番外編1.好!麗しき香学院! (書籍発売記念SS)
書籍版の発売を記念した学パロSSです。
楽しんでいただけますように。
晴れ渡った青空の下。
「いっけなーいっ! 遅刻遅刻~!」
と叫びながら、角を曲がる――ことはなく坂道を駆け上がる、ひとりの少女の姿があった。
彼女の名前は楊依依。全国でも屈指の進学校として知られる香学院高等部の一年生だ。
遅刻寸前の慌ただしい朝を過ごす依依だが、彼女は口元に食パンは咥えていない。というのも依依は寝坊したわけではなく、実は三時間ほど前に目を覚ましていた。朝ご飯はとうの昔に食べ終えているのだ。
「朝のランニングを楽しんでたら、見知らぬ山に迷い込んじゃってたわ……! でもかなり標高が高くて登り甲斐のある山だったわね、学校帰りにまた登ろうかしら!?」
うきうきと声音を弾ませる依依に追い抜かれた軽トラの運転手が目をむく。
自転車やら自動二輪やらを次々と追い抜いて爆走した依依は、坂の上に見えてきた校門に目を細める。
ガラガラ、と大きな音を立てて閉められていく校門。
何人かの生徒が滑り込んでいくが、残念ながら依依の居る位置からでは間に合いそうもない。
「なら……!」
走り込んだ勢いをそのまま助走に使い、依依はよく馴染む運動靴の裏で地面を蹴った。
ポニーテールに結った鮮やかな赤髪が、青空によく映える。
少女の肢体は軽々と宙に浮き上がり、自分の倍以上はある鉄柵の上部に手を置くと、柵の上で一回転して門の中へと飛び降りる。
目にした者の多くは、思わず見惚れてしまっただろう。
それほどまでに美しい大回転を決めた依依はといえば、手足を揃えてにっこりと微笑んでいた。
「よし、着地成功!」
「何がよしだ」
その頭をぺしんとはたかれる。
頭を押さえて振り返った依依は、自分の後ろに立つ美丈夫を前にして顔を顰めた。
「げっ! 風紀委員長!」
「…………」
眉間に大量の皺を刻んだ男の名は、陸宇静。
依依のひとつ年上の二年生で、それは見目麗しい長身の男なのだが、いかんせん眉間に迫力がありすぎて女子が遠ざかるタイプの御仁だ。
その隣には副委員長を務める空夜が立っており、てきぱきと遅刻者や服装違反者のリストを書き上げている。こちらは童顔の優男で、とてつもなく女子にモテるのだが、たいてい宇静の傍に居るので誰も近づけなかったりする。
「そもそもあなたも風紀委員ですけどね」
「そうでした!」
空夜の一言で依依は思い出した。
クラスごとに各委員は一定数、選出しなければならない。
風紀委員は厳しいと有名で誰もやりたがらなかった。依依はじゃんけんで負けて風紀委員に決まったのだ。
(まぁ、意外と委員会の活動も楽しいけど)
依依は部活に入っていないので、委員会活動にはわりと参加しているほうだ。今朝は忘れていたが……。
ちなみにバスケ部、サッカー部、バレー部、テニス部、ラクロス部、果ては卓球部やラグビー部でも、運動神経抜群な依依の助けを求める声は止まない。
依依は気が向いたら応援メンバーとしてチームに入っている。そのたびフィールドを縦横無尽に走り回り、活躍するのだが、ときどきルールを忘れて笛を吹かれたりもしている。
「お疲れさんっす、大哥!」
「今日もお務めご苦労さんです!」
「ありがとう牛鳥豚。でも私、務めても疲れてもないけど」
拳で叩きのめして以降、なぜか依依を慕ってくれる先輩たちに答えていると。
「――見ろっ! 生徒会だ!」
そんな生徒の声が聞こえて、依依と宇静はほぼ同時に振り向いていた。
人波を二つに割って現れたのは、生徒会執行部の面々だった。
珍しいことに、今日はメンバーの五人全員が揃っている。目立つ一同を、依依もまじまじと見やる。
まず先頭を歩くのは生徒会会長――陸飛傑。
文武両道で知られる非の打ち所のない会長の姿に、男子生徒は顔を引き締め、女生徒は顔を赤らめている。
そのあとには雰囲気の異なる四人もの美女が続く。
副会長――樹桜霞。
会計――円深玉。
書記――潮桂才。
庶務――灼純花。
「今日も会長と副会長、素敵だわ。本当にお似合いね」
「何を言っている。会長は深玉様と心を通じ合わせているんだぞ」
「庶務の純花さん、プリティーだな……」
「桂才様、新作はまだですか~!?」
周りの生徒たちが囃し立てている。声は潜めているのだが、なんせ人数が多いのでよく聞こえる。
しかし生徒会の面々は慣れたもので、飛傑は笑みで答え、桜霞はおしとやかに、深玉は手を振って、桂才は無視して、純花はそっぽを向いて……と、各自それぞれの反応を返している。
そうして人だかりの中心をゆったりと歩いてきた五人組が、風紀委員会の前で立ち止まる。
声をかけてきたのは飛傑だった。
「久しぶりだな、宇静。それに楊依依」
依依は勢いよくその名を呼んだ。
「おはようございます、ハーレム会長!!」
その場に居た全員が真っ青になった。
「……その不名誉なあだ名、余を前に堂々と口にしたのはそなたが初めてだな」
しかし依依は思ったことは素直に口に出す性質である。
そんな少女だと知っているから、飛傑は注意もせずに口元で笑っている。その甘やかな唇に、何人かの女生徒がくらりと気を失った。
「それで宇静。依依が風紀委員を辞めたがっているそうだな」
(え? そうなの?)
