第78話.倒れた姫
疑い深げに、飛傑が目をつと細める。
「……今、笑ったか?」
「いえ、喉に息が詰まっただけです」
きりりとした顔で返す依依。
天子として奉られる飛傑だが、依依に対してはわりと寛容だ。だが、そんな彼の誘いに一武官が噴き出したとなれば、その場で斬首されてもおかしくはないのである。
「喜んでお供いたします、陛下」
ひそひそと、内緒話をするように依依も返事をする。
機嫌良さげに飛傑が口角をつり上げる。そのときだった。
「皇帝陛下!」
焦った顔つきでやって来たのは宦官だった。
彼は青い顔をしていたが、回廊をすり足でやって来ると、飛傑に深く頭を下げる。
拱手もせずに近づいてくる宦官を、飛傑は咎めなかった。それほどの緊急事態だと理解していたからだろう。
宦官がひそひそと、耳元に何かを囁きかけると――飛傑の顔色がみるみるうちに変わっていった。
「…………」
依依を見て、何か言おうと口を開きかけたが、思い直したように近侍らを見やると。
短く言葉を発する。
「後宮に」
頷くばかりの近侍たちを連れて、飛傑が踵を返す。
近侍らは何事かと顔を見合わせながらも飛傑についていく。
だが、山育ちの依依は特別に耳が良い。どんなに秘やかに告げられた言葉であっても、その音は依依には明確に聞き取れた。
宦官は、こう告げたのだ。
――瑞姫殿下がお倒れになられました。
飛傑の護衛である宇静も、身を翻す。
その服の裾を、依依は握り締めていた。
「あ……」
振り返った宇静の顔を見て、瑞姫のことを告げようとしていた依依の口は動かなくなった。
眉間に皺を寄せているのはいつも通りだけれど、宇静の顔色は蒼白で、しかも辛そうに歪んでいたから。
(……この人は)
飛傑のただならぬ様子から、察したわけではないだろう。
宇静の顔には並々ならぬ覚悟が芽生えていた。それは、一朝一夕で生み出される表情ではない。
彼も飛傑も。
この日が近いうちに訪れることを、ずっと前から知っていたのだ。
「依依。お前には、悪いことをしたと思っている」
自分の衣を掴む依依の指を、宇静が柔らかく包み込む。
手の温度は冷えきっていた。宇静に自覚はなかっただろうが、その手は縋りつくように依依の手を握り締めていた。
「だが瑞姫は、最期にお前に会えて幸せだったろう。俺はお前に感謝している。……そのお心を俺が計ることは不敬だが、皇帝陛下も同じように思っているはずだ」
手が離れる。
待って、と依依は呼び止めたつもりだったが、喉から声は出ていなかった。
宇静が立ち去ってしまう。
ぽつんと残された依依は、ただそこに立ち尽くすしかない。
喉の奥が変な音を立てたが、泣きはしなかった。ただ、無力感がいやになる。いつも、いつも、この感覚を味わうたびに、胸を掻きむしりたいような衝動に駆られる。
今まで依依は、少なくはない死を目の当たりにしてきた。
香国全土が飢餓に喘いだ時期も、依依の住む寒村で多くの住人が命を失った。昨日まで笑い合っていた人が、冷たく乾くのを知っている。人の世では、そういうことが呆気なく起こる。貧民でも、皇族でも、死だけは回避できない。
目を閉じれば、瑞姫の可愛らしい微笑みが眼裏に浮かぶ。
「……瑞姫様」
幼くいたいけな子が死ぬのは、いやだ。
このまま大人しく、清叉寮で訃報を待つなど、いやだ。
なんとかして瑞姫を助けたい。でも、どうすればいいのだろう。今まで数多くの高名な医者が瑞姫を診てきたが、解決策は見つかっていないのだ。
皇族の日々の体調は機密扱いのため、依依が調べることはできなかった。最近の瑞姫の見た感じの体調なら分かるが、それで彼女を蝕む病名を言い当てられるほど、依依は優れた薬師ではない。
(もし、若晴なら……)
あの老女ならばそれでも、少ない足懸かりから答えを導き出せたのだろうか。
「大哥? どうしたんすか?」
「鳥……」
考え込んでいると、戸の隙間から鳥がひょっこりと顔を出していた。
「……鳥?」
ふと、彼のへにゃりとした鶏冠を見ていると、依依の脳裏に閃く光景があった。
あれは、二年ほど前のことだった。鳳凰と見紛うほど美しい鳥が青空を飛ぶのを、依依は見たことがある。
赤い鳥。橙色にも見える鮮やかな色の翼。
あの見惚れてしまうほど鮮烈な輝きは、何度か夢にも見たけれど。
(そうだわ。私、あの羽根を……《《最近も見た》》)
そして頬を紅潮させて見上げる依依に、若晴はあきれ顔で教えてくれたのだ。
――『あのね、いいかい? あれは鳳凰じゃなくてね……』
その続きの言葉を思い出したとたん。
依依は弾かれたように走り出していた。
「――鳥! ちょっと手伝って!」
「うす!」
わけも聞かずに鳥が元気よくついてくる。それがこのときばかりは、頼もしく感じた。