第49話.皇帝の素顔
依依はそぅっと寝所の中を覗き込んだ。
燭台の火も灯さぬ暗がりの中。天窓から射し込む月明かりだけが、その美貌を照らしている。
紗幕を上げた寝台に、腰かけている人物。
――香国皇帝陛下、陸飛傑その人だ。
(うっ。本当に来てる!)
噂を流す許可はもらったものの、飛傑が今夜、本当にやって来るなどと依依には思いも寄らなかった。
ほんの数分前に来たという風ではない。飛傑はしばらく寝所で寛いでいたようだ。
……つまり、依依が純花の姉だと名乗った声は、飛傑にも届いていた。
「何をしている。早く来い」
こちらに視線はやらぬまま、杯に入れた水を口に含んでいる飛傑。
髪は結っておらず、黒檀の髪は広い背中に流れ落ちていた。
絨毯の上に膝をついて、依依は深々と頭を下げた。
「……皇帝陛下。差し出がましいようですが、陛下は寝室をお間違えのようです」
「余を夢遊病とでも申すか。よほど怖い物知らずと見えるな、そなたは」
怒らせるつもりで言ったのだが、飛傑は気分を害した様子もない。
ちょろっとだけ顔を上げて、依依は眉を寄せて訊いた。
「なぜこちらに?」
「そなたこそ、策を弄するには考えが足りぬようだ」
なんですって! などと怒り出す依依ではない。
わりとその通りという自覚はある。直感だけで動く依依を、若晴はよく案じていた。それで大概のことを彼女はうまく収めてきてしまったから、なおさらだ。
大人しく聞く姿勢の依依を見下ろしながら、飛傑が杯を置く。
「皇帝が灼賢妃の元を訪れるという噂を流すことを、余はそなたに許可したな」
「……はい」
苦々しく思いつつ、頷く依依。
灼賢妃たる純花と依依が別人であること。飛傑はそれを理解しているという口ぶりだ。
「しかし実は、皇帝は灼夏宮には訪れなかった。なんてことになれば……灼賢妃は四夫人から失墜するぞ」
依依は息を呑んだ。
今回、宇静を通して依依は飛傑の協力を取りつけた。
といってもそれは、純花の元に皇帝が訪れるという噂を流すのを許可してもらうことだけだ。
紅桃を誘き寄せるための罠として、飛傑の名を使ったのである。思った通り、紅桃は引っ掛かり、追い詰められた彼女は灼夏宮に姿を見せた。
だから依依の予定では、飛傑は本来この場に居るはずもない人だった。
それで全てが丸く収まると誤認していた。
(それは……後宮で生きる女にとって、耐えがたい屈辱なのに)
皇帝の閨は専門の記録係が居る。後宮の意義からして必要なことだ。
だが、もしも触れを出した上で、飛傑が純花を訪ねなかったら……周囲は好き勝手に噂することだろう。
様々な憶測や心ない中傷の声に、また純花は傷つけられていたかもしれない。
住む世界が違うからこそ、理解が追いついていなかったのだ。
「陛下の仰る通り、ですね。……私の考えが浅はかでした」
歯を噛み締める。
そんな依依に、飛傑は追い討ちをかけることも、慰めの言葉をかけることもしなかった。
ただ、次の言葉を待つようにこちらを見ている。
依依は一度、深く呼吸をしてから顔を上げた。
「私も陛下にひとつ、お伺いしたいことがあります」
「なんだ」
意趣返しのつもりはない。
機会があれば確認しようと思っていたのだ。
こうして飛傑が灼夏宮に足を運んでくれた以上、それは今しかないと思っていた。
「陛下は李美人たちの正体について、最初からお気づきだったのではありませんか?」
飛傑は答えない。
依依は静かに、自らの考えを口にする。
「ご存じだったからこそ、純花が李美人たちにどう対処するのか試した」
「…………」
「陛下の御身を守る役目を持つ清叉軍の将軍様が、私や純花にほとんど何も聞かず協力してくださったのは、事前に陛下から達しがあったからでは?」
やがて飛傑が、口の端をゆっくりと吊り上げる。
浮かんだのはどこか悪戯っぽいような、意地の悪そうな笑みだったが……その瞬間、飛傑の持つ皇帝らしい貫禄ある態度が、少々崩れたように依依は感じた。
今さらのように思い出す。
落ち着いた風貌をしているが、この皇帝はまだ二十二歳と年若いのだと。
「四大貴族の家に生まれたからといって、ただの馬鹿娘を妃に据えるわけにはいかないからな」
言葉も、少し砕けたようである。
頭をかいてみせた飛傑が、にやりと笑う。
奥側に獰猛な牙を秘めた笑みだ。薄暗いものを感じたのは気のせいではないだろう。
それが飛傑の素顔であることも、直感で察する。
「灼賢妃はうまくやったよ。我が弟を使い、隠し球である自身の実の姉まで使い……見事に下手人を排除してみせた」
「……灼賢妃は、皇帝の妃として認められたと?」
「そういうことになる」
(この人、嫌な人!)