初耳すぎる依依は目をしばたたかせた。
しかし宇静は否定せずに、依依をちらりと見てから飛傑を鋭く見据える。
「生徒会長……風紀委員会の問題に、あなたに口出しする権限はないと思いますが」
「すべての委員会をまとめ上げるのが生徒会の役割だからな。無関係というわけではないだろう?」
両者が厳しく睨み合う。
一気に空気が凍りついたようになる。人だかりを作っていた生徒たちは、あまりの迫力に呑まれてすでに動けなくなっている。
そんな中――ひとりの女子が、すらりと白い手を挙げた。
それまで黙っていた純花である。
「……あの、会長。お話の途中に申し訳ないのですけれど」
「どうした灼庶務」
「わたくし、生徒会を辞めたいですわ」
小首を傾げるようにして言い放つ純花。
あまりにも急な発言に驚いたのは、生徒会の人々も同じだったらしい。
「理由は?」
「もっと手芸部の活動に積極的に参加したくて。生徒会は忙しくて、なかなか部活動の時間が取れませんから……」
「純花様……!」
純花お手製の刺繍が施されたハンカチを手に、目に涙を浮かべているのは林杏と明梅だ。
純花はクラスメイトである二人と仲が良く、刺繍部で共に活動に励んでいる。しかし思っていた以上に生徒会が多忙で困っているらしい。
するとそこでもうひとり、純花の隣に立つ桂才が静かに言い放った。
「――私も辞めたいです」
(意外と人望ないのかしら、生徒会長……)
飛傑を哀れむ目で見てしまう依依だ。
ややぎこちない、困ったような笑みを浮かべつつ飛傑が問う。
「潮書記まで……そなたも文芸部の活動に精を出したいと?」
「そうでは、ありません。以前から考えていました……」
桂才が流し目でこちらを見た気がして。
ぞわり、と依依の背中に悪寒が走る。二の腕には鳥肌が立っていた。……気のせいだろうか?
「生徒会の仕事をしていると、さるお方をストーキ……追いかける時間が、足りないのです」
「ほぼ言い直した意味がないな」
「ゆゆしき、問題です。なにとぞご容赦いただけたら」
純花と桂才が揃って頭を垂れる。
もしかしたら桜霞や深玉も続くのでは、と危ぶまれたが、二人は黙って事の成り行きを見守るようだ。
「ふむ。そうか」
しばらく考え込んでいた飛傑が顔を上げる。
なぜか目が合って、依依がきょとんとしていると。
飛傑が爆弾を投下した。
「なら二人の退会を許す代わりに――依依。そなた、生徒会に入る気はないか?」
(……え? なんで?)
何をどうしたら、そういう結論に辿り着くのか。
唖然とする依依が声を上げるより早く、すぐ横に立つ宇静が反論している。
「風紀委員を勝手に引き抜くつもりですか、生徒会長。これは越権行為ですよ」
「もともと委員会への参加は生徒個人の自由意思によって決められる。依依が望むなら問題ないだろう?」
「問題おおありですわっ!」
なぜか飛傑に噛みついたのは純花だった。
「お姉様が生徒会に入るのならば、わたくしだって生徒会に留まりますわ!」
「あれ? 純花様……?」
林杏が首を捻っている。純花の文言から手芸部うんぬんの話が消えていたので当然である。
泣き喚く純花に、依依はふぅと溜め息を吐いた。目敏く気がついた純花がキッとこちらを睨んでくる。
「純花は家でも一緒じゃないの」
「だってお家だとお姉様、若晴と一緒に筋トレしてるばっかりじゃない! わたくしと思悦お母様がいつもどれだけ寂しい思いをしてると思ってるのよっ!」
そう言われても、身体の弱い思悦と運動が苦手な純花を誘うわけにもいかない。
それに寂しいというが、思悦と純花はよく料理や裁縫を一緒に楽しんでいる。といっても裁縫はともかく料理は二人ともてんで駄目で、よく台所を爆発させて若晴に叱られているが……。
しばらく黙っていた桂才が、ほんのりと頬を染めて言う。
「あの。依依様が生徒会に入られるなら……私も、残ります」
妖精のように可憐な桜霞が、こてりと首を傾げた。
「ええと。桂才様と純花様が生徒会を辞める場合、依依様が人員補充として生徒会に入られて……でも依依様が生徒会に入られる場合、桂才様と純花様も戻られるということでしょうか?」
「それだとひとり増えてるだけじゃないのよぅ」
深玉が至極真っ当なツッコミを入れる。
しかし彼ら彼女らは大切なことを忘れている。もっと根本的な問題があるのだ。
「そもそも私、生徒会に入る条件を満たしてませんけど」
「……何?」
どういうことだ、と訝しげにする飛傑たちに、依依はよく通る声で告げた。
「だって生徒会に入るには、テストの学年順位が百位以内じゃないといけない、ってルールがありましたよね。私、最下位なんですけど……」
「「「「「…………………………」」」」」
あれほど騒いでいた生徒たちが、しーんと静まった。
全員が全員、可哀想な生き物を見るような目で依依を見つめている。純花なんか涙ぐんでいた。
(ちょっ……なんで哀れむような目で見られてるのっ!?)
良かれと思って発言したのに! となんだか納得いかない依依なのだった……。