第22話.火花散る宴2
(うわぁ……)
目にしたとたん、目を見開く。
そこに居たのはまさに、舞い降りる天女もかくやという美しい女性だった。
青みがかった黒髪は流麗に伸ばされて、枝毛の一本もない。
生け花だろう桜の髪飾りの下、細められた瞳も青い。乳白色の肌は艶々と光っていて、思わず触れて感触を確かめたくなるほどだ。
衣装は中衣が薄青色、袖のふわりと長い上衣は桜色。金と銀色の糸を使った帯は上品な藤色である。
天女の羽衣に見立てているのだろう、肩を包み込む紗の領巾の震えのひとつすら、まるでたおやかな彼女を愛でているかのようだった。
「笑ったりしてごめんなさい。お気を悪くしないでね、灼賢妃」
そう謝る彼女の名前は、考えるでもなく依依の頭にも浮かんだ。
「……樹貴妃」
林杏より、本日の主役だと苦々しそうに告げられた名。
だが、それにも頷けるというものだ。間違いなく、今日この場で最も美しいのが目の前の彼女である。
「まぁ。初めて、目を合わせて呼んでくださいましたね」
樹桜霞。年齢は確か十七歳。
名の通りに綻ぶ桜色の唇は、いやらしくはないのにひどく魅惑的である。
依依も男であったなら、見惚れてしまっていたことだろう。
(にしても初めて、目を合わせて呼んだって……純花、普段どういう人付き合いしてるの?)
もしかして、まともに挨拶もしていないとかだろうか。
だとしたら、先ほどからぎろぎろと睨まれている理由にも合点がいく。円滑な人間関係を築く上で、挨拶は基本中の基本である。
「今日の灼賢妃は、なんだかいつもと異なる雰囲気を感じますわね。堂々とした佇まいがとても魅力的。陽光の下で爛々と輝く赤銅色の瞳は、見る者全ての目を惹きつけてしまいそう……」
桜霞は、何やら親しげな微笑みを浮かべて依依に話しかけてくる。
貴妃の座にある桜霞が依依に構っているからか、先ほどまでざわざわと騒がしかった他の妃嬪たちからも注目を浴びているようだ。
(これは……身代わりがばれてるわけじゃないわよね?)
ちょっと不安になってくる依依。
ぼろを出さないためと、林杏には散々「とにかくにこにこ笑って、もし誰かに話しかけられたら「まぁ」とか「素敵」とか言ってればよろしい!」とか言われたが、こんなに積極的に話しかけられてはそういうわけにもいかないだろう。
それに桜霞は依依――というより、純花の容姿を褒めてくれているようだ。
純花の姉として、相応の礼は尽くしたいところだ。
「それを言うなら、樹貴妃こそ。ぷにぷにの頬や、しっとりとした髪。それに鈴を転がすような可憐な声を持つ唇に、先ほどからわたくしも虜にされておりますわ」
そして、特に可愛いなぁと思ったところを伝えてみる。
だがその瞬間に、聞き耳を立てていた妃嬪や女官たちは固まった。
その内容こそ相手の美しさを褒めるものではあったが――如何せん、言い方に難ありである。
性質としては、閨で恋人に送る睦言のそれに近い。しかも、まさに頬や唇、髪の毛に触れて囁く種類の甘い言葉だ。
「思わず触れたくなってしまうほど、素敵ですよ!」
依依はそう締め括った。
思いがけない返しを受けた桜霞は、しばらくぽかんとしていたのだが、はにかんだ微笑みを浮かべた。
「まぁ、灼賢妃ったら。殿方みたいなことをおっしゃいますのね」
「そうですか? うふふー」
どうやらうまいこと乗り越えられたらしい。
ご満悦な依依は、壁際に控えた林杏が白目をむいているとはまったく気がついていなかった。
そして桜霞との会話で緊張が解けたのか、少しだけ周囲を見る余裕ができた。
桜霞と純花以外に、この場には二人の四夫人が居る。会話には加わってこなかったが、依依の両隣の二人だ。
もしかすると話す機会があるかもしれないからと、彼女たちのことだけは林杏に最低限覚えるように言われていたのだ。
(ええっと、ええっと……)
今まではさりげなく若晴手書き帖でおさらいしていたのだが、林杏から禁じられているので、覚えたての知識を総動員して頭の中に思い描く依依である。
皇帝の所有である後宮。
そこに集められる女たちの中で、最も有力とされる四夫人。その座に就く女というのは、姓が次の四つのうちのどれかに限られている。
必ず、香国の東西南北を治める大貴族出身の女性たちが四夫人に選ばれるしきたりのためである。
東の青龍――春を象徴する青改め樹家。貴妃・樹桜霞。
南の朱雀――夏を象徴する朱改め灼家。賢妃・灼純花。
西の白虎――秋を象徴する白改め円家。淑妃・円深玉。
北の玄武――冬を象徴する黒改め潮家。徳妃・潮桂才。
四夫人のあとには九嬪以下、二十七世婦と呼ばれる正五品までの途方もない数の妃嬪たちが続くそうだが……依依が一度に名前を覚えるのは三人までが限界だった。
それに衣の色がそれぞれの家を象徴しているため、桜霞たちに関してはわりと覚えやすいのだ。
(この中で、男児を授かった女が皇后に選ばれる……ってことなのよね)
そのために彼女たちは、後宮にて皇帝の寵を競っている。
もしかするとこの中に、純花を殺そうと企む人物が居るのかもしれない。本日の春彩宴に参加できるのは、九嬪までの妃嬪に限られているものの、そう思うと自然と依依の意識も引き締まる。
そのとき、皇帝の来訪を告げる声が響き渡った。
一斉に跪く妃たち。
初動が遅れた依依だったが、屈み込むのは最も素早かった。動きの俊敏さが尋常でないためだ。
妃嬪たちが跪くのとは反対の位置にある階段から、皇帝たちは三階まで上っているらしい。
じっと頭を垂れていると、やがて遠く離れた望楼から、風に乗って声が聞こえた。
「傅く必要はない。顔を上げよ、天女たち」
皇帝のものだろう、離れていてもよく通る鷹揚な声が聞こえ、他の妃嬪たちと共に恐る恐る依依は顔を上げた。
舞台を見上げ、そうして、固まった。
(うげーっ!)
声を出すのを堪えたのは、我ながら偉かったと思う。
美貌の皇帝陛下の、その背後には――清叉軍将軍、陸宇静の姿があったのだ。