」
「流石に聞こえないでしょう? でも、ありがとうございます」
財布をアドルに差し出し、クラウディアも笑みを浮かべた。
パン屋の店主に、顔色がよくなったと言われた。
「そうかもしれないですね」
二人分のパンをカゴに入れて、クラウディアは苦笑した。最近は足が痛くなるまで薬を売り歩くこともなくなり、飛び込みの客にも時間を割ける。難癖をつける輩も来ない。
「最近、ちょっと楽しいなって思うことが多いんです」
アドルがいると、気が滅入る隙がない。昨日のように客を相手に警戒心をあらわにされるのは困るが、それも滅多にないことだ。
半月前は、突然降ってわいたような出会いに面食らったものだが。
パン屋を出て、クラウディアは軽い足取りで店に戻る。留守番を任せたあの竜は、どんな顔で待っているだろうか。飛び込みで来た客にうまく応対できているだろうか。自ら見習いと名乗るからには、出来合いの薬の説明くらいは、できてもらわなければ。
そういえば、ジャムを塗ったパンが好きだと言うが、アドルは甘いものが好きなのだろうか。隙あらば食事をサボろうとするので、好きな料理の一つでもできればいいのだが。食べている間は幸せそうな顔をしているので、食事が嫌いというわけではなさそうだ。
イグリー曰く、コーヒーはあまり好みではなかったらしい。果実水はどうだろうか。紅茶やホットミルクはよく自分の分も用意している。今日の昼食は、クリームが入ったものを買ってみた。アドルは気に入るだろうか。
「……ふふ」
きっと傍目に見ても浮かれていることを自覚して、クラウディアは笑みをこぼした。店を継いでからこのかた、食事は片手間に済ませられることを第一にしてきた。昼食を買いに店を出るなどいつぶりだろう。
そんな浮かれ気分は、しかし、店が見えてきたあたりで萎んでしまった。
「……?」
店の前に、アドルが腕を組んで立っている。その向かいに立つ二人の男は、白と青の憲兵の制服を着ていた。アドルがクラウディアに気付き、険しい顔をやや和らげる。憲兵は地面につけていた警棒を持ち上げて、クラウディアに向き直った。
「何か?」
「アストマーレの店主殿ですね」
「ええ、はい」
「同行願いが出ています。話は役場で」
言うなり、二人の憲兵はクラウディアに詰め寄る。
「協力は、市民の義務です」
「……誰からの依頼です?」
「それも、役場で」
「ゼネガだ」
憲兵の背後から、アドルが声を投げた。憲兵は驚いたように振り返る。
「何も言えないと強情だったゆえ、少し聞いた。アグラミル商会所属、運搬従業員ロブへの天法薬処方とその経緯について」
小指を耳に突っ込んで、アドルは視線を斜め上へと投げる。憲兵が言葉を失っていると、アドルは一巡りさせた視線をクラウディアに戻した。
「あの小僧、今死にかけている」
クラウディアの手から、カゴが滑り落ちた。




