第50話.差出人の告白
依依の朝は早い。
ぱちりと目を開けると同時、慣れない吐息が頬に触れる。
飛傑が寝ていた。眠りに落ちる前と同様、その腕に依依を抱きしめて眠っている。
(……寝顔はかわいいのに)
安心しきったような、どこかあどけない寝顔。
しかし体つきは逞しい。はだけた衫の胸元から、白い胸板と鎖骨が覗いている。
並の女子であれば、胸をときめかせて止まないだろう皇帝の寝姿。
だがそんなことに構っていられない依依は注意深く腕をどけて、そっと寝台を抜け出した。
寝所を出ると、恐る恐る林杏と明梅が姿を現わした。昨夜はすぐに二人分の寝息が聞こえてきたのだから、何事もなかったのは分かっている様子だ。
「おはよう。二人とも、着替えを手伝ってくれる?」
林杏たちが頷く。
着替えるのは妃嬪としての衣装ではなく、宦官の格好だ。
純花から、豆豆が使っているという抜け道は教えてもらった。仙翠の助けがなくても、ひとりで清叉寮に行くことができるのだ。
最後に黒髪の鬘を頭に装着すれば、変装は完了だ。
さて、と颯爽と廊下に出ると、何やら林杏が必死の形相で縋ってきた。
「お言葉ですが、陛下が起きられるまで傍に居られたほうが良いかと……!」
「大丈夫よ林杏。適当に言いくるめてちょうだい」
「そんな無茶なー!」と小声で叫ぶ林杏を置き去りに、依依は灼夏宮の外に出る。
しかしそこで固まった。門の外に、佇んでいる人影があったからだ。
(この人、まったく気配がないんだけど)
ぺこりと頭を下げられる。つられて依依もお辞儀を返した。
誰かといえば、そこに立っているのは桂才……潮徳妃だった。
以前、四夫人の集いで会った際も地味な装いだったが、今日はそれにも増して飾り気のない格好だ。
まだ鶏も鳴かない早朝に日傘を差しているのは、顔を隠すためだろうか。
覇気のない顔つきで、桂才が呟く。
「……見られてしまいました、ね」
それからなぜか、ほんのりと頬を染める。
(それはこっちの台詞なんだけど)
と思いつつ、依依は沈黙を返す。
こちらは宦官の変装までしている。下手に返事をすると、墓穴を掘る羽目になりかねない。
すると桂才は無表情のまま、服の袖から文を出して依依に差し出した。
「……私に?」
桂才が頷く。戸惑いつつも、依依は文を手に取り開いてみた。
そこには赤い字でこう書かれていた。
――あなたの輝きに、私は焦がれています。
――空に舞うその姿を見たときから、囚われた哀れな魂。
――叶うならば、その炎に焼き焦がしてもらいたい。
それを見た依依は固まった。
何か。何かものすごく、どこかで見覚えのある字のような……。
「……あっ! 呪いの文!」
依依が叫ぶと、桂才がぱちくりと瞬きをする。
門を飛び出た依依は、桂才の肩を揺さぶった。
「どういうことですか? どうして潮徳妃がこの文をっ?」
「あ、あの。肩が」
「あっ、すみません」
興奮して手荒な扱いをしてしまった。
慌てて謝ると、桂才はさらに顔を赤くしていた。
「これは、私が書いたものです」
その告白に、依依は度肝を抜かれる。
「ど、どうしてです? なんでそんなことを」
「溢れ出る思いを、お伝えしたくて、つい」
さっぱり意味が分からない。
(呪いの文の差出人は、紅桃じゃなくて潮徳妃?)
混乱する依依に、桂才がぼそぼそと言う。
「一年前……、灼賢妃をお助けしたくて、灼夏宮に呪符を貼ったのも、私です」
「えっ!?」
「文を投げ入れたのも、私や私の女官です。これはあなたへの、文、なんです……」
声はどんどん小さくなっていく。
見れば桂才は耳まで赤く染めていた。瞳は涙に潤んでいる。
それはまさしく、恋をする乙女のようだった。
確かに、改めて今までの文を振り返ってみると、なんとなく慕わしげな内容とも読み取れる気はする。
しかし問題はそこではない。
「灼賢妃を助けたくて、ってどういうことです?」
「潮家の女は先祖代々、独自の呪いを得意とします……二つの腐りかけの実は、灼賢妃を付け狙っていました。しかし私の立場では、表立ってお助けすることは、できませんから……」
宮廷道士がべりべり剥がして焼いたという呪符。
つまりあれは純花への嫌がらせではなく、純花を守るための措置だったのだ。
「李美人の策略に気がついたのはなぜ?」
依依に向かって、二つの実という黒幕の存在を示唆してみせた桂才。
しかし桃花と紅桃のことを、なぜ潮家の人間である彼女が知っていたのか。
そう問えば、つい、と桂才が地面を指差す。
つられて依依も視線を落とした。
「この後宮は、竜穴の真上に作られています」
「竜穴?」
ぽかんとする依依だが、桂才は熱く語る。
「歴代の皇帝陛下……陸家を象徴する慈愛深き黄竜の気とも言い換えられましょう。人々の魂には竜脈から噴き出る大地の気の一部が宿ります。私には人の魂の色が、よく見えるのです。李紅桃の魂はずっと、腐りかけの魂に潰されかけていました」
「人の魂の、色?」
「ええ。私は幼い頃に、冥界を覗いたことがあるのです。それから、常人には見えぬものがよく見えるようになりました。灼賢妃とあなたの魂の色は、似ているけれどまったく違うもの……」
純花と依依が別人だと気がついたのも、どうやらその特別な能力に依るものらしい。
「じゃ、じゃあ、いつも文の字が赤いのはどうして?」
「朱色といえば、灼家の色ですから……」
唖然とする依依を、桂才は熱い眼差しで見つめる。
「あなたの魂は、熱せられては美しく色を変える、赤銅のよう……特別に気高く、凛としている。黄竜の血の流れる者が、惹かれるのは必然でしょう……」
まっすぐに、依依を見つめてくる。
黒曜石のような瞳に、どきりとした。
「私も、あなたに惹かれる。四大貴族の人間には、少なからず陸家の血が流れているから」
四大貴族はそれぞれに四神を奉っている。
東の樹家は青龍、南の灼家は朱雀、西の円家は白虎、北の潮家は玄武。
四神を従える中央の陸家は黄竜の象徴だ。
桂才の言葉を聞き、依依の頭に同時に浮かんだのは二人の顔だった。
今上帝である飛傑。
彼の弟であり、清叉軍将軍である宇静。
彼らとの出会いは必然だったのか。
否、そもそも依依が香国の王都を訪れた、それすらも――?
(……まぁ、どうでもいいか!)
どちらにせよ依依の一番の目的は、純花に会うことだったのだ。
難しいことはあまり考えないことにする。
「では、潮徳妃。私はこれから行くところがあるものですから、これで失礼します」
そう依依が頭を下げると、桂才は日傘ごと首を傾けた。
「あなたの本当のお名前を、教えていただけませんか?」
「依依。灼依依よ」
桂才には魂の色が見えるという。それが本当かは分からないが、依依と純花が別人だと見抜いたのは事実。
今さら隠し立てすることもないだろうと、依依は笑って答えた。
「依依様。素敵なお名前……」
まだ背後で桂才がうっとりと呟いていたが、そんな彼女を置いて依依は駆けていくのだった。