第18話.消えた妃
「それで明日になったら、清叉軍将軍に灼賢妃のことを相談してみます」
依依は清叉軍所属武官。
寮に戻らなければ脱走者扱いされてしまうが、既に後宮の門扉は固く閉ざされている。
だが不幸中の幸いというべきか、春彩宴は明日まで続く宴。
再び宇静始めとする武官たちがぞろぞろと後宮に入ってくるのだ。
その際に合流できれば。
たぶん、おそらく、どうにかすれば――依依の行動は不問に付してもらえるのではなかろうか。
「将軍というのは……あの怒ったようなお顔をした美丈夫よね?」
依依は宇静の容姿を頭に思い浮かべた。
(眉間に刻まれた皺の数、いつか機会があったら数えてみたいかも)
「そうです。怒った顔の美丈夫です」
「あの方は皇弟でしょう? きっと、すぐに陛下に報告するわよ」
(皇弟?)
皇族だとは分かっていたが、あの怒った顔の将軍はどうやら皇帝の弟だったらしい。
思っていた以上に貴い身分だ。それで皇帝直属の軍を預かっているというのは不思議だったが、今は純花の警護の話である。
「そこまで話の通じない御仁ではないので、どうにかなります」
断言したにもかかわらず、なぜかますます不安そうになる純花だったが、依依は自信満々である。
清叉軍は皇帝直属軍。
ならば、皇帝の所有たる妃嬪の訴えを無下にはしないだろうし、彼女が嫌がることを積極的に行ったりはしないだろう。
今夜にでも純花を狙った刺客が這入り込んできたならば、依依がとっちめて捕縛するので話が早いのだが……。
(お相手は搦め手のほうが好きみたいだし)
最も依依の嫌いな輩だ。
そして一夜だけの不寝番を務めると提案した依依に、純花は考え込むように唇に手を当てて黙っている。
考える純花を見守る林杏は、気が気でない様子だ。
目が合うと、疑るように見てくる。
「大丈夫なの? 誰かに見つかったら、あんたもただじゃ済まないわよ」
「この宮殿、普段は他の方はあまり来られないんでしょう? ばれませんよ、きっと」
「そういう問題じゃ……」
「お願いするわ、依依!」
しかし林杏の言葉を遮り、純花が立ち上がった。
林杏は頭に手を当てる。隣の明梅はひたすら困った顔をしている。
きっと純花は言い出したら聞かない性格なのだろう、二人とも表情に諦めが滲んでいた。
だが、それは同時に二人が純花の意志を尊重しているということでもある。
最後に残った女官というのもあり、純花のことを嫌っているわけではないのだろう。
「さ、こっちへ来て。しっかり守ってもらわないといけないものね」
笑顔の純花に連れられ、依依は寝所へと入っていく。
後ろで林杏が「うっ」とか「ああっ」とか悲愴な声を上げているが、純花はお構いなしだ。
そして依依も気にしない。警護のためなのでやむなしである。
金色の燭台に明梅が火を灯すと、暗がりが照らし出される。
夜目が利く依依はそれより先に、部屋の中を見回していたのだが。
(うわぁ、こっちも豪華ね)
寝所とはいうが、依依に与えられた個室八つ分くらいの大きさだ。
紗幕の向こうには天蓋つきの大きな寝台が置かれている。
窓辺に置かれた水盤には、桜によく似た生け花が浮かんでいた。
鮮やかな桃色の花弁が天窓から射し込む月光を反射して、淡く光るようである。
「花海棠よ」
依依の視線に気がついた純花が言う。
「早咲きした枝を、明梅が見つけてきたものだから。……わたくしの好きな花なの」
若晴手書き帖によれば、灼家の家紋は夏の花である椿だ。
純花の居室に来る間に見かけた庭にも椿園があった。
椿もあでやかな花だが、純花の髪色は、花海棠を挿せばさぞ美しいだろうと依依は思った。
「灼賢妃によく合う、愛らしい花ですね」
何気ない感想だったが、純花が頬を染める。
