第76話.朝議2
「陛下、ぜひ私の案をご検討いただきたく存じます」
朝議の終わり頃、具申してきたのは深紫の衣をまとう高級官僚である。
やたらとにこやかな笑顔で、勧めてくるには。
「陛下も一年間、休みなく政務に励まれお疲れでしょう。瑞姫皇妹殿下と連れ立っての温泉宮での療養は、悪いことではありますまい」
ちら、とその目が後ろを見る。
「清叉軍将軍は、一騎当千の強さだと聞きます。将軍の守護があれば、道中も安全でしょう」
宇静が片方の眉をはね上げる。
「それが、陛下のお望みであれば」
薄い唇を開き、淡々と返す宇静。
正しい答え方だ。ここで頭を悩ませるのは飛傑の仕事である。
(狙いはどちらかな)
しばし飛傑は考える。
離宮といえども、宮城と温泉宮は距離が離れている。
飛傑の不在を狙い、宮城を制圧する目論みか。宇静も離れれば、一気に守護力が落ちるのは目に見えている。
あるいは離宮に向かう道中の皇族一行を襲うという手立てか。堅固な城と異なり、移動中では宇静も不利な戦いを強いられるだろう。
(というのは、冗談として)
発言した官僚は、尚書省のうち礼部を司ることから何礼部と呼ばれる。
長年宮城に仕えてきた文官一家である何家の当主だ。
何礼部には特に怪しいところはなく、他者に媚びへつらうことはしない。信頼のおける文官である。
すべてを疑っていてはきりがない。この発言も、飛傑と瑞姫の体調を気にした結果であろう。一年前に延期になった温泉宮の件を切り出したのも、不自然ではない。
信用していて問題はない。――少なくとも、今は。
(温泉か……悪くはない)
ふむ、と飛傑は顎に手を当てる。
疲労しているのは事実。なかなか魅力的な提案ではあるが。
「そうだな。瑞姫が全快した暁には、考えてみよう」
「はい。ぜひとも」
もともと無理に勧めるつもりもなかったのだろう。
何礼部は特に付け加えることもせず、笏を手に笑顔で引き下がる。
しかしそこに、ぼそりと呟きが投げられた。
「果たして皇妹殿下は回復されるのでしょうか?」
赤い官服をまとう本人も、自分の声がそう大きく響くとは思わなかったのだろう。
とっさに口を噤み、顔を青くしているが、その発言は玉座に座る飛傑の耳に届いている。
「も、申し訳ございません。失言でした、陛下。どうかお許しを」
「…………」
色を失った顔を、ただ飛傑は見下ろす。
宮廷道士は、飛傑が即位すれば妹姫である瑞姫の得た病は治るだろうとのたまった。
暗君であった先帝が引き受けた呪詛が、娘である瑞姫に降りかかっただけであり、飛傑が頂に立てば呪いは消える――という突拍子のない言葉に、飛傑は辟易としつつ、そうであればいいとも思っていた。
だが実際は、瑞姫を蝕む症状は、飛傑が即位しても悪化の一途をたどった。
(呪われた姫に、呪われた妃)
後宮に呪いを抱え込む皇帝。
以前はこの二つを飛傑の弱点として、楊枝の先でつつくようにして責め立てられたものだった。
瑞姫、あるいは純花を後宮から追い出すべきだという意見もあった。忌むべきものが憑いており、世に災いをもたらすものだと。
それらを退けたのは二人の後ろ盾――皇太后と灼家である。
妃のほうは一月前に解決した。下手人である紅桃が捕らえられたためだ。
飛傑は紅桃と灼家の関係について、表沙汰にはしなかった。それを明らかにするということは、思悦や純花の存在だけでなく、依依まで表舞台に引っ張り上げることに繋がると分かっていたからだ。
賢妃が狙われた一件は、すべて李家が娘を使って企てた陰謀として処断した。
(灼賢妃と、同じく……瑞姫が、災いをもたらすものであるはずがない)
聞くたびに、おかしい思いに囚われる。
飛傑と同腹の妹だ。彼女が災禍を呼ぶというならば、飛傑や生母である皇太后はなんだというのだろう。
飛傑の父――先帝は色狂いと呼ばれていた。
彼が手を出した妃や嬪、女官の数は数え切れないほどだ。ゆえに、飛傑の兄弟も多かった。
現状、飛傑の弟は七人、姉妹は十二人が各地にちらばっている。
事故、病に毒死、戦死や不審な事件……挙げればきりがないが、あらゆる出来事によってその数は少しずつ減っていった。結果的に、兄はひとり残らず身罷った。
中には、皇太后が関わっている事件も、あるのだろう。
