第19話.消えた武官
時は少し遡り、清叉寮である。
寮内は、現在ひとつの噂で持ちきりだった。
――楊依依が消えた。
一日目の春彩宴はつつがなく終わった。
だが、警備を務めていた依依が忽然と居なくなったのだ。
厠に行くと告げて会場を離れてからそれ以降、誰も依依の姿を見ていないという。
脱走者が出ること自体は、実は珍しくはない。
清叉軍の訓練は厳しい。訓練に耐えられず逃げる者はちらほら居る。
しかし依依の場合は特異な点があった。
彼の同期のみならず、目上の武官たちまでもが「そんなはずはない」と口を揃えて言うのだ。
「将軍! 大哥は男前なお人だから、絶対に逃げたりしません!」
「そうです! 何か事情があるはずです!」
「どうか我らが大哥に寛大な処置を!」
と、宇静の下に騒がしく訴えに来た、目立つ顔立ちの三人組。
「畏れながら、俺もお伝えしたくて……楊依依は、ああ見えて真面目なやつです。きっと、何かのっぴきならない事情があるんだと思います」
依依の同期の青年。
その他、何度も助けられたという台所番たちや、掃除をしたときに熱烈な指導を受けたという武官たちまでもが、依依が逃げ出すはずはないと揃って言う。
楊依依。
思ったことは屈託なく口にしてしまう、子どものような少年。
そんな彼のことを気に入っている人間は思いのほか多く、彼らは必死の形相をして宇静に頭を下げるのだ。
もちろん、心ない声を聞くこともある。依依を女顔だと馬鹿にしていた連中だ。
しかしそれにしてもこの短い期間で、いったい同僚たちにどれほど顔と名前を売っているのか。
驚かされると同時に、宇静は訪ねてきた彼らに答えていた。
「あれが逃げ出したなどとは、俺も思っていない」
その場しのぎではなく、本心からの言葉だ。
依依は、理由も説明せずに姿を消すような人間ではない。
話したのはほんの数回ではあったが、その程度には宇静は依依のことを買っている。
だからこそ部屋を与え、重要な春彩宴の場での役目を言いつけたのだから。
「あなたにしては、ずいぶん甘い対応ですね」
執務室にて依依のことを思い返していたら、空夜に話しかけられた。
実年齢よりかなり幼く見えるものの、優れた能力を持つ副官だ。書類を繰る手を止め、宇静は溜め息を吐いた。
脱走者が出たときは、すぐさま除名する決まりである。
しかし宇静は、依依の名を名簿から消していない。空夜はそのことを言っているのだ。
「そういうわけじゃない。……あれはずいぶん抜けているから、後宮で迷子にでもなっているのかもしれない」
「そうでしょうかね? 野生の勘は優れていそうに見えましたが」
「…………」
確かに、と宇静は心の中で同意した。
武官登用試験でも、小猿のような身のこなしに驚かされたのだ。
明らかに実戦慣れしていて、ひとりだけ動きが違っていた。誰も彼も歯が立たなかったのは致し方ないだろう。周りの動きを先読みして立ち回っていたのは、彼ひとりだけだったのだ。
(いつも、予想のつかないことばかりをする……)
思えば出会った日から、常識外れの依依には驚かされてばかりだ。
大食い勝負をすれば、隣の彼は包子の山を至福の表情で平らげていた。
嫌がらせで牛の乳をかけられれば、その相手に説教をして懐かれていた。
次は何をしでかすかと思えば、宴の最中に行方知れずになると来た。
上司としては堪ったものではないが、次は何をやるのかと楽しみを覚えている自分が居て。
(だが――、)
思い返す。
時折見る横顔は、男とは思えないほどに整っていた。
照れた真っ赤な顔には惹きつけられた。妙に可愛らしく思えて、笑ってしまったのはそのせいだ。
声変わりをしていない少し掠れた声色は艶めいていた。
会話が不得手な宇静さえ、その声をもっと聞いていたくて、いくらか無駄な話を振ったりもした。
(……何を考えている、俺は)
疲れているのかもしれない。
宇静は目頭を揉む。激しく揉み込む。
「宇静様、あとがつくのでそれくらいにしたほうが……」
空夜が恐る恐る注意してくるが、わけのわからない煩悩を打ち消すまで、宇静は手の動きを止めないつもりだった。
しかしもうひとつ、気に掛かることもあった。
初めて会ったときから、依依の顔にうっすらと見覚えがある気がしたのだ。
依依本人と面識があるというより、よく似た顔を見知っているような。
そう思い何度か近い距離から確認してみたが、誰だったかは分からないまま。
(陛下も、何やら興味深げにしていた……)
今日の春彩宴の真っ最中。
踊り子の舞いを楽しんでいたはずの皇帝に呼ばれて馳せ参じれば、彼は「あの武官を連れてこい」と宇静に命じた。
いつもと同じ、おもしろがるような双眸は遠くに立つ依依のことを見つめていた。
依依がすぐにその場を離れたので、残念そうにしつつ諦めてくれたが……一介の武官相手に皇帝があんなことを言い出したのは、宇静の記憶にある限り初めてのことだ。
(俺だけでなく……陛下も知っている人間に、依依は似ている?)
そう思ったのは直感だった。だが、あながち外れていないようにも思う。
同時に、皇帝が依依を連れ出したのではないか、という思考も浮かんだが、さすがにそこまで横暴な振る舞いはしないだろう。
連れて行くにしても、宇静に連絡くらいはするはずだ。でなければ依依は罰を受けることになるのだから。
何はともあれ、明日も春彩宴は開かれる。
まだ依依は、後宮内に留まっているのだろうか。
だとしたら――誰かに見つかる前に宇静が見つけ出し、早急にあの少年を連れ帰らなければならない。
「やはり、甘いどころではないような……」
苦笑いしながらの空夜の呟きは、都合良く聞こえなかった振りをした。