第134話.彼の余韻
「って、そもそも私に妃なんて務まりません。楽器も舞踊もできないし、刺繍とかも無理だし、女の子らしい趣味はひとつもないし」
依依が得意とするのは武芸一本である。あと乗馬。あと大食い。
「立派に灼賢妃の身代わりを務めていたではないか」
「あれは一時的だったから、なんとか誤魔化せただけで……っていうか、そうじゃなくて!」
興奮した依依は上半身を起こし、唾を飛ばすくらいの勢いで言い放つ。
「私はですね、最終的に、純花と仲良く田舎で畑を耕して暮らすのが夢なんです! 妃になんて絶対なれません!」
この反論に、飛傑は意外にも頷いた。
「そうだな。後宮での暮らしには自由がない。かごの鳥のようなものだ。そんな生活に、そなたは耐えられないだろう」
静かに呟く飛傑に、依依ははっとさせられる。
妃嬪の比ではない。皇帝の生活はいつも他者によって見張られ、制限されている。貴い身は、自由に外を出歩くことさえ許されていない。
誰もが皇帝を前に額づく。天子だと崇める。
だが飛傑自身が口にしていたではないか。そんな立場の存在に、なりたいわけではなかったと。
「ごめんなさい。私、そんなつもりじゃなくて」
「同情してくれるなら、余の傍にいてほしいのだが」
何かがおかしいのに気がつき、依依は押し黙った。
これでは飛傑の思うつぼである。思った通り、飛傑は噴き出して目尻を拭っていた。
「っふ。すまぬ、そうしおらしくなられても困るな」
「……やっぱり私で遊んでますよね?」
同情を煽ってからかうとは、とんでもない男だ。
くすくすと楽しげに笑ったかと思えば、飛傑が依依の頬に触れてくる。
「否定はしない。……だが安心したのも本当だ。諸々の反応を見るに、脈なしというわけではないらしいから」
「……は」
「急かすことはしないが、考えておいてくれ」
言いたいことはすべて言ったというように、満足そうに飛傑が立ち上がる。
振り返らず、さっさと退室していく。その背中を呆然と見送った依依は、また寝台に寝転がった。
「……はあぁ」
深い溜め息を吐き、顔を両手で覆う。
(混乱しすぎて、いちばん気になったこと……訊けなかったし)
ごろりと横になった依依は軽く唇を噛んで、拗ねたようにぽつりと呟く。
「私のどこを、好きになったのかしら……」
上品な妃ばかり見たから、辺境育ちの小猿が目に留まっただけだろうか。
だがそう納得するには、飛傑の瞳はあまりに熱っぽかった。それこそ、依依の全身を火照らせてしまうくらいに。
「寝よう」
寝て忘れることはできずとも、やっぱり睡眠は大事なので。
とりあえず、依依は布団をかぶった。悶々としていたけれど、意外に早く、意識は闇の中に落ちていった。
◇◇◇
額に、濡れた布巾が載っている。
宇静が持ってきてくれたものだろうか。ぐーすかと寝ていて、悪いことをしてしまった……と反省しながら、目を覚ました依依は寝台の上を転がる。
「うー」
窓の外が白んでいる。今は、いったい何時だろうか。
上った血は下がってきたようだが、まだ頭が痛い。ずきずきと痛む頭を押さえて、依依は呟く。
「……卵、食べたい」
どんなに体調が悪くても依依の胃は空腹を訴える。
いかなときも食べることこそ回復への近道なのだ。滋養強壮というやつである。
「だるいい」
卵の殻をぺりぺりと剥いていく作業は、別に嫌いではない。むしろ白く艶やかな白身が少しずつ見えてくる喜びがある。
しかし今は身体がだるくて、のんびりと剥いていくのも手間に感じられる。
「働かざる者食うべからず、よ……」
意味合いとしてはちょっと異なっている気がするが、依依は自身を奮起させて、脇台に置かれた籠へと手を伸ばす。
「依依」
しかしそのとき、部屋の外から物音と、名前を呼ぶ声がした。