シンシア・マルガレータ・マタハリー【前編】
これは私も数年後に知る話である。
この場にいる勇者様もディアナもスカーレットも、そしてシンシアと直接対峙するオリビアも当然も知らない悲しみと不幸に塗れた物語。
…………
シンシアはジパン公国で代々要職を勤めるマタハリー子爵家、貴族に列する血筋だ。その当主、マタハリー子爵の後妻の娘、正確には彼女は連れ子だった。
この時、シンシアは十歳。
何者にも染まっていない純粋な心を持った少女だった。
父のマタハリー子爵は黒い噂で塗りたぐられた人物、その父の噂が事実だと彼女は初めての顔合わせで薄々と勘付く事となった。
母はマタハリー家の元メイドで、子爵の気まぐれで手付きとなった女性。母娘ともに萎縮しながらマタハリー家の客間で実の父の登場を待っていた。
父は死んだと母から聞かされながら育ったシンシアにとっては緊張しない筈もなく、ソワソワとしながらも本当の父を待つ。そんな様子のシンシアに優しく手を差し伸べてくれる母。
そんな母の表情もまた暗い影を落としていた。
「大丈夫よ、堂々としていなさい。貴女は貴族の仲間入りをするのだから」
シンシアの手にソッと母の手が差し伸べられる。無数の傷が付いた母の手が。この傷が何を意味するものか、子供の彼女には分かる筈もなく、シンシアは母にコクリと頷くのみ。
張り詰めた空気の中、ギーッと貴族の屋敷らしからぬ音が響く。客間のドアが開いた音だ。ドアの先には一人の男性が立っていた。
シンシアの父、セレステ子爵だ。
「ふん、久しぶりだな」
冷たい目つき、失礼だとは思ったがそれがシンシアが父に抱いた最初の印象だった。
「ご無沙汰しております」
「もはや会うこともあるまいと思っていたが、オモチャが壊れてな」
オモチャ。
子爵の口から出た言葉に母がビクリと体を震わせていた。シンシア自身にとってもこれから記憶にも深く刻まれた事となる爪痕だ。
この言葉の意味、子爵は有名なサディストであり己の妻子でさえ手を挙げる人物として知られていたらしい。つまり、オモチャとは子爵の前妻。
子爵に日常的に暴力を振るわれていた前妻が糸切れた、オモチャが壊れたと言う言葉の真意である。
父を知らず優しい母によって田舎町で育った幼いシンシア、ちょっぴり意地悪だけどいつも笑顔でいてくれた友達達。そして母子家庭を不憫に思い、何かと面倒を見てくれていた街の人々。
そう言った優しさしか知らない彼女にとって、子爵は怪物だった。
そしてこの日から母の様子がおかしくなる。
夫婦という事で就寝を共する父と母、夜が明け朝食の席で顔を合わせる度に母の体に生傷が増えていく。その度に母の様子が弱々しくなる。にも関わらず父は上機嫌、これは如何に子供とは言えシンシアでも容易に分かる変化。
そして子供ながらに気付く父と母の関係。この時、彼女は真実に気付く。彼女たち母娘は父にとって道具なのだと。
そんな真実に追い討ちを掛けるかのように、ある日、義はそんなシンシアに言葉をかける。
「お前の婚約者が決まった。お前も私の役に立ちなさい」
マタハリー子爵家は新興貴族、その羽振りの良さは貴族社会でも有名だ。そう言った成り上がり者が望むものは地位や名声。どう言った伝を使ったかは分からないが子爵は公爵家との縁談を手に入れてきた。
冷たい目つきで吐き捨てられたセリフ。
その時のシンシアには首を横に振る勇気など無かった。触れる筈もない。拒絶すれば母のように虐待を受ける未来が待っていることは容易に想像が出来た。
お前は俺が成り上がるための道具だと、それ以外に価値はないと言い捨てたのだ。育ててやってるのだから、道具として恩を返せと言うのだ。
前妻と同様にある日突然帰らぬ人となった母、原因は父から夜な夜な受け続けた暴力。この屋敷にはもはや父とシンシアしかいなかった。そんな彼女はオドオドビクビクとながら日々を過ごす。
そんな中、彼女は出会ってしまった。
父からの命令とは言え、婚約者となった少年と運命の出会いを果たす事となった。
彼女の婚約者となった公爵家の嫡男、ジョージ・『ワースト』・ジュニア。眩いばかりの太陽の様な赤髪がとてもよく似合う少年だった。
ちょっぴりエッチだけ、何ごとにも努力を惜しまない前向きな少年。彼の父であるワースト公爵もまた父などとは程遠い人物だった。それこそシンシア自身が「この人は本当に貴族なのだろうか?」と不敬な疑問を抱いてしまう程に。
主人に忠誠を捧げ、民衆を愛し、そのために奔走する真なる国士。そして、そんな父を尊敬し目標とするシンシアの婚約者。
多忙な日々を送る婚約者に時間は惜しいもの、にも関わらず私のために時間を作ってくれることが嬉しくて彼と会う時は必ず手作りのお菓子を持参した。
貴族が料理などするものではないと子爵に咎められたが、少年は「美味い」とそれを口に放っては勉学に励む。上級貴族とはとても思えない行動が面白くてシンシアも笑みを零してしまう。
「俺も母上がいないんだ」
「……理由をお聞きしても?」
唐突に語り出す少年、剣の稽古の最中に寂しそうな目をする少年が目の前にいる。
「母は異教徒らしい」
ジパン公国は国教をウノ教と定めている。
この国で異教徒は暮らしづらい。少年の母は昨今布教され始めた新興宗教の信者だった。それがナーグル教。
