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第77話.夕餉の誘い

 


 翌日の夕方。

 演習場での訓練を終えた依依は頬を絶え間なく流れ落ちる汗を、布で拭っていた。


(結局、将軍様は帰ってこなかったわね……)


 宇静は不在だが、指揮は副官の空夜が担当したため、今日の訓練もつつがなく行われた。


 早朝は走り込みなどの基礎的な鍛錬に始まり、午からは弓矢や盾、槍を使っての訓練である。依依の目で見たところ、それぞれの練度は順調に磨きがかかってきたが、連携には難があった。


 清叉軍の主な仕事は各門の守りや皇族の護衛だ。飛傑や皇族が外出する際はその守護を担うこととなる。

 道中を襲われる場合、とにかく守る側が不利なのだから、あらゆる不測の事態を想定せねばならない。

 しかし清叉軍が有する修練場や演習場では手狭で、実践的な連携の確認には向いていない。そこで近いうちに、宮城裏にある大きな訓練場を借りて、大規模な訓練を行うという話も持ち上がっているようだ。皇帝に信をおかれる清叉軍だからこそ、これが許されたといえよう。


 訓練を終えると、疲労のあまりその場にぐったりと座り込む武官も多いのだが、依依は誰よりも早く更衣室へと戻る。

 というのも誰にも裸を見られるわけにはいかないからだ。衝立の裏に隠れて素早く鎧を脱ぎ、全身の汗を拭き取って着替える。訓練中より何より、最も依依の動悸が激しくなる瞬間である。


「うー、あっちぃ。今日はぜんぜん風も吹かねぇし……」


 今日も今日とて早着替えを済ませた依依の次に、更衣室に戻ってきたのは鳥だった。

 舌を出して暑がっている。彼も汗だくで、全身から湯気が出ているかと思うほどに顔が赤い。いつもは鶏冠のように立派に立った前髪も、水分を失った胡瓜のようにへにゃりとしている。


「あっ、大哥! お疲れさんっす! よろしければ仰ぎます!」


 衝立から出てきた依依を発見した鳥が、嬉しげに駆け寄ってきて両手を振ってくる。

 手うちわによって起こった気休めにもならない微風が、さわさわと頬の表面を撫でる。


「いいからさっさとあんたも着替えなさい。風邪引くわよ」

「うす!」


 敬愛する依依に構ってもらえた鳥は嬉しげだ。

 後ろからぞろぞろと疲れ切った武官たちも入ってくる。人いきれから逃れるように、依依は更衣室から出る。


 ぴしゃりと後ろ手に戸を閉め……そこで依依は、驚きのあまり目を見開く羽目になった。

 というのも見慣れた回廊に、豪奢すぎる衣をまとう皇帝の姿があったからだ。


「楊依依」

「こっ――皇帝陛下」


 慌てて跪き、拱手する依依。

 飛傑の傍には宇静や近侍が控えている。決して狭くはない回廊だが、一団が通せんぼするように塞いでいると圧迫感がある。

 飛傑が清叉軍の訓練を見に来ることは珍しくないが、今日は見学していなかった。皇帝が来ると、彼のために毛氈が敷かれ、席が設けられと大騒ぎになるので、訓練に熱中したからと見逃すことはあり得ない。


 飛傑は武官姿の依依に近づいてくると、当然のように片手を差し出してきた。

 頭を垂れていた依依はその手を取り、ゆっくりと立ち上がる。


 するとその瞬間、飛傑が耳元で囁いた。

 他の者には聞こえないように、ひっそりと囁きが落とされる。


「楊依依。余の部屋に来い」

「…………はい?」


 依依があまりにも間抜けな顔をしたからだろうか。

 飛傑は虚をつかれたように目を見開いたが、平静を装って続けてみせた。


「食事は、一緒に食べたほうが楽しいとそなたが言ったろう。……だからこうして誘いに来たのだが」


 常に反応速度の速い依依だが、その日はすぐには応えなかった。

 というのも、彼女は本当に驚いていたのだ。


(陛下自ら誘いに来るなんて)


 皇帝という立場の人間にはあるまじきことだろう。

 その証明のように、後ろに控える宇静や近侍も表情が優れない。皇帝付き武官を召すだけであれば、使いを寄越すので十分だからだ。飛傑が足を運ぶ必要などない。


 だが、飛傑は依依の何気ない話を覚えていたのだろう。

 よく近所の童たちが、依依の家の門戸を叩いて夕食の誘いに来たこと。その逆もあったこと。


 だからこうやって、誰かに命令するのではなく、自分から依依を誘いに来たのだ。


 ――そして、依依がいつまでも応えないからか。

 飛傑は眉を寄せた。珍しくむっとした表情は、彼の弟によく似ている。


「依依?」


 人々から天子とあがめ奉られる皇帝。

 だがそのときの飛傑の声や表情は、それこそ年端もいかぬ童のようで――。



「…………ふくっ」



 依依は耐えきれず、小さく噴き出していた。




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