第39話.お散歩していたら
そのあと、依依は宇静宛てに文を書いた。
同封する呪いの文に使われた紙について、彼に調べてもらうためである。
それを届ける先は宇静本人ではなく、皇妹つき女官だ。
宇静からは、今後何かあれば彼女を通して連絡してくるようにと言われていたからだ。
しかし依依はあの女官の名前を知らないし、居場所もよく分からない。
それでどうしようかと思っていたら、文を見た林杏が「届けてきます」とさっさと持って行ってくれた。
依依に怒りつつも、女官としての役目は放棄しない林杏だった。
偉いなぁと感心しながら、依依は独りごちる。
「結局あの女官の人、なんて名前なのかしら?」
するとその呟きを聞いた明梅がさっと墨を磨り、一筆書きしてくれた。
なかなか読みやすく、きれいな字で書かれているには、
「仙翠……っていうのが、彼女の名前なのね?」
こくり、と明梅が頷く。
林杏はあの女官――仙翠のことを元々知っているようだったが、明梅も同様だったのだ。
「ところでコウマイってなんだっけ?」
ここに林杏が居たら、無知すぎる依依に怒り狂っていたことだろう。
しかし明梅は表情を変えないまま、紙にさっと書いて見せてくれた。
――皇妹。皇帝陛下の妹君です。
(つまり陛下にとっても将軍様にとっても、妹君ってことかしら)
ようやく宇静と仙翠の繋がりが分かった気がする。
「優秀そうな人だものね。陛下の妹君は、後宮に住んでるの?」
――まだ幼いため、後宮の東側に宮殿を与えられてそこで暮らしています。
なんて会話する二人が何をしているかというと、屋根の上に仲良く伏せて並んでいた。
なぜかというと、呪いの文を投げ込む人物を現行犯逮捕するためである。
こうして門の近くを見張り、文を手にした犯人が現れる瞬間をかれこれ四半刻ほど待ち続けている。
決して呑気に日向ぼっこしているわけではない。……いや、それもあるけれど。
高い屋根の上ながら、用意した紙に器用に筆を走らせる明梅。
事情を説明したら心配だとついてきてくれたのだが、明梅はかなり度胸があるようだ。
――呪いの文の差出人は、誰なのでしょうか。
今日の明梅はいつにも増して饒舌だ。
その理由を考えて、今は林杏が居ないのだと思い当たる。仙翠に文を届けに行っている彼女は、しばらく戻るまい。
「そうねぇ……それについては、本当にまだ分からないわね」
答える依依を、物言いたげに明梅が横目で見遣る。
だがそれは依依の本心だった。今になって、再び犯人が動きだした理由は分からないのだ。
(私と純花の入れ替わりを知る人物であれば、こんなことをする必要はないけど……)
そう思いながら明梅と目を合わせれば、彼女のほうがびくりとして先に目を逸らした。
今まで何十回も、呪いの文は灼夏宮の門の近くに届けられているという。
しかし、その瞬間を依依自身は目撃したことはないのだ。ただ、林杏からそう聞いただけで。
「……よし、犯人捜しは一時中断」
依依が呟くと、明梅は意外そうに目をしばたたかせた。
だがそもそも、隠れて待つのは依依の性に合わないのだ。
「気晴らしに散歩でもしましょう。明梅、付き合ってくれる?」
しばし迷うような素振りのあと、明梅が頷いた。
◇◇◇
明梅を連れ、依依は後宮内の庭をてくてくと歩いていた。
きちんと妃らしい衣装に着替えての外出である。
しかし後ろを歩く明梅はそわそわと落ち着かない様子だ。おそらく依依の化粧の出来映えが気になっているのだろう。
いつも化粧は林杏が、髪結いは明梅が務めてくれている。
上級妃嬪にはそれぞれ専門の女官がつくものらしいが、現在の純花には女官が二人しか居ないからだ。
二人は純花のために必死に腕を磨いている真っ最中らしい。
女らしいことに関心のない――もっと言うとあまり違いの分からない依依は素直に腕前を称賛するのだが、明梅は自分の仕事に納得がいかないようで何度も首を傾げている。
そうして歩いていると、後宮内だとまさに中の中という具合の大きさの宮殿前を通りかかる。
開けた庭で談笑している貴人たちの姿を目にして、依依は立ち止まった。
相手も少し遅れて気がついていたらしい。
露骨に渋い顔をしつつも、一応挨拶はしてくれる。
「ごきげんよう、灼賢妃」
「来充容、こんにちは」
春彩宴の場で、依依に声をかけてきた妃嬪・来充容だった。
今日も今日とて派手に着飾った彼女の隣には、小柄な妃の姿があった。
その姿を見て、あっと依依は思わず声を上げる。
「あのときの……」
来充容と話しているのは、春彩宴で階段から落ちかけていた妃だった。
姿を見るのはあの宴以来だ。顔かたちは悪くないのに妙に化粧が濃いからか、白い顔ばかりが首から浮いているように見える。
彼女の後ろに控える女官たちも顔を塗りたくっているので、化粧の腕があまり良くないのかもしれない。
「怪我はないと樹貴妃から聞いていましたが、ご無事で何よりでした」
「…………」
ぱっと目を逸らされる。
そして無言のまま頭だけ下げると、女官を連れて出て行ってしまった。
極度の恥ずかしがり屋なのだろうか。不思議に思いながら見送るが、その歩き方が気になった。
(あの妃……纏足してる?)