間髪入れず「ちょっと!」と林杏が飛び込んできた。
「楊依依、灼賢妃を口説くのはやめて。立場を弁えて」
「思ったことを言っただけですけど」
「それが駄目なの!」
何が駄目なのだろう。さっぱり分からない。
しかし林杏の鼻息が荒いので、会話を中断して部屋の中を確認していく依依。
広々としている以外は、特に変わった造りではない。出入り口はひとつだけだし、守りやすい構造と言える。
歩き回りながら、念のために純花に確認しておく。
「隠し通路ですとか隠し部屋ですとか、そういう類いのものはありませんよね?」
「ええ、ないわ」
林杏が一瞬だけ純花を見たが、すぐに視線を戻した。
「それと灼賢妃がお休みされる間、できれば同じ部屋で警護したいんですけど――」
「許可できません」
試しに訊いてみると、ぶすっとした顔で林杏が答える。
(まぁ、しょうがないか)
依依が女だと分かっていても、さすがに妃と一武官を閨で二人にはさせられないのだろう。
大人しく引き下がった依依は、寝所の隣の居室で純花の警護に当たることに決めたのだった。
そのあとは運ばれてきた夕餉を食べる。
依依は毒見を申し出たが、林杏に素っ気なく断られた。
毒見役だという明梅が、それぞれの皿や鉢から料理を取って淡々と食べていく。
(度胸のある子ね)
相変わらず明梅は無言だが、その顔には恐怖の色がない。
むしろ見守る林杏のほうが不安そうだ。前に毒見を担当していた女官は痺れ毒にやられ、後宮を去ったのだというから当然のことだろう。
そして純花が残した分を、依依は遠慮なくもりもりと食べた。
お昼抜きだったのでいつも以上に空腹だったのである。
妃嬪用の食事は豪勢なもので、中には依依の見たことのない食材や料理があった。
味のほうは薄味ではあるが、間違いなく美味しいのだと思う。
(でも、すっかり冷えてる……ああ、先輩たちの作ったご飯が食べたい!)
と清叉寮の食堂を恋しく思いながら全ての皿を空にした依依に、女官たちは戦々恐々としていた。
夜になると湯浴みを終え、衫と呼ばれる寝間着に着替えさせられた純花が、微笑みと共に依依に告げた。
「依依、それじゃこれからお願いね」
「分かりました」
「きっと、久しぶりに深く眠れそう」
寝所に入っていく純花は、ずっと嬉しそうに笑っていた。
◇◇◇
翌日の朝。
寝所に続く扉に背を預け、片膝を立てた姿勢で座っていた依依は目を開けた。
物音に気がついて立ち上がれば、足早にやって来たのは凸凹女官である。
妃嬪たちは昼間に起き出すと寮で聞いたことがあるが、朝日を浴びながらこの二人が現れたのは、おそらく純花のことが――というより、依依が問題を起こしていないか心配になったからだろう。
「異常はありませんでした」
「……ごくろうさま」
しかめっ面で返してくる林杏と、丁寧に頭を下げてくる明梅。
避けた依依の脇をすり抜けて、林杏が呼びかける。
「灼賢妃、お目覚めですか」
しばらく待っても、返事はなかった。
物音らしい物音もしないから、まだ純花は起きていないのだろう。
「失礼します」
そう思った依依だったが、林杏は乗り込むことにしたらしい。
明梅を連れて入室する。数秒が経ったところで、中から悲鳴が聞こえた。
依依も遅れて寝所に飛び込んだ。
明梅が紗幕の中や寝台の下まで隈なく確認しているが、その後ろで林杏は呆然と座り込んでいる。
真っ青な顔をした林杏が、依依を振り返った。
「…………居ない」
もはや誰が、などと聞く必要はなかった。
「灼賢妃が、居ないわ」
依依の頭の中には、昨夜の純花の言葉が思い返されていた。
――『依依、それじゃこれからお願いね』と楽しそうに微笑んでいた、彼女の一言が。