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第四話 君がため

 月に三度、クラウディアは朝早くから町の上層に昇る。中四番の交差点から更に緩い上り坂を進むと橋があり、川が町を上下に区切っていた。この川は人工的な水路であり、上層と中層の境界、最も賑わう黄壁(きへき)商店街の舟運に使われている。


「中二番の商店街は、ほとんどがここの店の支店なんです」

「イグリーの店もか?」

「ええ、大体は。いい商品はここにまず入って、それから中に下ろされる。下層……中の城壁の外側になると、市民の階級が五等以下になりますから、もっと商品の質は下がるんです」

「階級、か。面倒なことを考えるんだな、人は」

「余計な争いを避けるためでもあるんですよ」


 荷物持ちを任されたアドルは、クラウディアの説明に唇を曲げていた。


「その階級も、金でどうせ決まっているんだろう」

「ええ」

「金、金。人間は金が好きだな。金より大事なものがあると思わないか?」

「それは、お金に困ってない人だから言えるんです」


 黄壁商店街は大きなアーケードになっていた。風雨から守られた建屋の左右に、ずらりと店が並んでいる。全て同じ大きさのカウンターで揃えられ、水路側の壁に所々大きな戸があった。


「さて、無駄話はここまでです。いいですか」


 三件ほど店を素通りしてから、クラウディアは振り返り、アドルの胸元を指差した。


「今日の買い物は、大っ変不本意ながらあなたの素材を使います。天法薬の材料を少しでも買い足しておきたいので。ですけど、絶対、余計な口出しはしないでくださいね」

「分かった、分かった。我は荷車に徹する」

「よろしくお願いしますよ」


 三日前にアドルから削り出した竜の角のうち、半分をクラウディアは持ってきていた。商店街の薬種商ならば、交渉次第で別の材料と物々交換ができるだろう。店長とクラウディアは、知らない仲でもない。


「お? 久しぶりじゃないかクラウディア」

「レティさん、お久しぶりです。ああ、この後ろのは気にしないで」


 商店街の中央、大きなカウンターと掲示板の隣に、その店はあった。カウンターの上には天秤が置かれ、小さな黒板にいくつか生薬の名前が書かれている。


「はは、噂の竜殿だろう。中層の奴らから聞いてるよ」


 カウンターの奥には、棚が積み重なっていた。正方形の小さな引き出しがぎっしりと並んでいる。それぞれに紙が貼られ、細々とした字が書き付けられていた。初老の店主は、丸眼鏡の奥からアドルを見遣る。アドルはふいっと視線を背けて口をつぐんだ。


「あはは……それで、ええと。テスティアの種を五つと、アドラネールの花弁を一袋、それから、廻遊の涙を一本いただきたいんですけど」

「はいはい。全部で四千と二百五十ルミだね」

「これでどうでしょう」


 クラウディアは、小さく折りたたんだ薬包紙を取り出す。


「……クラウディア、物々交換は生憎と受け付けていなくてね。お前さんところが厳しいのは分かるが」

「チェルナボグの角です」

「竜の素材といえ……なんだって?」


 クラウディアは、横目でチラリとアドルを見た。


「ご存知でしょう。北の太古の竜、チェルナボグ。竜の素材の中でも、希少も希少だと」

「いや、しかし、ゼネガの旦那はただの竜だと」


 レティは声をひそめ、辺りを見回す。隣の店の店主は、常連との世間話に花を咲かせていた。


「本当に?」

「ええ」

「いやあ、だが……すまないね、だとしても」


 クラウディアは、同じ包みをもう一つ置いた。


「竜の素材は、最も安価な鱗一枚、約二十グロムで底値が千五百。竜の年齢が増えるごとに価値も上がります。角は、死んだ小型の竜の物でも最低価格は一グロム千ルミはくだらない」

「……チェルナボグは何歳だったか……」


 値踏みする視線に顔を顰めながら、アドルはレティを見下ろし、「千六百三十二だ」と返した。


「一つの包みに三グロム入っています」


 クラウディアの指の下の包みを見て、レティはごくりと唾を飲み込んだ。長年天法薬や魔法薬の生薬を扱っているが、齢千を超える竜のものは入荷した試しがない。この一包みにどれほど価値があるか。


「……確かに、一グロムで最低でも七千……いや、一万……」


 呟きながら、レティはアドルを見遣った。アドルはそっぽを向いてあくびをしている。クラウディアはじっとこちらを見下ろしており、その瞳に揺らぎはない。指先で唇を撫で、レティは片眉を上げた。


