第40話.繋がっていくのは
「……お前、依依なのか?」
文机から顔を上げた宇静が、唖然としながら問うてくる。
依依は大きく頷いた。
「そうです」
「そうか。預かっていた文について、調べ終わったぞ」
気を取り直したらしく、宇静はすぐに言い放った。
単刀直入な人は嫌いではない。依依も同じだからだ。
場所は清叉寮。その執務室である。
机の前に立たされた依依は、また宦官に扮している。
再び仙翠が念入りに化粧を施してくれたのだが、前回とは顔や体型などが明らかに違う。
というのも、誰かに顔を覚えられるとまずいからだそうだが……。
(たぶん仙翠さん、途中から楽しんでたわよね?)
依依の外見を好き放題に改造できるのがおもしろい様子だった。表情は変わらなかったが、なんとなくそれは察した依依である。指摘するなど野暮な真似はしなかったが。
明梅は興味深そうに横で仙翠の手元を観察し、帳面に何か書きつけてはたまに仙翠に質問もしていた。
林杏も気になるようで扉の影から顔を覗かせていたが、気まずいのかそれ以上は近づいてこなかった。
「何か分かりましたか?」
宇静に調べてもらっていたのは、呪いの文の件だ。
上等な紙を使っていたので、そこから何か掴めるかもと思って頼んでいたのだ。
しかし宇静は、残念そうに首を振る。
「紙については後宮内に出入りする商人が持ち込んだもので、広く使われているものだ。ここから相手を探るのは難しい」
(あらー……)
当てが外れた。
しかしそれなら、なぜわざわざ自分は清叉寮まで呼ばれたのだろうか。
疑問が顔に出ていたのだろう。宇静が続ける。
「だが呪いの文の筆跡が、とある人物の筆跡と一致した」
「えっ! 誰ですか?」
思いがけない言葉に、意気込んで尋ねる。
宇静は文机の端に置いていた巻物を開くと、該当する箇所を依依に示してみせた。
どうやらそれは、何かの事件の報告書らしい。
難しい言葉で丁寧に書かれていて、依依には一部しか読み取れないが、書かれた図とその横の注解については問題なく読み解ける。
つまり、
「昨年の夏頃に、灼夏宮を囲んだ呪符……」
「そうだ。呪符を書いた人物と、呪いの文を書いた人物はおそらく同一人物だ」
(……繋がった……)
それならば、やはり――昨年、純花を攻撃した人物は、今もきっと後宮に居る。
呪符の図を食い入るように見つめる依依を見やりながら、宇静が言う。
「呪符については当時、宮廷道士どもが片っ端から焼き払ってしまってな。現物は残っていないが、それを見た宦官のひとりがこの報告書を書いている。実物を見ながら紋様の筆跡を真似て書き写したのだと、本人から証言も取れた」
「その宮廷道士の人たちっていうのは、優秀なんですか?」
あまり道士という職業の人に好感を抱いていない依依は、そう率直に訊いた。
宮仕えの道士ではないが、道士だと自称する輩であれば辺境の村を訪ねてきたことがあるのだ。
あれは確か、依依がまだ七歳だかの頃。病で倒れた村人の家を回り、怪しげな祈祷やら儀式やらを次々と披露しては金を要求していた。
結局、若晴が煎じた薬草を飲んで全員が助かったのだが、少なくはない人数があの男の言いなりになってしまっていた。弱った家族を助けるために、藁にも縋る思いだったのだろう。
あのとき、若晴は言っていたはずだ。
『人は何かに縋らないと生きていけないもんだ。みんながみんな、強いわけじゃないからね』……と。
依依の問いかけに、宇静は渋い顔をしている。
彼の場合はいつでもそうだが、いつも以上にすっごく渋い。
宮廷道士たちと、もしかすると過去に揉め事でもあったのか。あるいは彼らが勝手に呪符を焼き払った出来事こそ、その揉め事かもしれない。
「優秀かどうかは知らん。ただ、世の中の全ての問題が呪いで片付くのであれば、それほど気楽なことはないだろうな」
明言は避けているが、どうやら宇静自身はあまり呪いとかは信じていないらしい。
「奇遇ですね。私もそう思います」
にっこりと笑って同意したが、胡散臭そうな目を向けられる。
「……その顔とその声。なんというか、奇妙だな」
「すごい技術ですよね? 鏡を見て私も驚きました!」
「ああ、あまり寄るな。寄らなくていい、下がれ」
(どういう意味!?)
身を乗りだしていたら、なぜか片手で追い払われた。
むかっとしつつも、依依は咳払いで気を取り直す。
「将軍様。ちょっと話し相手になってもらえません?」
「……なぜ俺が」
「私、難しいこと考えるの苦手なんです」
「そうだろうな」
宇静が深々と頷いた。実に素直で失礼な将軍閣下である。
長話になりそうだと思ったのか席を勧められた依依は、ありがたく長椅子のひとつを借りる。
多忙な人だろうに、付き合ってくれるのはありがたい。
数秒の沈黙のあと、口を開いた。
「最初から――ずっと引っ掛かっているんです。灼賢妃を陥れることで、得をするのは誰なんでしょう?」
(たぶん、もう少しの気がする)
あと少しの気づきがあれば、きっと喉奥に突っかかっている小骨のような違和感を取り除ける。
誰か、思考をまとめるのに付き合ってくれる相手が必要だった。依依が白羽の矢を立てたのが宇静である。
彼は後宮の外に居て、当事者ではないが事情に精通している。話し相手には適任だった。
「それは……灼家を逆恨みする人間なら、いくらでも居るぞ」
今も客観的な返事をくれるおかげで、依依の頭が回る。
「だけど嫌がらせの内容が低俗すぎませんか?」
「食事に毒を盛られるのは大事だぞ。場合によっては灼賢妃が死んでいたかもしれない」
「でも彼女はその日、夕餉を口にしていません」
純花本人に確認をしたから、間違いない。
「その日は女官が毒見をしたあとに、夕方におやつを食べてお腹が空いていないからと、食事を断ったそうです。その直後、毒見を終えた女官が茸毒によって倒れました」
宇静が目を見張る。
彼もそれは知っているだろう。純花が小食なのは有名らしいし、当時は誰も気にしなかったはずだ。
しかしわざわざ依依が口にしたことで、その事実は別の意味を孕む。
「まさか……灼賢妃の自演を疑っているのか!?」
依依は首を横に振った。
「いえ。まったく」
「――おい」
恨みがましい目つきで睨まれるが、依依は肩を竦めた。
「だって呪われた妃なんて呼ばれて、後宮内ではひそひそ噂されて、皇帝陛下の足も遠のいちゃって……って、灼賢妃にとっては損のほうが大きいような気がしますよ」
「それは確かに……そうだな」
春彩宴のあの日、食事会を抜けだして泣いていた純花。
あの涙を依依は思いだす。あんなに鮮やかな衣装で着飾りながらも、賑やかな宴の会場から逃げるように、純花はたったひとりぼっちで蹲っていた。
そう。ひとりぼっちで。
(…………あ?)
とんでもないことを見落としていたのに、依依は思い至った。
思わず立ち上がる。宇静が不思議そうにこちらを見ている。でも、彼に何かを説明する余裕がない。
「灼賢妃が何者かに狙われたのは事実」
自分に言い聞かせるように、依依は呟く。
ようやく形を成した思考が、消えないように。
「でも後宮から消えたのは、灼賢妃ではなく、彼女の女官たちなんです」