春彩宴のときには気がつかなかった。
ずいぶんと小柄だとは思っていたが、それも一因だったらしい。
纏足とは、幼い頃から布で足を縛り、足そのものを小さく変形させること。
あの足では、走るのはおろか素早く動くことはままならないはずだ。彼女が階段から落ちかけたのも道理だった。
「呪われた妃と会話すると、呪いが移るという噂なのですわ」
おお怖い、とわざとらしく来充容が肩を擦っている。
しかしもしかすると、逃げだした妃を庇ったつもりなのかもしれない。四夫人である依依をあの妃が無視したというのは、たぶん本当なら大事に当たる。
「その他にも、呪われた妃と同じ空間に居たり、呪われた妃と同じ物を食べたりすると、すっかり呪われてしまうのだとか! ああもう、恐ろしいい!」
(呪いの効果、広すぎない?)
「でも来充容は、私と話してくれるんですね」
「ふんっ。この私が呪い程度に怯えるものですか」
負けん気の強い人である。しかし依依はこういう人は嫌いではない。
「先ほどの妃、なんて方ですか?」
「んまっ。そんなことも知らないのですね、灼賢妃」
「ごめんなさい」
素直に謝ったら、オホホと嬉しそうに高笑いされた。扱いやすい人である。
「教えてさしあげます。彼女は李紅桃。位は美人。この春、後宮入りしたばかりです」
「へぇ」
「当初は宮女候補として、連れてこられたみたいですけどね」
来充容が嘆息する。
要するに、李美人は宮女狩りに遭ったのだろう。
皇帝の花嫁集めのため、地方からも若く見目の良い娘を集めてきているのだ。
辺境に住んでいた頃も、何度か近隣の村からそういったいやな話は耳にした。先帝の時代はかなり盛んだったと聞くが、今でも行われていたとは。
(でも宮女候補としてやって来たのに、美人の位を与えられたのはすごいことなんじゃないかしら)
見たところ、二人とも二十代前半くらい。それで仲良くなったのだろうか。
依依はなんとなくそう思ったが、ぶつぶつと来充容が続けていた。
「……あの足は、李美人の生まれついた地方の習慣なのだそうで。私もね、この前の春彩宴のときは悪かったわねーと、言っておきました。まぁ、一応」
ん? と依依は首を捻った。
しかしそんな反応が不可解なのか、来充容のほうも、ん? と首を傾げている。
しばらく経って、ようやく依依は思い当たった。
あのときは、そこまで詳しく見ている余裕なんてなかったが。
朗らかな笑顔で告げる。
「ああ! あのとき李美人にぶつかって階段から落としたの、来充容だったんですね!」
来充容の顔色が豹変した。
分かりやすく言えばたいそう怒ってしまったので、依依は即座に退散を決意した。
女官たちがぎゃーぎゃー喚く来充容を押さえつけているうちに、後ろを振り返る。
「明梅、逃げるわよ!……明梅?」
どこか一点をじっと見ていた明梅が、慌てたように頷く。
彼女を連れて逃げながらも、依依はその視線の先に気がついていた。
明梅は、去って行った李美人の後ろ姿をずっと見ていたようだった。