率直に依依はそう思う。
純花を狙う紅桃に気づいていながらわざと放置したということだ。
純花がどうなろうと、どう転ぼうと、飛傑はどうでも良かったのだろう。
げんなりとする依依の視線に気がついたのか、悪びれなく飛傑は片手を振る。
「詫びと思って、こうして来てやった。可愛らしくお礼でも言うといい」
「……なるほど。どうもありがとうございます」
とりあえず依依が頭を下げれば、飛傑はきょとんとする。
「なんだ。意外と素直だな」
「感謝しているのは事実なので」
そうして一旦、依依は寝所を出た。
目当ての物を手にすると、再び戻る。
「……ちょっと待て、なんだそれは」
飛傑は唖然としている。
米俵のように巨大な樽を担いだ女が戻ってきたのだから、当然だろう。
「こちらはお礼の上等なお酒です。いかがですか?」
ででん! と樽を絨毯の上に落っことす依依。
樽ごと蒸留酒を運び込まれ、飛傑はさすがに度肝を抜かれたようだ。
「……余をどうするつもりだ、お前」
「飲み比べでもします?」
にこりと笑いかければ、飛傑は首を横に振る。
「……酒はいい。依花、こちらに」
「私の名前は依依です」
「そうか。依依」
諦めた依依は寝台に入った。
直後、明梅が素早くやって来て紗幕を下ろしていく。
その手際の良さに依依は圧倒された。一瞬だけ目が合った明梅は、なぜか力強く頷き、颯爽と部屋を出て行く。
(覚悟を決めろってことね……)
おそらく明梅たちは、すぐ近くからこの寝所の様子を見張っているものと思われる。
何か不手際があった場合、助太刀いたしますの意だろう。恥ずかしがり屋の林杏は姿を見せないが、既に戦闘不能の状態なのだろうか。
ここ数日で慣れたはずの広い寝台の中。
触れ合うほど近くに、見慣れぬ美丈夫が横たわっている。面白そうに依依を見ている。
純花は清叉寮に居るのだから、身代わりである依依が夜伽の相手を務めるのは、まぁ当然と言える。
だが。
(私、まっっったく経験ないんだけど……)
そもそも、誰かに恋をしたこともない。
それなのに今、男の人と大変なことになろうとしている。
今すぐ馬乗りになり、顔面の形が変わるまで殴ることはできよう。しかし相手が相手だ。純花を大罪人にするわけにはいかない。
どうすればいいか分からず、かちんこちんに固まっている依依の腕を。
そのとき、飛傑が引いた。
「わっ」
彼の胸の中に抱き留められる。
赤く染めた髪に長い指先を埋められた。
長くゆっくりと、飛傑が吐息を吐く。それが妙に艶っぽくて、身動きが取れない。
(ど、どうしよう)
どくん、と心臓が脈打つ。
強い敵を前にしたときとは違う。得体の知れない緊張感に、全身が強張っている。
若晴は生きるための術をたくさん教えてくれたけれど、異性の扱いなんかはまったく手ほどきしてくれなかった。
飛傑の手が動く。
髪を弄んでいた指が、依依の耳をくすぐる。
そのむず痒さに、もう我慢ならなくなった。
「あの、陛下!」
「なんだ」
「私、とても眠いです!」
――ぴた、と飛傑の手の動きが止まった。
「……眠い?」
「はい、とても。とても眠いです。今すぐ寝ないと、睡眠不足で死ぬかもしれません」
顔を柔らかい白布の中に埋めて、必死に言い張る依依。
半ば脅迫だ。上手ではないが、精いっぱいの脅迫である。
すると頭上で、飛傑が溜め息を吐いた。
かと思えば、より強く抱き寄せられる。驚きすぎた依依の呼吸が止まる。
思っていたよりずっと、飛傑の身体は大きかった。依依のことを、あっさりと包み込んでしまえる程度には。
「あ、あのっ……」
戸惑う依依の耳元に、掠れた囁きが落とされる。
「なら、せめて抱き枕になれ。寝床を温めてほしいと言ったのはそなただろう」
「だから春は暖かいと――」
「今夜は、少し冷える」
そうだろうか。
不思議に思いながら、それが飛傑の最大限の譲歩だと感じ取っていたから、依依は口を噤んだ。
飛傑は依依を抱いたまま、ときどきその頭をぽんぽんと撫でる。
まるで子どもを宥めるようだ。腹立たしいが、鼓動は素直なもので少しずつ落ち着いてくる。
眠いというのはあながち嘘ではなかったようで。
そうされている内に、とろんと瞼が重くなってくる。
うとうとしながら、依依は最後にこんな呟きを聞いた気がした。
「簡単に逃げられるとはゆめゆめ思わぬことだ」
それこそ新しい玩具を見つけた、子どものような声音だった。