質素を美徳としホトケなる神を崇める異端の宗教。
そんな教徒を母とする少年は真剣な目で私に語りかける。
「父も俺も身分、人種、宗教、文化の隔たりがない国を作りたいんだ。今の国王陛下もそれを望まれている」
「身分も……ですか?」
コクリと首を振る少年の目は遠くを見つめていた。
そんな国であれば母も今頃は、そう悔やみつつもそんな日が来て欲しい。母の死で何もかもに絶望し、怒りのぶつけどころを見失った当時のシンシアにとって少年は眩しかった。
そして彼を手伝いたいと本気で思った。
この人ならば国を変えてくれると。
「だから今は我慢だ」
「そうですね。そうします」
少年は私の想いを見透かしたかのように語りかける。
そんな眩しい日がずっと続くと思っていた。少年の傍で、その彼を支えようと、恥じぬ伴侶になろうとシンシアは頑張り続けた。
しかし事件は突然に訪れる、母の死と同様に。
シンシアが十二歳になった日の事、彼女は父に呼び出されていた。彼の書斎のドアをノックし、ドアを開ける。
彼女はてっきり、少年との関係が順調かと言った類の報告を求められるとばかり思っていた。完全なる油断。
彼女は忘れていたのだ、子爵が怪物だと。
シンシアが書斎に入るなり獣と化した父が襲いかかってきたのだ。家族でも道具でもなく、性欲の対象として。力で押さえつけられベッドの上に組み敷かれるシンシア。
そんな彼女の抵抗が嬉しいのか、下卑た笑みを浮かべる獣が目の前にいた。
「実ってきたからな。そろそろ喰ってやろうと思ってな」
「くっ……」
母を殺され絶望した時もあった。だが、今は少年の隣にいても恥じぬ淑女になると彼女は決意を胸に抱いていた。そう決めた矢先だった。
にも関わらずシンシアの前には再び不条理がチラつく。
そんな不条理に口から血が滲み出るほどに悔しさを覚える。万事休す、そんなシンシアの心情を察したのか獣の涎が滴り落ちる。
「お前の母は従順だったが、反抗的な女も悪くないな」
「何を……!!」
「お前の母は娘には手を出すなと、何度も懇願してきたよ。全ての欲望は自分が受け止めるとな」
「……ケダモノ!!」
徐々にシンシアのドレスが切り裂かれていく。如何にい父とは言え娘の裸体を無理やりなどと許される筈もない。
それでも、如何に抵抗しても覆らぬ現実。
「恩は体でも返してもらおう」
何が恩か、父には母を壊されている。そんな子爵に何を返せと言うのだ。私はただ搾取されるだけではないか、シンシアの頭にはそう言った悔しさで充満していく。
もはや世界はシンシアを救ってくれない、少年に言われた我慢も限界だ。
そう思った時だった。
あの方の声が聞こえた。
「人の婚約者に手を出すとはいい度胸だな」
一閃が走る。
書斎のドアは切り刻まれ、何事かと子爵は慌て出す。この声、シンシアが間違えるはずがない。
声の主は少年だっだ。
コツコツと怒りを滲ませた足音が鳴る。怒りを微塵にも隠そうとしない少年の様子に父が怯えた様子を見せる。
「い、如何に公爵家のご子息とは言え不法侵入など許されませんぞ!?」
「人身売買に手を染めておいて言い訳がそれか?」
人身売買、昨今のジパン公国内で流れる腹黒い噂だ。
貴族が裏で糸を引く組織が子供を誘拐して売り捌くと言う。シンシアも噂程度にその噂は聞いており、密かにそれに子爵が絡んでいると推測が立つだけの心当たりは有った。
それでもシンシアにとっては知ったところでどうしようもなかった。仮に子爵の悪事を知ってたところで彼女には子爵の罪を告発する勇気が無かったから。
彼女にとって貴族と言う地位に未練は無かった。それでも彼女には手放したく無い関係が既に有ったのだ、シンシアにとって少年と離れる事が何よりも耐え難いものだったのだ。
少年との縁を捨てる事など出来ない。
子爵を告発して彼女自身が貴族の地位を失えば少年と結婚が出来なくなる。
それでも彼女は嬉しかった、自分の婚約者に手を出すなと怒ってくれる少年が愛おしくて堪らなかったのだ。小さく眉を顰めて申し訳なさそうにシンシアを見つめる少年。
その少年に彼女は心の底から笑顔を返した。
そして僅かばかりでも助力になればと新たな決意を胸に抱く。
「父の悪事の全てを告発します」
「悪い。この縁談を受けたのはマタハリー子爵の悪事を内部から探る好機と思ったからだったんだ」
「貴方に出会えたことが嬉しいのです。だから私はただ我慢するのみです」
「唯一の失敗は君と出会ってしまった事だ。……いや、出会いを失敗と言うのはダメだね。君が魅力的すぎたと言ったところか」
こうして貴族の地位を失う事となったシンシアだったが、そんな彼女を何とか救いたいと考えた少年は裏で手を回す。子爵が実刑に処される中でシンシアは人身売買には無関係だと立証して救ってみせたのだ。
そして晴れて無実となったシンシアを少年は公爵家のメイドとして雇用する。
例え表立って愛し合えなくとも心が繋がっていればいい、シンシアと少年はそう考えたのだ。二人は少年の父であるワースト公爵からも公認されてその屋敷の中だけでその愛を育んでいく。
二人に悪夢が訪れるまでの間は。
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