第20話.桜染め
――とてつもなく頭が重い。
正しくは頭だけではなく、全体的に身体がずっしりと重い。
というのも、頭にはいくつもの簪が突き刺さっているのだ。
痛いと何度も訴えたのだが、女官たちによって容赦なく滅多刺しにされた頭は今もくらくらしている。
顔中には塗りたくるように化粧を施して。
赤い髪には、惜しげなく大量の油を垂らして。
重石のような布を幾重にもまとった妃は、宦官の担ぐ豪奢な輿に乗せられて、宴会場へと向かう真っ最中である。
「まぁ、灼賢妃よ」
「呪われた妃……昨日も宴の最中に姿を消していたって」
「相も変わらず、高貴なる四夫人に相応しくない振る舞いね」
向かう間も、外野はひそひそとうるさいものの。
会場に辿り着いた妃は注目を浴びながら、教えられた通りしずしずと降り立った。
全身の筋肉は軋んでいるが、伸びをするのはどうにか堪える。
(………………うん。いい修行にはなるわね!)
着飾ることを、修行呼ばわりするような少女はなかなか居ないだろう。
つまりその正体は、灼純花の身代わり演ずる依依だったりする。
――少し遡って、その日の早朝のこと。
主たる純花が姿を消してしまった灼夏宮である。
「灼賢妃が居ないって……そんなはずはないわ。ひとつだけの出入り口は私が見てたんだし」
丁寧に喋るのも忘れて依依が問い質せば、純花つきの女官である林杏が震えている。
「隠し扉があるの。壺の置かれた後ろ」
その指差す先を慌てて確認してみれば、寝室の壁の一部が裏返る仕組みになっていた。
裏側はどうなっているかといえば、飾り気のない裏庭に面している。ここからなら誰にも悟られずに宮殿を出て行けることだろう。
(やられた……)
寝所に続く扉の前で寝ずの番をしたものの、依依が主に気を配っていたのは外部に対してだ。
風の音や木の揺れる音の中に、怪しい何かが潜んではいないかと常に注意していた。まさか内部で行動を起こされるとは思っていなかったのだ。
「何者かに連れ去られたのでは」
「それはないわね。室内に争った形跡はないし、自分で出て行ったのよ」
不安そうな林杏に、依依は断言した。
そもそも依依が気づかなかった時点で、純花は自らの意志で姿を消したと見るのが妥当だろう。
依依は耳がいいので、純花はそろーりそろりと気配を忍ばせて、隠し扉を使って出て行ったに違いない。
しかしそれなら純花は無事だろうが、いくつか気になる点があった。
「服はある?」
「え?」
「私の武官服。昨日、灼賢妃に預けたんだけど」
純花が隠れていないか、衣装棚までひっくり返して漁っていた明梅が首を横に振る。
(ははぁ。なるほどね)
なんとなく、純花の行動が読めてきた。
まるで戦場に立つ指揮官よろしく仁王立ちして顎を撫でる依依を、怖々と林杏が眺めている。
(私があの子だったら、春彩宴の警備で入ってくる武官に紛れて後宮を出るかしらね)
外見はお姫様然としていたし、不安そうにしていたから騙された。
生意気な口だけではない。性格のほうも、純花はかなり強かだったのだ。
今頃、ほくそ笑んで「ごめんなさいねぇ」とか言っていそうだ。
「どうしよう。今日も春彩宴があるのに」
林杏は気が気でない様子で、室内をうろうろと歩き回っている。
「春彩宴は、欠席すればいいんじゃない?」
「欠席だなんて! 無理よ、それは絶対に無理」
依依の何気ない提案は、弾かれたように否定されてしまった。
後宮内で、純花は呪われた妃などとあだ名されているらしい。
大事な行事を欠席などして、他の妃たち相手にこれ以上、付けいる隙を与えたくないというところだろうか。
