第85話.分からない人
一難去ってまた一難、ということわざがある。
その意味を、依依は噛み締めている真っ最中であった。
寝台に座り込む依依の前には、飛傑と宇静の姿がある。
皇太后は、最初からあまり長居するつもりはなかったようだ。彼女が退室し、依依が胸を撫で下ろしたところで、交代するようにこの二人がやって来た。
おかげで戻ってきた林杏は、回れ右をしてどこかに去って行った。
沈黙に耐えかねた依依は、頬をぽりぽりしつつ、一応言うべきことを口にしてみる。
「皇帝陛下。あの、お部屋を貸してくださってありがとうございます」
「気にするな。余が勝手に連れ込んだだけだ」
「……さようですか」
普段から自身で使っているものなのだろう。肘掛け椅子にもたれた飛傑の後ろに、宇静が直立不動の姿勢で立っている。
依依と目が合うと、なぜかぱっと顔を逸らしてしまう。飛傑のほうは、露骨に笑みを深める。どちらの反応も、いろいろ怖すぎる。
「言いたいことはいろいろある」
「……はい」
「その八割方は説教なんだが」
「…………はい」
度重なる説教に疲れ切った依依は、すでに肩を落としている。
「妹を救ってくれて、感謝している」
依依は顔を上げた。
飛傑は眉を下げて微笑んでいる。宇静はむっつりと口元を引き結んではいるが、怒りの感情は伝わってこない。
瑞姫を大切に思っている二人の兄弟。彼らの気持ちは、それだけで十二分に伝わってくる。
「いいえ。私がそうしたくて、そうしただけですから」
瑞姫を助けたいと思った。
助ける手段を思いついたから、実行した。要はそれだけのことなのだ。
と、部屋にはどこか和やかな空気が漂ったのだが、残念ながらそれは一瞬で霧散した。宇静が目を三角につり上げて低い声で言い出したのだ。
「だが、ああいう真似は二度とやるな。こちらは心臓が止まるかと思ったぞ」
(うっ……)
もう何百回、怒られたことだろうか。
とほほと肩を落としつつ、依依は謝る。
「その節はすみませんでした。……あっ。それと、どうもありがとうございました」
「なんの話だ」
「私が毒に倒れたあと、どなたかが薬を飲ませてくださいましたよね?」
飛傑と宇静が、同時に硬直する。
飛傑がゆっくりと振り返り、二人が、ちらと顔を見合わせる。
不思議な反応に依依がきょとんとしていると。
代表するように飛傑が口を開いた。
「相手が誰か、分からなかったのか?」
「毒で朦朧としていたので……」
依依は照れくさい気持ちで苦笑する。
あのときの依依は、毒羽にやられていても、差し出されればどうにか自力で薬を飲めたとは思うのだが、それは言わない約束だろう。あの人物は、依依を心配してよっぽど慌てていたのだ。
が、なぜだか二人とも何も言わない。
どこか物言いたげな雰囲気はあるのだが、一向に口を開かないのだ。首を捻った依依は、そこではっとした。
(そりゃそうよね。私と、せ、せ、接吻、しちゃったなんて……)
故郷では小猿呼ばわりされていた依依である。そんな依依と、緊急時とはいえ唇と唇をつけてしまったとあっては、二人の矜持が傷ついたのかもしれない。
宇静はさぞもてるだろうし、飛傑だって大量にきれいな奥さんが居る身。認めたくない気持ちも分かろうというものだ。
(まぁ、私だって――初めてだったんだけど)
さすがに助けられて文句を言うほど、子どもではないつもりである。
自分を納得させた依依は、ぎゅっと拳をにぎると。
「もちろんお互い、犬に噛まれたようなものだと思って気にしないことにしましょう!」
二人を安心させるつもりで、不自然なほど元気よく言い放つ。
「ね、それがいいですよ。ね!」
「犬……」
これなら安堵してくれるだろうと思ったのだが、なぜだか小さな呟きが聞こえてくる。
ん? と依依が顔を上げると、そのときには二人とも普段通りの顔つきをしている。依依はほっとして、ずっと気になっていたことを口にした。
「ところで毒羽の件はどうなったんですか?」
南王の母――元妃が狙ったのは、瑞姫ではなく皇太后だったという。
皇太后には、詳細を聞こうとは思わなかった。彼女は余裕を保っているようでいて、その実、どこか疲れた表情をしていたからだ。
「聞きたいか?」
飛傑に問い返され、依依は少し迷った上で、頷いた。
今の依依は皇帝付き武官という立場だ。皇帝やその親族に仇をなす存在が居るのならば、知っておくべきだろう。
飛傑は頷くと、ゆっくりと話し出した。
