第96話.ひとつの手掛かり
「何も聞こえない、けれど……」
深玉が細い眉を寄せて呟く。
それについて、宇静は答えなかった。彼にもまだ、なんの物音も聞こえていないからだろう。
宇静が依依に厳しい表情を向けてくる。依依の聴覚を信用しているからこそ、彼は真剣に確認してくる。
「味方のものではないのか」
「……はい」
引き続き耳を澄ませながら、依依は頷く。
清叉軍所属の武官は全員支給されている軍靴を履いている。だが、聞こえてくるのはもっと軽い足音だ。
まだ距離はあるが、少しずつ近づいてきている。彼らの目的は不明だが、やはり一度襲ってきただけでは満足していないのだろう。
決定を下すべきは将軍職に就く宇静だった。
三人分の視線を受け止めた宇静はその場に膝をつき、頭を垂れる。数人の目しかなく、差し迫った状況下であっても、皇帝への礼を失することはしない。
目の前に敵がいれば宇静も悠長にはしていなかっただろうが、彼の行動は、深玉の気を落ち着かせるための意味もあったのだろう。
「このまま洞窟内を進むことを進言いたします、皇帝陛下」
飛傑は、すぐには返事をしなかった。
「先ほど、少し内部を見てまいりました。思っていた以上に巨大な洞窟で、中は迷路のように入り組んでおります。歩いていてもまったく出口の光が見えてきませんでしたが、敵にとっても追いにくい地形であると考えます」
二人はとっくに情報を共有しているはず。わざわざ口にしたのは、依依と深玉に伝えるためだろう。
依依は内部をこの目で確認したわけではないが、異を唱えるつもりはなかった。そもそも指揮決定権は飛傑――ではなく事実上、宇静にある。
顎に手を当てた飛傑が、危惧について述べる。
「この洞窟の存在を、襲撃してきた連中が把握している可能性もあるのではないか?」
「その可能性は低いと見ています。すぐ先に地面がぬかるんでいる箇所がありますが、そこに足跡がひとつも確認できませんでしたから」
宇静はそう言うが、洞窟を歩き続けた先に、待っているのは行き止まりかもしれない。それに荷物の大半は馬の鞍に結んであったので、依依はわずかな保存食しか持っていなかった。宇静も似たようなものだろう。
だがそういった不安は、宇静も考慮しているはずだ。その上で彼は、洞窟を通るのが最も安全で確実だと判断した。
(山中ではあいつらも、馬を走らせるのは難しいだろうけど)
こちらには深玉がいる。同じ徒歩でも、移動速度は襲撃者に劣ってしまう。
「いいだろう。洞窟内を移動する」
「は」
宇静が立ち上がる。
深玉は不安そうな顔をしている。重い衣装をまとって全力疾走したばかりなので、もう少し休んでいたかった気持ちもあるのだろう。
飛傑がそんな彼女の手を励ますように取り、乱れた髪をそっと直してやる。
「行こう、淑妃。ここに留まっていては危険だ」
「……はい」
飛傑に促されれば、深玉も頷かないわけにはいかない。下唇を噛み締めるのをやめた彼女は、顔を上げた。
「歩けるか?」
「はい。お心遣いに感謝いたします、皇帝陛下」
この展開を宇静は覚悟していたのだろう。短い時間で彼が用意してくれた二本の松明は、それぞれ宇静と依依が持つことになった。
依依は石を打って火花を起こす。深玉の手持ちにあった綿の布巾を燃やして、松明の火種とする。
「将軍様。少しいいですか?」
飛傑や深玉の耳に届かないよう、依依は小声で宇静に話しかけた。
「どうした」
宇静の声音は普段より低く、地を這うようであった。彼も後れを取ったことを自省しているのだろう。襲撃者の正体を掴めていないのも、憂いのひとつであるはずだ。
だが彼らについて、依依は重要な手掛かりを得ていた。
迷いはあるが、今の依依は武官として、皇帝に仇なす存在を無視することはできない。
「奴らの正体について、お伝えしたいことがあります」
宇静がまっすぐ見つめてくる。依依は静かに息を吐いてから、その言葉を口にした。
「襲撃者……黒布のひとりは、赤い髪をしていました」