第14話.春彩宴
鼓が高らかに打たれる。
古箏や古琴が奏でる優雅な舞曲が、柔らかく耳朶を打つ。
二日間を通じて開かれる春彩宴の始まりである。
後宮内にある広々とした庭園を使った、贅の限りを尽くした宴だ。
下げ飾りの吊るされた、天井のみ壁のある演台には白い絹の布が張られている。
そこで着飾った美しい女たちが、長い裳を翻して舞いを披露していた。
女官たちは休まず料理を運び込み、宴席は酒の入った官吏たちの笑い声で賑わっていた。
田舎育ちの依依にはあまりに馴染みのない光景に、思わずきょろきょろしてしまう。
(それにいい匂いが風に乗ってきて、胃袋が刺激される……!)
「好き勝手に見回すのは構わないが、警備は怠るなよ」
(うっ)
そこを宇静に鋭く耳打ちされ、姿勢を正す。
昨日から小さいながら快適な個室に移った依依。今日は彼女にとっては初めての、武官らしい任務だ。
そのせいで浮かれていると宇静には思われていそうだが、目的はもちろん、妃嬪であるという純花を捜すことである。
捜すこと、なのだが。
(人が多すぎて、まったく分からない……!)
官吏たちより、ずっと奥の宴席。
咲き誇る桜の樹の下からは、年若い少女たちの声が聞こえてくる。
がっつり食事というよりは、お茶を飲みながら歓談をしているようだ。
先輩に訊いた話では、あちらに上級妃嬪たちの席が設けられているそうだが……遠くまで見渡せる依依の目でも、さすがにその中から顔も知らない純花を見つけ出すのは難しかった。
しかもただの警備の武官が、正当な理由なく妃嬪たちに近づくことは許されないという。
先ほどから機会を窺ってはいるが、宇静や空夜の他、清叉軍の先輩たちは二十名ほど出勤している。交代制で二人一組となり、周囲の見回りもしているのだ。
せっかく純花が近くに居るのに、これではとてもじゃないが捜しに行けない。
(もうっ、もどかしい!)
奥歯を噛み締める依依。
そんな彼女の様子を時折眺めていた宇静だったが、近づいてきた文官に声をかけられ、足早にその場を去って行った。
向かう先をさりげなく見てみれば、彼はどうやら皇帝に呼ばれたらしい。
(将軍様は、皇帝陛下直属の護衛なんだっけ)
というより、依依の属する清叉軍自体が、皇帝の私軍なのだそうだが。
天子と国中から崇められる皇帝。
若き帝・陸飛傑が即位したのは二年前である。
その際に、前帝の有する後宮の女たちも揃って入れ替えられた。
皇子や公主を生んだ女であればともかく、帝のお手つきのない妃たちは下賜されるか、あるいは実家へと戻るのだ。
(つまり純花は、陛下の奥方なのよねぇ)
どこかから情報を仕入れた若晴によれば、純花は妃嬪として二年前から後宮で暮らしているそうである。
同い年の双子の妹が、既に人妻である――という事実は依依の頭をぐらぐらさせる。
『後宮というのは、皇帝の妻となる女たちを一箇所に集めた場所なのです』と若晴から聞いたときも、「何それ」と唖然としてしまったものだ。
しかし実際にうら若き少女たちの姿が遠目に見える。女官を含むと、二千人にも上るという後宮暮らしの少女たちだ。
(あの中の十人でも、うちの村にお嫁さんに来てくれたらなぁ……)
嫁不足に悩む村長や村の衆は大喜びだろうに。
そんなことを考えていた依依は、何か良からぬ視線を感じた。
山育ちに慣れた身。殺気を始めとする気配の類いは本能的に感じ取れるのだ。
目線もやらずに位置を探った依依は、数秒で相手に気がついた。
(……皇帝が、私のほうを見てる?)
下っ端武官である依依が立つのは、広い会場の端の端。
御簾で隠されている皇帝の姿形は見えるはずもないが、視線はそこから感じる。
だとしたら、皇帝もずいぶんと遠目が利くのか。賢帝は千里をも見通すと謳われる。無論、実際に目がいいという意味ではないだろうが。
(ん……?)
そして御簾の横に立つ宇静の仏頂面を見た依依は、眉を寄せた。
宇静は、ただでさえ刻まれがちな眉間に、さらにさらに皺をぐっと寄せていたのだ。
何事かと思えば、ちら――と怜悧な双眸がこちらを見たのに気がついた。
気がついた途端、視線に気がつかなかったように依依は目を逸らしていた。
「ちょっと、厠に行ってきます」
依依は先輩たちに断りを入れ、その場を離れていた。
(たぶんあれ、「お前どっか行け」の合図だわ)
苦々しそうにしていたから、そうに違いない。
もしかしたら皇帝が、女顔の武官をおもしろがったのかもしれない。こっちに連れてきてみろ、とかなんとか言ったのだろうか。
しかしこれは都合がいい。
(今のうちに純花を捜そう!)
宴は明日もあるが、機会は限られているのだ。
厠を探して迷った振りをしつつ、依依は後宮内を物珍しい気分で歩いていく。
まずは春彩宴の会場から離れ、誰にも見つからないようにこっそりと背の高い木に登る作戦だ。
高い位置からなら、歓談する妃嬪たちの様子もよく見えることだろう。
後宮の隅に向けて歩いていくと遠く喧噪は遠ざかっていき、通りすがる人も居なくなっていく。
寂れた区画までやって来た依依は、いよいよ手頃な巨木を見つけて駆け寄ろうとしたのだが。
「…………あれ?」
石畳の路が途切れた、白い砂利の上。
そこに見たこともないほど大きな、麗しい花が咲いていた。
目を瞠った依依だったが、遅れて気がつく。
花ではない。赤色や桃色の、きらびやかなひれをまとった少女である。
あまりに華やかな装いをしているから、そこにだけ花が咲いているように錯覚したらしい。
近づいていくと、すすり泣く幼い声が聞こえた。
(たぶん、妃嬪のひとりだろうけど……)
妃と話していいとは言われていない。
だが、彼女は宴の会場から離れて寂しげに泣いているのだ。
このまま見て見ぬ振りをして放っておくというのはなんとも憚られる。
(あとで怒られたら、怒られたでいっか)
楽天家な依依はそう思い、小さな後ろ姿にそっと声をかけた。
「……失礼します。どうかなさいましたか?」
「…………っ」
控えめに話しかけたつもりだったが、怖がるように細い肩がびくりと跳ねる。
(あ――――)
そこで思わず、依依は声を上げそうになった。
振り返った赤髪の少女は、依依と同じ顔をしていたのだ。