「南王の母――元妃である馬は、病を得て逝ったが。死の間際に息子にあることを言い残したそうだ」
彼女が語ったのは、自身が馬昭儀として栄華を極めていた頃の思い出話だという。
しかしその話が終わりにさしかかるにつれ、南王は顔を曇らせていった。
というのも、先帝が倒れ、皇太后――当時の皇后が看病していた時期。疲労困憊の皇后への差し入れという名目で、馬昭儀は美しい簪を贈ったというのだ。
簪には、皇后をその座から失墜させるための策略として、毒羽を使っていた。香国より南の国の商人から、特別に仕入れたという貴重な毒だった。
その時期を選んだのは、先帝が生きている間に皇后に封ぜられたかったため。逆に言うなら、そのときを逃しては機はなかったのだ。先帝はそれほど弱っていたのだから。
だが皇后は、その簪を瑞姫へと譲った。珍しい簪を蒐集する趣味のある瑞姫を喜ばせたかったのだ。
瑞姫は倒れてしまい、彼女の女官たちは外部への警戒心を高めた。結果として簪は、いつまでも瑞姫の手元に残ってしまった……。
「南王は寝耳に水だっただろう。気が弱く、他人に毒を盛るなどと、考えついても実践できない男なのだ」
であれば彼は、母親にはあまり似なかったのだろう。
「南王は焦った。とにかく気が弱く、心配性な男なのだ。このまま知らん振りを突き通そうとしても、できなかった。だが正直に余に打ち明けるのはもっと恐ろしかったのだろう。誰にも知られずに現物の簪を回収しなければと奔走したのだ」
そこで利用したのが自身の側近と、恋華宮の女官である。
側近の男は、例の女官の姉の夫であった。女官は瑞姫と仲が良かったが、姉の地位を陥れるような真似はできず、男に協力してしまった。
「……南王たちは、どうなったんですか?」
皇太后を狙った策略となっては、処刑されるのだろうか。
そう思った依依だったが、飛傑はふぅと息を吐くと。
「南王の地位は剥奪し、出家させることにした」
「え?」
「側近についても地位の剥奪と財産や土地の没収。女官は杖刑三十回と、後宮からの追放を命じた。……主犯が死んでいる以上、この程度が妥当だろう。民や臣下に暴君と思われるのも、得策ではないからな」
飛傑にとって、南王は異腹の弟である。
同じ皇族である以上、命を奪う道は避けたということだろうか。
(でも、もしも皇太后か瑞姫、どちらかが身罷っていたら……)
そのときは、飛傑は慈悲深き賢帝の顔はしなかったのだろう。
つくづく、後宮とはおそろしい場所だと依依は思う。
国の贅を集めた雅やかな場所。ここではたくさんの人々が、ひとつの国を形成するように歩き、生活を営みながら、誰かを害するための陰謀を巧みに巡らせているのだ。
溜め息と共に、依依は独りごちる。
「……やっぱり純花を連れて遠くに行きたい」
「は?」
そういえば、まだ飛傑たちが居るのだった。
しまったと思った依依は、毛布を被って横たわった。
「で、では疲れたので寝ます。おやすみなさい」
「楊依依」
しかし頭上に影が差す。
立ち上がった飛傑が身を乗り出しているのだ。
ぎし、と寝台が彼の体重で沈む。依依は驚いて声が出ない。
鼓動がにわかに、騒がしさを増す。布越しに、彼の手が依依の髪に触れている。
「逃がさない、と言ったはずだが。忘れたか?」
そういえば、そんなことを言われた気もするが。
狼狽える依依の耳元で、飛傑が囁く。
「そなたは何も分かっていない」
「えっ!」
依依としてはたくさん話を聞いて、だいぶいろいろ分かったつもりなのだが……。
「もしも毒のせいで、そなたの身体に消えない傷か病が残っていたなら……余は」
どこか切なげな呟きは、途中で聞こえなくなった。
「皇帝陛下」
依依の身体に被さっていた飛傑の肩が、揺れる。
その肩に、宇静が腕をかけていた。力がこもっているのか、指先が震えている。
いつも将軍として弁えた態度を取る宇静に、あるまじきことだ。
彼自身もそれを悟ったのか。すぐに手を離すと、その場に片膝をつく。
「そろそろお時間かと。宰相閣下が部屋で待っています」
「そう……だったな」
沈んでいた寝台が、元通りになる。
目を見開いていた依依を、飛傑が見下ろす。目が合うと、彼は艶っぽく笑った。
「寝るつもりなら、子守歌でも歌おうか」
「結構です!」
依依は頭まで毛布を被った。
頭の上から、軽やかな笑い声が聞こえる。寝心地のよい寝台は、あと一日くらいは占拠してやろうと思った。