それについて、飛傑は思うことはない。宮城での権力闘争は日常茶飯事だ。香国の長い歴史を紐解けば、似たようなことはいつの時代も繰り返されている。
それゆえに飛傑は、残された弟と妹を守ってやりたいと思う。
思いを同じくする弟がひとり居ることも、知っている。
(射殺しそうな目つきだな、宇静)
くすり、と飛傑は笑いそうになる。
だがおかげで、靄の漂う胸中が晴れたかのようだ。
「……ほう。つまりそなた」
飛傑はうっすらと口角を上げる。
白皙の美貌が浮かべる笑みは、喩えようもなく美しいものだったが、官僚を見下ろす目はみじんたりとも笑みをにじませていない。
「余の治世に不満があるのか?」
「めっ――滅相もございません」
ぶるぶると小刻みに震えた官が額づく。
「陛下、どうかお許しください」
皇帝の怒りを感じ取り、百官が同じ礼をとる。
すぐに飛傑は許した。弟を額ずかせる趣味はないのだ。
その後は何事もなく、朝議は進行していった。
めぼしい議題はなくなりつつあり、空気もやや弛緩する。
そのとき、何気ない口調を装って飛傑は言い放った。
「そういえば昨日終えた後宮での市では、南国からも多くの商店が参加してくれたな。市を盛り上げてもらい、感謝している」
とはいっても皇帝の言葉。誰もが注目してくるが、遠路はるばる都までやって来た雄を労ってのものだと解釈されたようだ。
雄が、深く頭を垂れる。
「ありがたきお言葉です、陛下」
ここまで目立った発言はなかった雄だが、声は溌剌としていて張りがあった。
「市に参加の許された商店は、妃様たちに南国の特産品を知ってもらおうと張り切って準備に励んでおりました。彼らの努力も報われることでしょう」
雄は貴族の一員でありながら、民からも慕われている。それが窺える言い回しだった。
灼家がまだ朱家と呼ばれていた頃、赤い髪と目を持つ彼らは南方から渡ってきた。
南の大国からの侵攻を何度も防いだ流浪の民たちは、香国建国の折に朱改め灼家の名と、南国に広く領地を与えられたのだ。
気候が暑く、豊かとは言い難い南国ではあるが、灼家の活躍のおかげで民の暮らしは安定しているという。
一年前よりそこを治める立場である南王は、気弱で卑屈なところのある男だ。
しかし真に飛傑が警戒していたのは南王の母親だった。
四大貴族の出身でないため、四夫人の座にこそ上れなかったが、男児を授かり九嬪の昭儀まで上り詰めた。馬昭儀は野心家で、自分の息子こそ皇帝に相応しいのだと信じていた。自分たちのために他者を害することを厭わない女だった。
先帝の時代は終わり、飛傑は扱いづらいこの親子を南国に送ることにした。
無論、灼家が押さえ込むだろうと期待してのことだ。灼家は期待に応じ、今のところうまく南王を制御している。元昭儀である母親は半年前に病を得て身罷っており、南王ひとりでは目立った動きもない。
(もう少し、踏み込んでみるか)
笑みを浮かべる雄に、飛傑は首を傾げる。
「特に、なんだったか――そう。湘老閣という店は、珍しい古物を多く扱っているようだった。女官も釘付けで、夢中になって商人と話していたな」
「、…………」
ぴくり、と雄の目蓋が震える。
しかし一瞬にして動揺を打ち消すと、光栄だという表情を形作ってみせる。
「湘老閣は南国の大通りに店を出す大店です。私からも褒めておかなくてはなりませんね」
賢い男だ。これくらいの材料を与えれば、飛傑の言いたいことは理解しているだろう。
灼家は皇帝に忠誠を誓っているが、漠然と家のしきたりに従うのと、皇帝本人に個人的に忠義を尽くすのでは多いに変わる。
使える駒は多いに限る。そして雄を引き入れられれば、心強い味方となるだろう。
朝議は終わり、飛傑は朝堂をあとにする。
――誰しも大なり小なり嘘を吐く。
他者を貶めるために。自らを大きく見せるために。ひれ伏す百官など、百戦錬磨の猛者たちだ。
年若く、経験の不足する飛傑を侮る勢力がある。口だけは巧みに回しながら、裏では恐ろしげな陰謀を企てる者も居る。
何もかも投げ出して逃げたいとは思わない。
だがときどき、皇帝という仮面を脱ぎ捨てたくなる瞬間がある。
(……会いたい)
渇ききった喉が、水を渇望するように。
飛傑は思う。
(依依に会いたい)
赤い髪をした――嘘の下手な少女に、会いたいと。