第3話.行く当ては、あるので
それから二月が過ぎた。
厳しい冬はようやく去り、地面には若々しい緑が芽生え、小鳥が囀る声が耳朶をくすぐる春が訪れた。
透き通ったような冷たい空気は、日に日に温かさを増し、荒れた土の上を駆け回る子どもの姿もよく見かける。
その間。
若晴の墓を作ったり、畑を小さく整理しているうちに、依依の心にはひとつの決意が芽生えていた。
生まれ育ったこの村を出る、ということだ。
その理由はただひとつ。
(純花に……血を分けた私の妹に、会ってみたい)
それは依依に居るという、双子の妹の名前だ。
旅の一座の男と恋に落ちた思悦は、子を身籠った。
だが妊娠は隠し通せるはずもなく両親に知られてしまい、男は厳しい制裁を受け殺されたそうだ。
思悦はといえば、他の男と交わったために後宮入りの道は鎖されたのだが――彼女が灼家直系の長姫だった故に、その子どもは生かされることとなった。
しかし、ここで想定外が起きた。
思悦が身籠ったのは双子だったのである。
古来より双子は忌み子とされ、あとから生まれたほうは産声を上げる前に縊り殺すようにと言い伝えられている。
それに気がついた思悦だったが、彼女はどちらの子も見捨てられなかった。
出産予定日を誤魔化し、身内に隠れ、内密に子を産み落とした。
その際に、あとから生まれた純花を信頼していた若晴に託そうとした。
しかし若晴が純花を布にくるんで連れ去ろうとすると、依依が激しく泣いたのだという。
手のつけられないほどに泣き、短い手足を動かして暴れる依依に、若晴たちも困り果てた。
ただ、驚くべきことに、純花を思悦の手元に置くと、とたんに依依は泣き止む。
そして若晴に自らが抱き上げられると、すっかり静かになったという。
このために思悦は若晴に、双子の妹ではなく姉の依依を、灼家の手の届かない場所に秘密裏に連れ出すよう命じたのだ。
依依が、不自由な地に追いやられる妹を庇おうとしたのだろうか――。
何度もそう思ったものだと若晴は言っていたが、もちろん依依本人に赤子だった頃の記憶があるはずもない。
(それに結局、どちらの道が幸せだったのか……)
若晴も風の便りで知ったそうだが、身体の弱い思悦は間もなくして亡くなったという。
本来であれば、思悦は純花を手ずから育てるつもりであったのだろう。だがそれは叶わなかった。
ならば、直系長姫と卑しいとされる身分の男との間に生まれた純花は、果たして周囲からどんな扱いを受けて育ったのか。
少なからず、依依は幸せだった。貧しく慎ましい暮らしではあったが、若晴との生活には笑顔があり、屈託のない楽しさがあった。
たとえ家族の顔さえ知らずとも、自分の身の上を哀れに思ったことなど一度もない。
しかし、ひとり取り残された純花は。
(純花…………)
まだ見ぬ妹のことを思うと、依依は鉛を呑んだように胸が苦しくなる。
純花に会えたとして、自分が姉だと名乗るつもりはない。
ただその顔を見て、息災か確認したかった。
どうか笑っていてくれればいいと思う。そしてその笑顔を見届けることを、過去を話してくれた若晴は望んでいたような気がするのだ。
「本当にどうしたんだい、依依。急に都に行くなんて言い出してさ」
近所のおばちゃんにおろおろと問われ、依依はよっこいしょと荷物を背負い直した。
日持ちのする食料と、飲み水を入れた竹筒などが入った荷は、大きめの布で包んでたすきがけに背負っている。
というのも今日こそ、依依の出立の日。
使っていた家屋と耕地は村の人で好きに使ってもらって構わない、と伝えておいた。
家屋の中には家具や私物はほぼ置きっぱなしだ。いくつか思い出の残る品はあるものの、それらを全て持ち運んでいくにはやはり都は遠い。