「しかし……だね。それが本当なら、換金してから改めて買いに来るべきだ。いい目利きがいるからね」

「買取所はアグラミル商会の直轄です」

「私なら、その取引に応じると踏んだわけだ。そういう敵を作るやり方はよくないよ」


 レティはカウンターを指先で叩き、口の片端を上げて見せた。


「得体の知れない竜の角……そこに入っているのが本当にそうだという確証もない。君が嘘をつく人間だとは思わないが、だとすれば、六グロムもちらつかせる必要もないだろう?」

「……そうですね」


 クラウディアは視線を落とし、片手でアドルの袖を引く。


「あれ、見せて」

「ん? ああ」


 クラウディアが薬包紙の一つをアドルに差し出すと、アドルは指先でそれを挟み、唇に当てた。

 とたん、赤黒い光が薬包紙を包む。それは瞬く間に大きくなり、やがて、パン、と薬包紙がはじけた。黒い砂のようなものが、カウンターに落ちる。巨大な火花が弾けたような光景に、レティは目を丸くした。


「ご存知ですね。竜の魔力感応です。これでもまだ、偽物だと?」

「……いや」

「残念です。いつも助けていただいているレティさんには優先的に、と思ったのですが」


 クラウディアは鞄を開き、そこから薄い箱を取り出す。カウンターに残された薬包紙をそれに入れる際、同じ包みがいくつも箱に残っているのが、レティにも見えた。


「でも、そうですね。換金するのが正しいですね」

「あ、いや、その、クラウディア?」

「アグラミル商会に渡したら、直営の薬種店以外ではなかなか手に入りにくくなってしまいますし値もつり上がります。その辺り、レティさんでしたら、と思ったのですけれど……やっぱり」

「いや、ちょ、ちょっと待ちなさい」


 レティはカウンターの上に、クラウディアの注文の品を置いた。


「一つ……耳を貸してくれないか」


 額に汗を浮かべているレティに、アドルは目を瞬かせる。クラウディアはにんまりと笑い、「ぜひ」とカウンターに箱を置いた。




 薬包紙三つと引き換えに、クラウディアは注文の倍量の材料と、一通の紹介状を手に入れた。黄壁商店街よりさらに上層、商会に属さない薬種の専門店へのチケットだ。一級調薬師の免状を見せれば入れないこともないが、それでもクラウディアは何度か門前払いを受けている。


「今の店の通りが一番上じゃないのか」

「商店街はアグラミル商会が取り仕切っています。安く大量に仕入れる以上、生薬の種類は少なくなるんです。レティさんの店はそれでも、品ぞろえはかなりいい方ですけれどね」


 ふうん、と荷物を抱えてアドルは首を捻った。


「餅は餅屋ってことです」

「分からん」

「んー……ええと。薬に使う百種の材料があったとして、そのうち五十をちょっと安く売ってくれるのがレティさんの店です。ちょっと高いですけど百ぜんぶ揃っているのが、これから行く店です」

「あぐらみる、は悪い奴ではないのか?」

「この町のほとんどの人にとっては、別に悪い商会じゃないですよ。経済っていう」

「そういう難しいのはまた今度」


 両手が塞がっているからか、アドルは手の代わりに尾を振った。目の前に現れた尾の先端に軽くのけぞって、クラウディアは「そ、ですか」と返す。


「次はそこで買い物か?」

「ええ、あと交渉を。飽きたなら帰っててもいいですよ」

「ん……いや、行く」


 視線を軽く泳がせてから、アドルはクラウディアを見下ろし、薄く笑った。


「『チェルナボグ』は交渉に使えるんだろう?」


 背中が粟立って、クラウディアは小さく身震いする。


「ええ、そうです、けど」


 竜や古い時代の人間は、神々から二つの魂を与えられていた。うち一つ、魔力と呼ばれる生命力は時代が下るごとにその役割を失い、現代の人間で持っているものはいない。生物の寿命を補い、怪我や病気をたちどころに完治させ、果ては肉体の形すら思うままにする神秘の力だ。

 魔法薬は、竜や魔物、妖精の素材を通じて魔力を含ませることで強い効能を得ている。当然長命であるほど魔力も多くなり、それが千年を超える時を生きているアドルとなれば、クラウディアでも感じ取れるほどになる。ぴり、と頬を指す魔力の気配に、クラウディアは表情を引き締めた。

