第44話.迎える準備
春彩宴から十五日が経った日のことだ。
――皇帝である飛傑が、今夜、灼賢妃の元を訪れる。
今朝から、そんな噂が広まっていた。
当然のことながら後宮内は大いに騒ぎになった。
「なぜ、呪われた妃と呼ばれる灼賢妃のところに陛下が」
「樹貴妃の元にさえ、昼間、顔を出すばかりだそうなのに」
「いったいどうやって取り入ったの? どんな手を使ったのよ?」
「陛下はいったい、何をお考えでいらっしゃるの?」
そう騒ぎ立てるのは主に下級妃たちであり、彼女たちに仕える女官だった。
彼女たちは血相を変えて宦官を呼び出し、噂の真偽を問い質すが、全員が首を縦に振る。
意見を申し立てた宮廷道士たちすら退け、飛傑はそう述べたのだと伝えられた妃たちは動転して、その内の何人かは気を失ってしまったという。
後宮とは皇帝のためにあり、皇帝の世継ぎを残すための場所である。
その役割のために集められた美しい妃嬪たちは、毎日のように目を光らせて飛傑の愛を得ようと画策している。誰も、まさか純花に先を越されるとは思ってもみなかったのだ。
とある妃嬪は割れんほどに爪を噛み、唸るように呟いたという。
「何かの間違いよ。そんなはずがない……」
その日、後宮内ではそこかしこに阿鼻叫喚とした光景が見られることとなった。
◇◇◇
「よし、成果は上々ね」
そんな怨嗟の声の数々を林杏から聞き取り、会心の笑みを浮かべているのは賢妃の身代わりを務める依依だ。
その発言を聞いて、専属女官である林杏と明梅の二人が同時に首を傾げていた。
「もはや地獄絵図に近いと思いますけど……」
「それがいいんじゃない」
端的に事実を指摘しても、依依は上機嫌である。
皇帝の近侍から触れがあった今朝から、ずっとこんな調子なのだ。
しかしそもそも、機嫌の悪い依依を今まで見た覚えのなかった林杏は、つげ櫛で依依の髪の毛を丁寧に梳かしていく。香油が香り立ち、植物で色をつけた赤い髪の毛を、より上品に彩っていく。
依依の注文通り、林杏は彼女の長い髪の毛を頭の上で一房に結った。ふぅと息を吐く。これで、とりあえず今日の林杏の仕事は終わりだ。
すぐ傍では明梅が、真剣な面差しで依依の唇に紅をつけたところだった。
今までは林杏が妃の化粧を、明梅が髪結いを担当していた。しかし今日はお互いの仕事を入れ替えている。お互いに密かに練習しているのを知った依依が、実物で試してくれればいいと言ったからだった。
出来映えはまずまずだが、もっと特訓が必要だと林杏は反省する。しかし明梅とは最近あまり話せておらず、髪結いについて習うにも気まずかった。
銅鏡は写りが悪いが、じぃっと覗き込んでいた依依は満足げに頷いて立ち上がった。
「二人とも身支度を手伝ってくれてありがとう。あとは陛下を待つだけだわ」
からりと笑って、寝台へと向かう。
その途中、思い出したように振り返ると。
「あっ。昨日も伝えたけど、このあとは私が言った作戦通りにお願いね」
二人の女官の返事を待たないまま、依依は寝台に潜り込んでしまった。
明梅は固い表情で見送ったまま、その場に立ち尽くしている。
その隣で、林杏は小さく呟いた。
「これでは、まるで……」
その先の言葉を、林杏は苦労して呑み込むことになる。
それは決して、皇帝の訪れを待ちわびる妃嬪の姿ではなかった。
まるで――戦場に向かう、ひとりの戦士のようだったのだ。