「都に若晴の知り合いが居るそうだから、行ってみようと思って」
そう、純花の居るところは香国の都なのだという。
というのも若晴によれば、都にある後宮という場所に純花は居るのだとか。
それならば、依依の行く当ては決まりである。
「それで――女官になって後宮に入るわ、私。で、そこでなるべく偉くなりたいのよね!」
何度も繰り返したやり取りではあるが、律儀に言い放つ依依。
純花は灼家の姫として後宮に入っているというから、無論、彼女とお近づきになるためには依依もそれなりに偉くなる必要があるというわけである。
するとおばちゃんと、その隣に仲良く並んだおじちゃんが揃って白目をむいた。
女官になるのはともかくとして――後宮で偉くなりたい、などと高望みする娘が目指す地位などひとつしかないからだ。
若晴が倒れている間も、たまに見舞っていた気立てのいい夫婦は、どうにか世間知らずな娘の説得を試みようと奮闘していた。
無論、何かあれば故人の若晴が悲しむからだ。それにお転婆な依依は娘の居ない二人にとって、実の子ども同然の可愛い子なのだ。
「あ、あんたにゃ無理だよ依依。どんなに別嬪でも、言葉を喋る猿に天子様が見向きするわけないじゃないか」
「何言ってんの。言葉を喋る猿は珍しいじゃないのよ」
(って私、猿じゃないから!)
とか思いつつ、あっけからんと返す依依。二人はひっくり返りそうな顔色になっている。
妻に「少しは手伝え」とばかりに背中を叩かれた夫が、慌てて引き留めるための言葉を探している。
「後宮はね、お前の考えているような場所じゃない。そりゃあ華やかだろうがね、庶民にゃ陰謀ひしめく女の園なんて言われてんだ。きっとひどい目に遭うよ」
「そうだよ。この人の言うとおり、やめといたほうがあんたのためさ」
二人の不安を拭うように、依依は手にしていた棍棒をブン! と鋭く一振りしてみせた。
「大丈夫よ、心配しないで! 何があろうと、棍棒さえ振ってれば大抵のことはどうにかなるわ!」
「余計に心配になるんだが!」
「そ、そういえば依依。都に行こうにもどうやって行くっていうんだい?」
おばちゃんに問われ、「もちろん考えてあるわ」と依依は雄々しく頷く。
この辺境に馬など滅多に居ない。村長の家には繋がれているものの、さすがに貸してはもらえないだろう。
他には驢馬車を使う手もあるが、依依が選んだのは別の手段である。
「山の中を歩いて行くつもり」
それを聞いた二人がますます悲愴な面持ちになる。
「平気、山籠りの経験も何度かあるし、都のある方角も分かってるし」
しかし依依が冷静に言えば、夫婦は次第に落ち着いた顔つきになってくる。
「……そうだな、きっと大丈夫だ」
「……ええ、そうよね。依依ならどうにかなるかも」
「おっ、小猿だ!」
「猿の頭目として山に入るって本当か?」
「早く群れに追いつけるといいな!」
わらわらと集まってきた悪餓鬼たちの発言はほぼ悪口だったので、依依は拳骨を落としておいた。
村の人との別れの挨拶を一通り済ませたあとは、最後に若晴の墓参りをした。
村外れの墓地の隅っこに作った、小さく簡素な墓である。
積み上げた石のひとつに依依は楊若晴の名を丁寧に彫っていた。
いずれはこの隣に依依も、彼女の娘として腰を下ろしたい。そうしたいと心から思う。
だが、今はまだそのときではない。
「私、純花に会いに行くわ」
だからそのときは、たくさんの土産話を持ってここに帰ってこよう。
カラリと笑って、依依は物言わぬ墓に頭を下げる。
「行ってくるね、若晴」
陽気な風が頬を滑っていく。
炭を被った黒髪が遊ばれ、激しく舞い上がっていた。