 肝に銘じなければ。今隣に立っているのは、その気になれば自分を縊り殺すなどいともたやすい存在だ。


「別に」


 アドルは表情を緩め、苦笑を漏らす。


「そう緊張することでもないだろう。知った店に行くのに」

「……そうじゃないです」

「ふうん?」


 やはり噛み合わないな、とクラウディアは首を振った。




 薬種店の店員は、クラウディアが差し出した紹介状をしばらく眺めてから、笑顔で二人を迎え入れた。だがアドルはそれを辞し、店の外で石畳の数を数えていた。広い道のあちらからこちらまで、目の届く範囲を指折り数えるうちに日は高く昇り、道を行き交う人の数も増えた。

 その人々の間から、知った匂いが近付いてくる。アドルは視線を落とし、眉間にしわを寄せた。


「やあ、竜殿、暇そうだな」

「五百六十三」


 ゼネガは帽子を軽く持ち上げ、上品に微笑む。


「そう邪険にするんじゃない」

「しない理由がない」


 しゃがんだアドルの前で、ゼネガは杖で石畳を叩く。その石畳を指差していたアドルは、露骨に顔を不機嫌にさせた。


「話をしよう。我々には言葉があるのだから」

「戦女神の言葉を軽々しく使うな。お前のようなチビの小僧が」


 顔を険しくし、アドルはぬるりと立ち上がる。顔を寄せて見下ろすと、ゼネガは一度唇を閉じたが、すぐに顎髭を撫でて笑みを浮かべた。


「手厳しい。戦女神とじかに会った君にすれば、誰であろうと幼子になってしまう」

「お前からは捩くれた臭いがする。腐った泥沼の底の臭いだ」

「竜殿は少々知見を広げたほうがいい。人の真似をしていたいのならば。クラウディア女史ばかりが正しい人間ではないのだよ」

「はん」


 ぐっと目を細め、アドルは口元を笑わせた。


「正しい人間がいる、それこそが人の思い違いであろう。人の中に正しいがあるのならば、神など要らん」

「哲学の話をしたいんじゃない。君が本当にチェルナボグかどうか、その真偽は別として、強い竜であることだけは確かだ。人間社会において最も大事なものは、秩序、そして公平なのだよ。君が彼女に尽くす、それは極めて不公平だと思わないかね」

「……言い分くらいは聞いてやる」


 アドルが腕を組むと、ゼネガは胸に手を当てた。


「人の世界での力とは、富と、権力だ。武力の時代は過ぎたのだよ。そして富は権力を生み、権力は富によって支えられる。持てるものによる再分配によって持たざるものは生き、持たざるものは持てるもののために労働力を提供する。この都市を見たまえ。上層中層下層に分かれることで富と知による諍いを排除し、全員が公平に生きている」


 演説でもするかのように、ゼネガは杖で石畳を叩き、アドルの前をゆっくりと歩いた。アドルはそれを目で追いながらも、憮然とした表情を変えない。


「神々が築き、戦女神ベルマによって勝ち取られた平穏と秩序。それを君は搔き乱す」

「公平」


 アドルの指が、ゼネガの眉間に触れた。息を飲み、ゼネガは大きく一歩退く。


「我は、人間社会の仕組みは知らん。だが公平が大事というなら、なぜお前はクラウディアから奪う」

「公平と平等は違う。立場は公平であり、機会は平等なのだよ。私は後ろ暗いことはしていない。この町で罪があるというならば君の方だ。無知というね」

「……無知。ああそうか、貴様は」


 アドルの口元が、ゆっくりと笑みの形に歪む。だがそれは次第に、歯を食い縛り、憤りを噛み殺すような形になった。揺れる尾の先端が石畳を引っ掻き、赤の混じった髪が風に逆らって揺れる。爽やかな晴れの日だというのに、アドルの周囲だけが曇天のように空気が澱んだ。


