第26話.魅せられた者たち
宇静が戻ると、未だに宴の会場は騒ぎの渦中にあった。
騒ぎ立てる妃嬪たちを置いてはいけなかった――彼は後宮の女たちにそれなりの情を持っているから――飛傑が、宇静に気がついて顔を上げる。
「どうだった」
短く首尾を問われた宇静は、淡々と答えた。
「灼賢妃は怪我もないようでした。ただ疲れた様子で、女官と合流して宮に戻ると」
「そうか。本日の立役者だからな、連れ戻してほしかったんだが」
椅子に座ったまま、肩を竦める飛傑。
彼がそう命じるだろうことは分かっていた。だからこそ宇静は命令が下る前に自主的に会場を抜け、純花――正しくは依依を追ったのだ。
皇帝直属たる清叉軍将軍として褒められた行為ではないだろう。しかし飛傑は、何か命じていないときであれば思うままに行動することを宇静に許している。
だから何か言われる前に自分から動くのは、緊急時の宇静の常套手段なのだ。
飛傑もそれを分かっていて、走り去る宇静を呼び止めないでくれた。
忽然と姿を消した武官・楊依依を、宇静は捜していた。
未だ後宮内に留まっているかもしれないと、見つけられたのは良かったものの。
(まさか、妃嬪の身代わりをしているとは……)
このような展開、誰が予想できただろう。
確かに依依を初めて見たときから、誰かに似ているという既視感があった。
顔立ちと、あの特徴的な赤銅色の瞳。果たしてどこで見たのだろうと気になっていたが、今日ようやく分かった。
(灼賢妃と依依は、よく似ている)
宇静とすれ違う純花は、数少ない女官を連れていつも俯いていた。
だから気づくのが遅れたが、今となっては、なぜすぐに分からなかったのかと悔やんでいる。
二人はよく似ている。まるで鏡合わせのように。
(依依は、灼家に連なる者なのか?)
それが性別を隠して武官になったのはなぜだろう。
しかも武官になって間もなく、依依は純花と入れ替わったのだ。彼女の狙いが宇静には掴めない。
依依を清叉寮に連れて行く代わりに、彼女の事情については説明を受けることになったものの。
『お願いを聞いてくださるのであれば、事情は話します!……あっ、話せる限りは!』
つい先刻、依依はそう元気に言い放った。
それを聞いた宇静は率直に思った。――こいつ馬鹿なのか、と。
話せる限りは事情を話す、などとわざわざ宣言してどうする。あれでは、話したくないことは故意に伏せますねと先に明かしたも同然だ。
それならば、相手に悟られないように振る舞うのが定石だろうに。
(まったく……)
だが依依はきっと、そんな小賢しいことを考えつきもしないのだ。
きっと武官になったのも、何か灼家の陰謀を背負ったわけではなく、馬鹿馬鹿しい理由によるものに違いない。
そんな正直な少女の有り様をどこか好ましいと思っている自分が居ることには、自覚的でないまま。
階下から小さく咳払いの音が聞こえ、思考に没頭していた宇静は反射的に目を向けた。
四夫人の桜霞が、階下からこちらに案じるような目を向けている。
妃嬪たちの様子を確認する振りをしながら、目顔でそれとなく依依の無事を知らせてやる。彼女はほっとしたように息を吐いていた。
「にしても、天女の舞か」
くっ、と傍らの飛傑が喉の奥で笑う。
突発的な事故。他の妃と押し合いになった小柄な妃が、階段から落ちかけた。
あのまま彼女が一階の床に叩きつけられていれば、儀式どころではない惨状が広がっていたことだろう。
今頃、この円形会場の使用を決めた連中は顔を青くして、皇帝になんと詫びたものか算段をつけようとしているに違いない。
だが大事にならなかったのは、依依が妃を怪我もなく救ってみせたからだ。
「天女というのは、躊躇わず人の娘を助けるものだったか」
「……それは俺も、知りませんでしたが」
落下から着地までの一連の動作は、なんとも鮮やかな身のこなしだった。
彼女自身がそう告げたように、華美な衣装の裾を空中で翻した姿は、なんとも美しい天女の舞のような――。
(あるいは、猿か猫か)
宇静としてはそちらのほうが近い。
運動能力が高すぎて、人か天女かというより動物的なのだ。
依依が灼家に縁ある人物だとして、どうやって育てたらあのように野性的に育つものなのか気になるところである。
飛び降りる依依に愕然としたのは、飛傑や宇静だけではない。
数秒後には灼賢妃がぺちゃんこになってしまうと、ふらりと気を失った妃嬪たちも居たのだが、彼女たちもようやく意識を取り戻しつつあった。
その最後のひとりを介抱していた桜霞が、気がついた彼女にそっと笑いかけている。
落ちかけた妃の怪我の有無を確かめたのは宇静だが、そんな妃を女官たちに預け、医官を呼ぶよう手配したのも桜霞だ。
(だが、陛下は……)
面白いもの、より珍しいものを好む飛傑の興味が、今どこに向かっているのか。
宇静は、分かっているそれを確かめるようにして飛傑へと視線を戻す。
花器に捧げられた四本の枝。
そのうちの花海棠だけを手に取る横顔を、宇静はどこか苦々しく見つめた。
他の四夫人たちの枝には、豪華絢爛な花が咲き誇るばかり。
枝を選定したからだろう。宴までに咲かなかった蕾、あるいは咲いたものの形の悪い花は落とされたのだ。めでたい宴で使う捧げ物なのだから、それは何もおかしなことではない。
だが花海棠だけには蕾があり、形の悪い花がついている。
異母兄である飛傑が、存外その趣を楽しんでいることに宇静はとっくに気がついていた。
「喜べ宇静。余はあれに興味が出た」
一瞬、宇静はなんと答えたものか迷った。
依依の顔が脳裏を過ぎる。
顔の造形はそれなりに整ってはいるものの、灼熱の花は後宮の中では悪目立ちすることだろう。
目立つ真似はするな、と釘を刺したものの、あの女が人の忠告にあっさり従うようには宇静には思えない。
「宇静?」
「……左様ですか」
確かめるように名を呼ばれ、はっとした宇静はつまらない相槌を返した。
その後改めて、飛傑が宴の終わりを告げて、嵐のような春彩宴には幕が下ろされたのだった。