第73話.貴妃と賢妃
ひとりの侍女を伴って現れたのは、樹桜霞だった。
青みがかった見事な黒髪は結い上げられ、華奢な背中に流れている。
気品の漂う瞳は優しく和み、まっすぐに純花を見つめる。
花のような、漂う甘い香気は、彼女のつけている香水のものだろうか。
おっとりとした美貌の貴妃は、しとやかに微笑んだ。
桜色の長衣に合わせた、さらりと揺れる水色の裳が涼しげだ。
「ごきげんよう、灼賢妃」
「……どうされたの、樹貴妃」
歓迎していないどころか、警戒心も露わに聞き返す純花。
その後ろに、案内役の林杏が下がる。桜霞は申し訳なさそうに首を傾げていた。
「突然訪ねたりして、ごめんなさい。実は瑞姫様から、灼賢妃が良くしてくださっていると伺いまして。わたしも樹家の者として、お礼をお伝えしたかったのです」
「別に、樹貴妃のためではないけれど」
物腰柔らかな桜霞に対し、純花はつっけんどんな言葉と態度を崩さない。
(純花~!)
見守る依依ははらはらしっぱなしだ。
これが短気で高飛車な深玉だったら、まなじりをつり上げて怒り出していたに違いないのだが、桜霞はそれどころか顔を綻ばせている。答えがあったのが嬉しいようだ。
女官に目顔で合図を送ると、盆を掲げた女官が前に出て膝をつく。
宝石や貝がちりばめられた盆には、絹の反物が載せられていた。純花が刺繍や裁縫を趣味にするのは、有名なようなので、無難な贈り物といえよう。
しかしその隣に置かれた包みを、純花はじっと見ていた。
「それは……」
「こちらは、市で売っていた豆菓子です」
(豆菓子! 好きだわ!)
依依は挙手したくなった。もちろん、片手を押さえて堪えたが。
布の間からではよく見えないが、桜霞が持ってきた菓子なのだから、よっぽどおいしいはずだ。
「四夫人でのお茶会のとき、干した果実や蛋捲を、とてもおいしそうに食べていらっしゃったので……豆菓子もお好きかしらと思ったのです」
そのお茶会に出席したのは純花ではなく、身代わりをしていた依依なのだが、桜霞は知る由もないことだ。
うふふ、と楽しそうに微笑む桜霞を、純花は複雑そうに見やる。
「……ありがたく頂戴します」
お礼を言う純花だが、くにゃりと顔を歪めている。
というのも純花は胃の容量が小さい。豆など食べたら食事が口に入らなくなる。これはお姉様に渡そう、と思っているのだった。そもそも瑞姫を見舞っているのも、純花ではなく依依なのだし。
ちなみに依依はといえば、こう思っている。
(それにしても四夫人のみんな、なんでか食べ物ばっかりくれるのね)
その理由はまさに、依依がいつでも幸せそうな顔で食事しているからなのだが、本人は気がついていない。
女官から明梅が贈り物を受け取る。
「できたら、一緒にお茶の時間を楽しみたいのですが。わたしの宮でも構いませんし」
両手を合わせる桜霞に、まったく他意はないだろう。単純に純花と仲良くしようとしてくれている。贈り物というには、豆菓子というのはいささか軽らかな品だと思ったが、まさに意図はそこにあったのだ。
ここで楽しく茶会を始められては困るが、桜霞の住まいである春樹宮での茶会であれば、なんの問題もない。
しかし期待に目を輝かせる依依の隠れる衣架を横目で見て、純花は頭を下げた。
「今日は市で疲れていますし、片づけもありますから」
「あっ……そうですわよね。わたしったら、無理を言ってごめんなさい」
(純花~!)
私のせいでごめんね、と心の中で謝る依依だが、純花は何があろうと断っていただろう。
数秒の沈黙が流れる。純花はやや気まずげだったが、桜霞は考え込むように頬に手を当てていた。
「……灼賢妃。お暇する前に、ひとつだけお伺いしてもいいでしょうか」
純花が眉を上げると、桜霞はその問いを放った。
「灼賢妃は、呪いはあると思いますか?」
――『……わたしは、呪い自体を信じていませんから』
四夫人の集まったお茶会で、桜霞はそう呟いていた。
声にも表情にも苦悶がにじんでいた。桜霞はあのとき、純花ではなく瑞姫のことを考えていたのだろう。
血縁の姫が正体の分からぬ病に苦しめられ、住まう宮殿からも出られない事実を、心優しい妃は我が事のように憂えている。
そんな桜霞の問いかけに、純花はどう答えるのか。
見守る依依の前で、純花は暗い面差しをしている。
「……あるのかもしれないと、思っていたわ」
隠れていることも忘れて、依依は妹に駆け寄りたくなる。
しかしその前に、純花は顔を上げると、隠れる依依に向かってにっこりと笑ってみせた。
呪われた妃などと呼ばれた面影は、ひとつもない。
どこまでも少女らしい、溌剌とした笑みだった。
「でも、わたくしの呪いは、優しくて逞しい風がどこかに吹き飛ばしちゃったみたい。……だから瑞姫様も、きっと大丈夫よ」
(……え? どんな風?)
なんとも不思議な回答である。
依依は首を傾げたが、何か伝わるものがあったのか。
桜霞が愁眉を開く。小さな顔に、微笑みが広がっていく。
「灼賢妃、すみません。お礼を伝えに来たのに、わたしのほうが励まされてしまいましたね」
「だから別に、励ましたつもりはないのだけれど」
憎まれ口を叩く純花は、照れくさそうに頬を赤くしている。
桜霞はふふっと笑うと、細い指先を向けてきた。
他でもない――隠れている依依に向かって、である。
依依と純花、それに明梅と……察した林杏も、顔を真っ青にした。
「ところで、あちらに何か置いてあるのですか? 先ほどから見られているような……」
「えっ!? お、置いてないわよ。置いてないから見ないでちょうだい!」
不自然なくらい焦りながら、純花が必死に依依を庇う。
「あらあら、うふふ。すみません」
そのおかげか、ころころと楽しそうに笑いつつ桜霞は出て行ってくれた。
そのあえかな後ろ姿を、胸を撫で下ろして見送った依依だったが……ふと目の前に、明梅が出した帳面が見えた。
そこにはこう書かれている。
――『そろそろお時間が』
(そうだった!)
鮮やかな衣の山から勢いよく飛び出した依依を、林杏は睨みつけていたが、今は小言を言う時間もないと理解してくれたのだろう。
窓から射し込む日の光は蜜色をしている。そろそろ清叉軍の武官たちは後宮を出るはずだ。このままでは取り残されてしまう。
「お姉様、これっ!」
「ありがとう!」
純花が投げてくれた豆菓子を受け取り、依依は大慌てで灼夏宮を飛び出していく。
人気のない道を選びながら、全力で疾走し――結果、屯所を辞する武官たちにどうにか合流を果たしたのだった。