「貴様もそちらか」

「……何か、気に触ることでも?」


 ドアベルが鳴り、上機嫌のクラウディアが店を出てきた。だが階段を一歩降りたところでクラウディアは足を止め、表情を凍らせる。


「クラウディア。うまくいったのか」

「え……ええお陰様で。荷物番ありがとう」


 ぱっ、と無邪気な笑みを浮かべ、アドルはクラウディアが持っていた紙袋も引き受ける。周囲に凝っていた冷気が散るように、アドルの雰囲気が和らいだ。


「他に用事は?」

「ないです、けど」

「では帰ろう。……顔が晴れないな。疲れたか?」


 いいえ、とクラウディアは首を横に振り、ゼネガを見遣る。ゼネガはぐっと一度言葉を飲み込むと、「竜殿」とアドルの背に呼びかけた。


「無礼は詫びる。だが、事実だ。君は人に対してあまりに無知だろう」

「人の町に入るのは二度目ゆえなあ」


 振り返らないままでアドルは答えた。


「せっかく、貴様らの言う戦女神に会いにきたというのに、今も昔も人の町は窮屈なことだ」

「戦女神に会いに……?」


 ゼネガは怪訝な顔をしてクラウディアを見る。アドルの背中越しに、クラウディアは視線を逸らしたまま頷いた。


「……竜殿、戦女神は」

「死んでない」


 ピシャリと、それ以上の言葉を拒絶するようにアドルは返した。


「死なないと、言った。そして死んでいない。ここにいる」


 荷物を右手で、クラウディアを左手で抱え上げ、アドルは歩き出す。そして数歩進んだ先で半身振り返り、せせら笑うように言った。


「残念だったなあ? 我を思うままにできなくて!」

「だっ……」


 何かを言おうとゼネガが息を吸い込んだところで、アドルは走り出す。クラウディアの悲鳴だけが、その場に取り残された。


「………………」


 アドルの姿が見えなくなった途端、ゼネガの杖が地面に転がる。震える手でそれを拾い、ゼネガは長い息を吐いた。全身を地面に縛り付けていた見えない鎖が、一気に解かれたようだ。

 杖で体を支え、舞った砂埃を片手で払う。しゃんと背筋を伸ばせば、もういつも通り、威厳のある商会の長だ。踵を返して少し歩けば、迎えの馬車が待っている。

 御者に行き先を伝え、ゼネガは帽子を椅子に置いた。ガタガタと馬車が揺れ、石畳の上を進んでいく。


「……ふ」


 口元を片手で覆い、ゼネガはくぐもった笑いを漏らした。


「戦女神を知る竜……闇の王チェルナボグ! 欲しい……欲しいぞ、なんとしてでも」


 それに。ゼネガはクラウディアを思い出し、笑みを深める。


「あれを手に入れれば、アストマーレも時間の問題だ」


 ああ、なんと自分に都合のいい展開だろうか。数日前は突然のことに言葉が出なかったが、あの竜の思考は極めて単純で読みやすい。厄介なのは唯一、あの腕力か。だがそれも、得体の知れないものでもない。


「くっ……ふふ、降って沸いた幸運とはこのことだ。戦女神に感謝の一つでもしなければな」


 椅子に背を預け、ゼネガは窓の外を見る。馬車はちょうど、広場の外周に入ったところだった。戦女神が竜を負かす像が、広場の中心に建っている。馬車はゆっくりと車道を進み、別の通りへと抜けた。歩道を、幼い子供が走っていく。学校の昼休みの時間だろう。広場にはこの時間、子供が好きな軽食を売る屋台が出ている。


「可哀想に、人の寿命も知らないとは」


 子供の笑顔に、ゼネガは目を細めた。




 受け取った処方箋にサインを書き、クラウディアはアドルを呼ぶ。カウンターの向こうで待っていた客は、現れた長身の青年に驚いたように身を縮めた。


「天法薬。すぐ調合しちゃうので」

「レグの根とアドラネールの花弁、つなぎはオーの樹液だろう」

「え……ええ、はい」

「道具は分からんゆえ全部持ってきた」

「なんでそこはそうなんですか」


 インクとペンをカウンター下にしまい、クラウディアは道具と材料を受け取る。


「じゃあこれ、処方箋の写しです。そっちの箱の一番右に入れてください」

「分かった」


 カウンターの左側、客から見た右側の壁側には石製の作業台がある。そこにアドルから受け取った材料と棚から出した引き出しを並べ、クラウディアは腕まくりをした。

 手持ち無沙汰になると、アドルは使わない道具を持って二階に戻っていった。


「……ねえ、今の人は?」

「えーっと……」


 どう説明したものか、と苦笑いを浮かべながらクラウディアは手を動かす。弟子や助手というほど自分が立派なわけでもなければ、人を雇えるほどの余裕もない。かといって善意で手伝っていると言えば関係を勘繰られるだろうが、アドルと自分はまだ互いのことすらよく知らない。


「見習いだ……です」


 ホットミルクを入れたカップを持って、アドルが降りてきた。「そうなの」と客が頷き、クラウディアは頬の内側を噛む。


「見習いって、アドル」

「人間の勉強をしてい……ます。クラウディアが師だ。……です?」

「ちょっと、笑わせないでください、手元が」


 手の甲で口を隠して、クラウディアは振り返る。と、カップが三つカウンターに並んでいた。


「私、飲みませんよ」

「知っている。もうすぐイグリーが来る」


 客の手にカップを握らせて、アドルは通りを見やる。窓の向こうから、イグリーが手を振っていた。


「ほらな?」


 得意げに笑って、アドルはカップを軽く掲げた。

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