第75話.朝議1
翌日の朝議である。
早朝、決まった時刻に大門が開かれ、馬車を降りた役人たちが続々と歩き出す。
官服の色は上位から深い紫、鮮やかな赤、爽やかな青、くすんだ緑の四つに分かれる。先王の時代は、紫、赤、緑、橙であった。朝堂に向かう二列においても、この色は重視される。必ず紫色の服をまとう役人が、先に朝堂へと入る。
年配の役人が多く、長い石段の先に待ち構える朝堂に辿り着くまでに、数人の息が上がっている。その吐息を、皇帝が現れるまでに整えるのも彼らの義務のひとつだ。
文武百官が集い、決まった位置につく。その後ろに、清叉軍将軍である宇静も姿を見せていた。
国軍を率いる立場である宇静だが、彼に声をかける者は居ない。それほどまでに、皇族として認められない宇静の立場は弱いものだった。
飛傑の庇護がある以上、表立って攻撃する者こそ居ないが、宇静を見る目には嘲りが浮かぶ。
だが仁王立ちした本人は、こちらを見てひそひそと話す声もどこ吹く風という様子で、広い朝堂の隅に控えている。
刻限と同時に、朝堂に内侍の声が響いた。
「皇帝陛下のおなりー」
拭き漆の床に、百人の官僚が衣擦れの音と共に膝をつく。
龍袍をまとう飛傑が姿を現せば、拱手した彼らは一斉に頭を垂れる。
金の塗られた龍椅に座した飛傑は、朝堂を見回し一声を発する。
「よい」
「感謝いたします、陛下」
飛傑の一言により、礼を解いた役人たちは、手にそれぞれの笏を持つ。
一見すると平べったい木の板のようだが、これを両手に持つことで、臣下から皇帝への恭順の意を示している。この朝堂で唯一、それを持たずとも許されるのは宇静だけだ。
(……さて)
この場においては、飛傑の目は油断なき鋭さを湛える。
即位から一年という限られた時間の中で、飛傑は少しずつ百官を掌握していった。先帝の時代に甘い蜜を吸っていた輩の多くは、排することができていたが、未だ全員が飛傑の味方というわけではない。
しかし何より恐ろしいのは、味方のような面をして、いつ飛傑を蹴落とそうかと頭の片隅で策を練る人間のほうだ。莫大な富や名声を得るために策を弄する官僚を見抜けなければ、香国を支える民の暮らしを揺さぶることとなる。天子と尊ばれる飛傑に、判断を誤ることは許されない。
朝議で話し合うべき事柄はいくらでもある。上奏される議題の数々に耳を傾けながら、飛傑は内心では別のことを考えてもいた。
(来ているな)
目線の先には、赤土に似た、黄色を帯びた髪色の男が着座している。
政務の方針が決められる朝議の場には、一月に一度、入れ替わりで四つの大所領より使いが参列することになっている。
今日はそのうち、南国より使いが参上していた。
名は灼雄。灼家当主の孫のひとりである。
凛々しい眉に、すっと通った鼻筋。黒々しい瞳は少年のようだが、年齢は二十六歳だ。
それなりに見目が整っているが、何よりも目につくのは体つきであろう。官服を着ていても分かるほどに、肩の筋肉が盛り上がっており、見るからに屈強そうな若い男なのだ。
官僚の中では若いといえども、物腰は落ち着いており、どっしりと構えた様子は巌を思わせる。
(やはり、どこか依依に似ている)
雄を目にすると、飛傑の眼裏には依依の姿が思い浮かぶ。
純花と依依は、夭折した思悦の娘。つまり雄は、双子の姉妹にとっての又従兄弟に当たる。
灼家の先代当主は思悦の父だった。そして現当主は、思悦の母の妹だ。
高齢だが、豪胆な気質の女で、女々しいところのある先代当主を一騎打ちによって打ち負かし、当主の座を手に入れた。
灼家では腕っ節の強さが重視される。正々堂々たる一騎打ちによって敗北した場合は、当主はその座を譲るというのが古くからの習わしだという。その気性の荒さから、武官出の者が多い灼家の中で、雄は異質な文官出の男である。
――香国の東西南北に広く領地を持つ四大貴族。
それを、東の樹家、西の円家、南の灼家、北の潮家という。
四つの大所領を治める国王の傍らや補佐として、必ず彼ら四家の人間の名がある。
といっても皇族である国王や親王たちが臣下に阿ることはあり得ない。家柄だけでなく、それに足る実力を持つ人材を、四家が途切れることなく国の中枢部に送り込んでいるということだ。
四大貴族は皇族ではなく、皇帝ひとりに絶対遵守を誓っている。
ゆえに彼らは、各地に封ぜられた王たちに対し抑止力として働く。間違っても反乱を起こすことなどないよう、皇帝の手となり足となり、目となり耳となり、王たちを縛り導くのが四家の役割だ。
しかしこの仕組みでは、もしも絶大な権力を持つ四家が裏切りを先導した場合に、これを防ぐ手立てがない。
そのとき役立つのが後宮の仕組みだ。
飛傑の所有たる後宮の四夫人――ここには、必ず四家の姫の名があるのだから。
だからこそ、後宮の市で起こった不審な出来事について宇静から報告を受けていても、灼家を疑う気はまったく起きなかった。
(彼女たちは、人質とも言える)
そう知っている妃は、何人居るのだろうか。
知っているにせよ、知らないにせよ、以前はただ彼女たちを哀れに思っていた。
しかし今は、違う。
妹を大切に思う少女を見ていると、どうしても。
(依依には、知られたくない)
身勝手にも、そう考えてしまう自分が居る。
勘の鋭いところのある子だから、あるいは察しているのだろうか。察した上で、飛傑を責めずにいてくれるのかもしれない。
もともと、飛傑は皇帝になりたくはなかった。しかし運命が、飛傑を容赦なくその座に引っ張り上げた。
最初はただ、立場の弱い弟や、身体の弱い妹を守りたいという思いがあった。今は背負うべきものが他にいくらでもある。それこそ、指折り数えるのが億劫になるほどに。
「陛下、ぜひ私の案をご検討いただきたく存じます」
傅く臣下の声。
一度、息を止めてから、飛傑はゆっくりと吐き出す。
皇帝の一挙一動を、百官はつぶさに観察している。そこに何かの兆候、あるいは異変を読み取れば、すかさず攻撃の手が加えられる。
飛傑は白いものの混じる鬢を見下ろし、口を開く。
守るべきものの多さに震えるのは、皇帝ではないのだから。