序 火を噴くお山の主さま
むかしむかしのお話。
北のお山にはまだ木々が青々と茂っていて、精霊たちと人は仲良く暮らしていました。そのころは神殿には神様がおわしまして、人の町が育っていくさまを、のんびり眺めていらっしゃいました。
しかし、そんな北のお山には、嫌われ者の竜、チェルナボグが住んでおりました。この竜、鼻先から尾の鱗の端まで真っ黒で、夜空を百ぺん重ねてもああはならないだろう、と言われるほどでした。その竜が立っていると、真昼でもぽっかり、そこだけ太陽が逃げてしまったかのようで、それでいて目はぎらぎらと金色に光っているものですから、人も精霊も獣たちも、みぃんな恐れて近付きませんでした。いつどうやって生まれたのか、誰も知りません。中には、天からの黒い稲妻がお山のてっぺんに落ちて、あの竜になったのだと囁く者すらおりました。
それでも、山の先から下りないうちは、慈悲深い神様が、あれもみなと同じ生き物だから、とおっしゃるので、遠巻きにその姿を眺めるばかりでした。しかしある夜、竜が人里に下りてきたのです。蝙蝠のような翼が上下すれば、その風で家々はぺしゃんこになりました。竜がひと声吼えれば、人々は耳を押さえてのたうち回り、竜がふうっと息を吐けば、それは毒の炎となりました。人々はほうほうの体で神殿に逃げ込みました。そこで神殿から神様がすっと姿を現すと、竜はあっという間にお山のてっぺんまで逃げていきました。
夜が明けて、助かった人と助からなかった人の数を数えると、人の王様が、神様の前にひざまずいて言いました。「どうか、あの竜をどこかへやってください。次にあの竜が来たら、今度こそみんな死んでしまう」と。神様は難しい顔をして、神殿の奥で考え始めました。陽が高く昇り、西の森へと沈み、また東の湖から顔を出してようやく、神様は心を決めました。
まず、新しい人の町を、北のお山からうんと離れた場所に作りました。
それから、西の森と東の湖に、精霊たちの居場所を作りました。
最後に、もの造りの神様と戦いの神様を連れて、お山に登りました。そしてお山のてっぺんをちょんと切り取って、その下に竜を入れました。竜の大きな後ろ脚は、もの造りの神様が作った特製の鎖でぎゅうぎゅうに縛られて、大きな口は、同じくらい大きな轡で封じられました。最後にお山のてっぺんで上から押さえつけますと、竜は少しも動けなくなりました。
お前が善い子になれば、出してあげるからね。神様はそう言って、お山を下りました。
それからしばらくは、竜も大人しく、人の町はどんどん大きくなりました。大仕事をした神様は、しばらく休むと言って、雲の上に帰っていきました。北のお山は寂しくなりましたが、精霊たちや獣たちは時々、竜の様子を見に行きました。けれど人は、決して行ってはいけないと神様に言われていましたので、一度も竜を見に行きませんでした。
更に何百年かが経って、人はすっかり竜のことを忘れました。北のお山は昔のように、精霊たちや獣たちが住むようになりました。しかし、竜のまわりは木々も草木も枯れてしまって、冷たい風がびゅうびゅう吹くようになりました。それで、精霊たちも獣たちも、竜を見に行かなくなりました。
そして、誰もかれもがすっかり竜のことを忘れたころ。
どぉん、と大地が揺れました。とうに陽が落ちた時間でしたが、人々は大慌てで家から出て、それからそろって北のお山を見上げました。ずいぶん遠く、それでも大きなお山の先から、紫の光が飛び出しています。その中に、黒々として、けれどぎらぎらと光る影があります。その影が長い首をぐうっと空に向けたかと思うと、地響きのような咆哮が町まで届きました。
それは確かに、遠い昔に神様によって封じられたはずの、あの黒い竜でした。人々は悲鳴を上げて、がたがた震える足を引きずって家に閉じこもりました。そして、神様がまた助けてくれますようにと、手に手を合わせて祈りました。
自由になった竜は、大きく二度息を吐きました。一度目は紫の毒の煙。二度目は真っ赤な炎。毒の煙に巻かれた精霊は、あわれ、闇の眷属となってしまいました。そうして草木を焼き、眷属を増やしながら、竜はゆっくりと翼を広げ、山を下りはじめたのです。
眷属達は、竜の道を灰と炭で彩ります。そこのこけそこのけ、我らの主がやってくる。その翼は太陽を隠し、その咆哮は冬を呼ぶ。真っ赤で真っ黒、火を噴くお山の主さま! 鼻の先から尾の鱗まで、恐れられない場所はない。
ひと晩で、北のお山ははげ山になってしまいました。けれど竜は、人の町にはやってきません。お山よりずいぶん遠くなった町ですが、竜の翼なら、瞬きの間のような距離のはず。だけども、竜はどうしても、人の町の遠くで止まらなければいけませんでした。
町の見張り台に、神様が立っていたからです。雲の上から竜を見ていた神様は、たくさんの天の兵士を連れてきていました。
七日七晩の戦いの末、闇の眷属達は打ち払われ、竜もお山に逃げ帰りました。竜を打ち負かしたのは、金色の鉾を持った戦女神でした。戦女神がその鉾を地面に突き立てたので、竜はまだあの女神がいると思って、お山から出てこないのです。
神様たちは雲の上に帰ってしまいましたが、今でもこの町は、その戦女神の鉾に守られています。それで、戦女神の名前から、この町はベルマという名前になったのです。
ぱん、と固い表紙が閉じられる。
「脚色甚だしいな」
青年は、閉じた絵本を貸本屋に突っ返した。
「これが人気なのか?」
「まあねえ。この町じゃ、みんな子供の時に読み聞かせられるから。本が買えない家なんかが、交代で借りていくのさ」
「北のお山ってのは」
「あのはげ山だよ。ここからじゃ、城壁で見えないが。中三つの通りくらいからはよく見えるそうだ」
ふうん、と薄黄色の城壁を見上げて、青年は敷布から立ち上がる。胡坐をかいた貸本屋は、傍らの背負い本棚を軽く叩いた。
「何か借りていかないのかい? 旅の人」
「いいさ。何せ金がない」
青年の足首で、鉄色のアンクレットがきらりと光った。
背筋を伸ばすと、青年の額は日よけの布にさしかかる。通りを歩く人々から頭一つ大きく、黒々とした髪にはところどころ赤毛が混じっている。金糸の服に金の腕輪、とても、金がない風貌には見えないが。
「ところで少年。クラウディアという女性はご存知か?」
「……この町じゃ、クラウディアっていったら薬屋の嬢ちゃんかね。今なら、中の二つ目の通りにいるだろうさ」
「なるほど、あの二つ目の城門の先なのだな。うむ、では礼にこれをやろう」
青年は金の腕輪を外し、貸本屋の頭に乗せた。貸本屋は、鼻歌まじりに去っていく青年を見送ってから、腕輪をじろじろと眺める。
「少年って年じゃないんだが……けったいな奴だな」
店の前には、裸足の足跡が残っていた。