(そうなると結局、私が身代わりをするしかないわよね)
純花の目論み通りになっているが、まぁ致し方ないだろう。
もともと依依としては、妹の力になるつもりだったのだ。
彼女に会うために、はるばる都までやって来たのだから。
(武官の道は、完全に閉ざされるでしょうけど……)
一瞬、宇静や涼、牛鳥豚の顔が頭の中に浮かぶ。
理由も、別れの言葉も告げずに姿を消したのは不義理には違いない。
若晴から、『無礼であっても礼儀は忘れるな』と小さい頃から依依は教えられてきた。
彼女の教えには背いてしまうが、純花のためならば若晴も許してくれるだろうか。
「…………分かったわ」
その短い言葉で、依依の決意の内容は林杏たちにも伝わったらしい。
「ただ、上流階級のこととか私にはよく分からないから。何か粗相をしでかすかもしれないから、林杏と明梅には助けてほしいわ」
「……そ、それはもちろん」
依依の粗野な口調に圧倒された様子で、林杏が頷く。
自分たちの命運も掛かっているからか、明梅も文句はないようだ。
二人に向かって、依依は鋭く言う。
「じゃあ、まずは朝餉を食べましょう」
「……え? 朝餉?」
「そう。じゃないと元気が出ないじゃないの」
本当に大丈夫かな、みたいな不安げな顔をされた。
依依としては心外だが、二人を安心させるために次の指示も一緒に伝えておく。
「そのあとは桜の枝をいくつか折って、持ってきてくれる?」
「桜の枝? どうして?」
「髪の毛の色、純花みたいに染めないといけないじゃない?」
依依は自分の長い髪を持ち上げてみせた。
樹液で染め直した髪の毛の色は黒い。この色を落とせば元の赤い色が出てはくるが、そうなると依依の出自を怪しまれてしまう。
「……桜の枝で、髪の毛が赤くなるの?」
林杏はちんぷんかんぷんの様子だが、依依は敢えて堂々と伝える。
「布を桜色に染色するのに、桜の枝が使えるのよ。なぜか桜の枝を煮出すと赤い汁が取れるのよねぇ」
経験者っぽく言い張れば、林杏も明梅も渋々ながら納得したようだ。
ちなみに依依の住んでいた辺境には桜など埋まっていなかったから、本当にそんなことができるのか依依にも分からないのだが。
(これ、若晴手書き帖に書いてあったのよね)
いったいどういう状況を想定していたのか。
鋭い目つきの老婆に、いつか訊ける日が来たら問い質したいものである。
(都中にも、後宮内にも桜は大量に埋まっているし。材料には困らないわね)
桜色では、純花の髪色よりはずっと薄いが。
しかし依依の場合、元々が赤い髪色のためか、通常より濃く染まりやすい髪質をしている。
鮮やかな赤色を出すのも、そう難しくはないように思われた。昼過ぎから始まる春彩宴には十分に間に合うはずだ。
「枝は、私が折りに行ってもいいんだけど」
ちらりと見れば、林杏が首を横に振る。
「あたしたちが行く……いえ、行って参ります」
人前でぼろを出さないためだろう。
言葉を改めて、林杏が言う。
「そのあとは沐浴場に行きましょう」
「朝から沐浴? いいけど……」
「灼賢妃に比べればあなたは岩石のようなものなので、付け焼き刃でも徹底的に磨かないと」
(岩石て)
だが磨き抜かれた純花に比べれば、確かに依依は岩石だろう。
それに依依は、単刀直入な人間は嫌いではない。それはもちろん彼女自身が、他者に阿ることをしないからだ。
「よろしくね林杏、明梅も」
依依の、そして純花の共犯者となった林杏と明梅。
明るい呼びかけに、二人は神妙な面持ちで頷く。
……だが彼女たちはそのとき、全く理解しきれていなかった。
楊依依という少女が、どれほど後宮の常識から外れた生き物なのかを。