第6話.陸宇静
控え室から直接繋がっている演習場へと、依依は足早に向かった。
造りとしては、武具の置き場と演習用の実戦場が仕切りなく隣接しているようだ。
武具置き場には床板が敷かれているのだが、楕円状に切り開かれた演習場には屋根も床もない。地面からは草や石がきれいに取り払われているので、そこが訓練の場となるのだろう。
そして床板を軋ませんばかりに、むくつけき男――否、五十人ほどの女たちが整列している。
最後が依依だったらしく素早く空いている後列に加わると、試験官らしいお偉方がちょうどやって来るところだった。
(おお……)
依依は目を見開く。
背後にぞろぞろとお付きの者を従えて現れたのは、美貌の男だった。
年の頃は二十歳前後だろうか。
首の下でひとつに結った青みがかった黒髪は、逞しく広い背中に流れている。
身なりが良く、腰に提げた鍔広の刀剣は周囲を威圧するかのようだ。
恐ろしいまでに整った顔立ちをしているが、双眸に宿る光はあまりに鋭く威圧的で、その場に居るだけで他者を震えさせるような佇まいだった。
(なんか、怒ってるみたいな顔)
そう依依は率直な感想を抱いた。
床板の上に用意された立派な演台に上り、見ただけで座り心地のよさそうな革張りの椅子に、怒り顔の青年が座った。
集まった受験生たちは、その誰もが恐怖のあまり目を伏せていたのだったが、てんで気にせず依依は首を傾げていた。
引っ掛かったことがあったのだ。
(んん? 青い髪……?)
考え込む依依にちらりと目をやってから、青年が口を開く。
「清叉軍将軍、陸宇静だ」
容貌と同様に冷たく、重い声である。
気圧されたのか、数人の受験生たちの踵が逃げるように後ろに下がりかける。
しかし依依はそれどころではない。
(陸家ということは!)
こっそりと、懐に忍ばせておいた小さな紙の束を取り出す。
若晴の筆跡で綴られたそれは、彼女の遺品を整理していたときに見つかったものだ。
古い紙の束には、香国の皇族や名家の解説や、後宮の制度について簡潔に綴られていて……おそらく若晴が依依のために残してくれた書き置きと思われる。
田舎育ちの依依は宮城の内部事情に明るいわけもないので、役立てる気満々で荷の中に入れていたのだった。
しかし文字を追うとすぐ眠くなってしまう性分。何度読もうとしても今までは寝こけてしまったが、さすがに目の前に要注意人物が居る現在であれば集中力は一気に増す。
紙の束の一枚目にその名はあった。
陸家。それは言わずもがな、香国の皇族のみが使うことを許された名字であると。
(つまりこの人、皇族の人……)
同時に依依が引っかかったのは、彼の青みがかった黒髪である。
青い髪は、古くを青――新たに樹家と第一代皇帝より名を賜った一族である、東方の貴族の特徴だという。
目の前の青年は皇族で違いないが、同時に樹家の血も引いているということだろうか。
(皇族の人で、樹家の人で、それで将軍でもあるってこと?)
だんだんと混乱してくる依依。
「あの、清叉軍ってどういう軍なんですか?」
というわけで隣の女に、依依はこっそりと話しかけた。
分からないことは、分かる人に聞くべしである。
ごつい体格の女は迷惑そうな顔をしながらも、小さな声で答えてくれる。
「昔は天子様の近衛として重宝されてたお偉い軍隊だが、一年前……あの将軍様が率いるようになってからは権威が落ちたらしい。だから俺らみたいな輩でもどうにか入れんじゃないかと噂されてんだよ」
「へぇ……」
ていうかお前もそれを当てにしてんだろ、と言いたげだったが、依依は感心しきりである。
さすがに軍隊の情報までは、若晴手書き帖にも載っていなかったのだ。
それに若晴だって、依依を育てる間はずっと辺境に居たのだ。宮城の状況だって日々変わっていくだろうから、ここに書かれたことばかり鵜呑みにするのは危険かもしれない。
(……軍隊?)
そこでようやく、何かおかしくないだろうかと依依は思い当たる。
「どうして女官登用試験を、軍の人が見に来るんですか?」
「はぁ? あんた何言ってんだ?」
女が口を半開きにする。
どうしてそんな反応をされるか分からず、依依はぱちぱちと瞬きをした。
「そこ。無駄口を叩くな」
宇静の後ろに控えたひとりから、鋭い叱責が飛ばされた。
彼が見ているのはもちろん依依たちだ。身を縮めていると、宇静が再び口を開いた。
吐き出すのにも苦労しそうな、重苦しい声音だ。
「それでは試験を始める。全員、分けられた木刀を手に演習場に出ろ」
その言葉を皮切りに、彼の後ろの男たちから次々と木刀が配られる。
全員が演習場に立ち並ぶ。五十人ほどの人数が入っても手狭に感じることはないが、陽光さえ跳ね返しそうなむんむんとした熱気は健在である。
「銅鑼の音を合図に試験開始とする。次に銅鑼が鳴らされるまで立っていた者を合格者とする。木刀以外の手段を用いての相手への攻撃行為は禁ずるが、それ以外に掟はない。好きに打ち合え」
ははあん、と合点がいく依依。
つまり、総当たり戦をやらせようということだ。
(でもそれって、試験自体が面倒だからってこと?)
「へへ。弱っちそうだな、まずはあんたからぶん殴ってやるよ」
考えていると、すぐ近くに立った禿げ頭が舌なめずりをしていた。
どうやら依依を最初の獲物と定めたらしい。よく見れば、周囲のねばつくような視線は依依にばかり集まってきている。
体つきが華奢なため、標的に選ばれたのだろう。
なんせ周りの女たちは依依よりよっぽど筋骨隆々で、見上げるほど背が高いのだ。
(やっぱりいいものを食べていると、これだけ成長できるんだわ……)
にやにやと笑う女たちを見回してから、よく光る剃髪に向けて依依はそっと話しかけた。
「あなたは尼ですか?」
「……あ? 尼?」
その瞬間だった。
腹の底に響く銅鑼の音と共に、試験が始まった。