第28話.元気で無事で
宇静に連れられた依依は、足音を殺して回廊を進んでいく。
「会議に使うと、このあたりは人払いしてある」
誰ともすれ違わないのを不思議に思っていたら、そういうわけらしい。
気が利く宇静に感謝しつつ、依依は彼と共に裏庭へと出た。
葉っぱが大量に積もり、濁った池。
その周囲に背丈の高い竹が育っただけの、ろくに手入れのされていない庭だ。
竹林の中に身を潜めようと、宇静が体勢を低くする。
同じようにしながら、依依は気がついた。ここからだと、演習場の様子がよく見えるのだ。
(ちょっと懐かしいかも)
朝の自主訓練や、昼間の稽古と、ここで依依もいくらか時を過ごしたのだ。
つい二日前までのことのはずなのに、なぜだか遠い出来事のように思えてしまう。
(ん……?)
ふと、依依は首を傾げた。
武官寮に似つかわしくない明るい笑い声が、風に乗って聞こえてくる。
鬱蒼と茂る竹林の間に目を凝らしつつ、耳を澄ませてみた。
「大哥! 大哥!」
聞き覚えのありすぎる呼び名を、囃し立てるように口にしているのは――牛鳥豚。
それに、その近くには不安げな表情の涼の姿もある。
涼の目線の先を見て、依依は「あっ」と声を上げそうになる。
「牛も鳥も豚もすごい! 力持ちだね!」
とか言ってきゃっきゃとはしゃいでいるのは、依依――にそっくりの、純花だった。
鬘を被っているのだろうか、黒い短髪を無邪気に揺らしている。
下級の武官服に身を包んだ彼女は、可愛らしいが少年に見えた。たぶん、今の自分と同じようにいくらか化粧で顔立ちを誤魔化しているのだろう。
そしてそんな純花が何をしているかといえば、四つん這いの姿勢で雑巾がけをする牛鳥豚の背中に、仰向けになってごろごろ寝そべっているのだった。
依依の思考が一瞬、固まる。
(…………な、何これ!?)
唖然としていたら、宇静が教えてくれた。
「……灼賢妃は、記憶喪失になったお前を装っているらしい」
「記憶喪失になった私……?」
「ああ。昨日の朝方にふらふらと寮の前を通りかかったのを、気がついた武官が呼び止めた。そのときには自分の名前しか覚えていないと」
「朝方、ですか?」
あれ? と依依は首を傾げる。
てっきり純花は、春彩宴の警備のために後宮に入る武官たちに紛れ、外に出るつもりだと思っていた。そのために依依の武官服を持っていったのだと。
だが、彼らが後宮に入るのは昼頃なのだ。それでは時間の計算が合わない。
(女官か宦官の格好をして後宮を出てから、武官服に着替えたのかしら?)
純花は女官服も持っていたから、それもあり得なくはないが……。
手順としては少々面倒だし、見咎められる危険もありそうだ。後宮外の地理にも、純花は疎いはずなのに。
「それで記憶喪失になったお前を世話すると、あそこの奴らが聞かなくてな」
宇静の溜め息交じりの言葉に、依依の意識は現実に引き戻された。
今も雑巾がけに励む牛鳥豚の背中で、純花は楽しそうに笑っている。
ほとんど子守のように見えるが、実際に彼らは純花のことを守ってくれている。
(純花がひどい目に遭ってないか、心配してたけど……)
あの様子からして、涼や牛鳥豚が常に純花に張りついているのだろう。
大哥呼びして慕ってくれる牛鳥豚は荒くれ者の部類なのでともかく、良識のある涼がついていてくれるなら安心だ。
今も涼は、はらはらとした様子で牛鳥豚に注意している。
「先輩方、気をつけてくださいね。落としたら危ないですよ」
鳥が「ああ!?」と短気に噛みついた。
「うるせえ好青年! 敬愛する大哥をおれたちが落とすわけないだろ」
「でも心配なんですよ。なんか依依、記憶喪失前より丸くなって、動きも鈍くなっちゃったから……」
「……は!?」
突然の指摘に、純花ががばりと跳ね上がる。
牛鳥豚も、「あー……」と心当たりがあるような神妙な眼差しになる。
「それは確かにな……なんか全身ぷにぷにしてて、ちょっと女っぽいっつか」
「腹回りが二回りくらい増したような気はする」
「よく段差で躓くようになって、目が離せなくなったよなぁ。前もいろんな意味で目は離せなかったけど」
しみじみとしている彼らの会話に、純花はしばらく呆然としていたが、次第にその顔にどんどん熱が上っていった。
「こ、このわたくしに向かって、ま、丸くてぷにぷにで体積が増したですって……っ!?」
「いや、体積が増したまでは……」と遠慮がちに牛鳥豚が首を振りかけたが、純花は聞く耳を持たない。
「全員そこに直りなさい。今すぐに首を落としてやるわ!」
そう言いながら、純花はそんな彼らの背から飛び降りた。
そしてその勢いのまま、床板に額を打ちつけた。
ばたーん! と痛そうな音が響き渡る。
(ええ!?)
そのあまりの運動能力の低さに、依依も呆気に取られた。
「大哥!?」
同じく固まっていた牛鳥豚が慌てて駆け寄り、純花を助け起こす。
しかし赤くなった額を押さえながら「きいい!」と純花は喚いていた。
「よくもこんな辱めをっ! 絶対に許さないわ、末代まで祟ってやるんだからぁあ!」
床の上をじたばたと暴れる彼女を見下ろし、鳥はおろおろしているが、牛と豚は何やら微笑ましげにしている。
「大哥、興奮してまた女言葉になってるな」
「記憶を失っても、これだけは変わらない。なんだか安心するな……」
ぐわんぐわんと、純花の叫ぶ声が頭に響く。
想定していた事態を超えるものを見せられ、依依もなんだか気疲れしていた。
(なんか、すごいことになってたのね……)
しかし休む暇もなく、それまで黙っていた宇静が言う。
「今から、ここに灼賢妃を連れてくる」
「えっ?」
急な言葉に戸惑いを隠せない。
しかし再び演習場のほうを見遣れば、宇静の副官である空夜が純花たちに話しかけていて。
頷いた純花が、空夜と共に演習場から姿を消した。
こちらに向かっているのだろう。そう気がつくが、依依にはどうにもできない。
「とりあえず灼賢妃と話せ。内容はお前の好きにすればいい」
(それって、丸投げというのでは?)
しかし文句を言う時間も与えず宇静は身を翻した。
――しばらくして、彼と入れ替わりにやって来たのは純花だ。
恐る恐る裏庭へと足を踏み入れた彼女は、依依に気がつくとびくりと肩を揺らした。
頬をかきつつ、依依もそんな純花に向き直る。
「依依……まさか、わたくしを連れ戻しにきたのっ?」
「いえ、元気かどうか確かめに来たんです」
依依はきっぱりと答えたが、純花は疑わしげである。
顎に手を当てて考える素振りを見せた純花は、やがて顔を上げた。
依依よりも少しだけ柔らかな赤銅色の瞳が、依依の姿だけを映しだす。
「……ちょうど良かったわ、依依。あなたに言いたいことがあるの」
「なんですか?」
にやり、と口の端を吊り上げて、純花は言った。
「楊依依。あなたの人生、わたくしにちょうだいな」






