第12話.お湯と戯れて
宇静によって引っ張られた先に待っていたのは、沐浴場だった。
「桶に湯が張ってある。まだ温かいだろうから、使っていい」
どうやら彼は、朝から湯を沸かして沐浴を楽しんでいたらしい。なんと優雅なのか。
しかも位の高い武官用の沐浴場は、下っ端用のものと違ってきちんと個室に分かれているし。
(それに、小さいけど浴槽までついてるじゃないのー!)
これは宇静が王族の一員だからこその特別待遇だろう。
さすがに大人数の前で服を脱げないので、手洗い場で髪を洗い、濡れた布で身体を拭うだけに留めていた依依だ。
牛の乳まみれなのが不快だっただけかもしれないが、宇静の気遣いは素直にありがたかった。
「ここを使え」
そこでようやく、宇静が手を離した。
臭いと文句を言ったくせに、ここに来るまで宇静は依依の腕を一向に離そうとしなかったのだ。
おかげで彼の手にも牛の乳が飛んでしまっているのだが。
「ありがとうございます、将軍様」
依依は笑顔でお礼を言ったが、宇静は仏頂面のままだった。
「さっさと入ってこい。本当に臭いぞ」
「…………はい」
何度も言うな、と文句を言いたいのを押し殺して返事をする。
とりあえず牛の乳の臭いが染みついている頭巾を取る。残念ながら、宇静の言うとおり臭いはきつい。
染みができてしまっていたが、丁寧に洗濯すれば目立たなくなるだろうか。
「お前……」
(あっ。しまった!)
まだ宇静は後ろに居たのだ。
貴族でもないのに髪の毛を伸ばしているのは、ちょっと変に思われるかもしれない。
不幸中の幸いは、髪染めの樹液で髪色を黒くしておいたことだ。宮城の敷地内には植物が群生しているので、たまに採取していたのである。
しかしここで動じたり、言いわけめいたことを口にするのもおかしい。
依依は宇静の反応に気がつかなかった振りをして、次は服に手をかけた。
「わあ、下着まで牛の乳で濡れてるー!」
「…………」
とか阿呆っぽく騒いでいたら、そこで宇静が踵を返してくれたので、依依はほっと息を吐いた。
念のためだが身体に布を巻いて沐浴場に入ると、まだ空気がじっとりと湿っていた。
桶から盥にお湯を汲んで、足先から膝に、腰にと順々にかけ湯をしていく。
気持ち良くて、それだけで「ほわあ」と溜め息が出た。
備えつけの洗髪剤も発見したので、身体だけではなく髪の毛もしっかり洗わせてもらう。
(さすがに、浴槽に浸かるのはまずいわよね)
……まずいわよね、と思いつつ、縁に腰かけて膝あたりまで入れてみた。
次は「あふう」と声が漏れるくらいに気持ち良かった。
「部下から聞いた。他の武官から嫌がらせを受けているらしいな」
布で髪を挟み、しっかり乾かしてから外に出ると、壁に背を預けた宇静が立っていた。
てっきりもう出かけているものだと思っていたから意外だったのだが、彼のほうにも用件があったらしい。
(嫌がらせと言えば、嫌がらせだけど)
別に上官に相談するほどのことではないのだが。
立ち尽くした依依が、なんと答えたものか迷っていると。
「確かに、見目は整っているが」
そのまま近づいてきた彼が、依依の細い顎を掴む。
少しびっくりするくらい、宇静の手は冷たかった。そう思ってすぐ、それは依依自身の体温が熱いせいだと気づかされる。
直後に無理やり上向かされると、迫力のある美貌が間近に迫っていた。
並の女なら、うっとりと頬を染めるか、あるいは宇静の眼力に震えていただろうか。
依依はそのどちらでもなかった。ただ、淡々と返した。
「将軍様のお好みにも合います?」
「……俺は男に興味はない」
興が削がれた様子で、宇静は手を離した。
「そうですよね。もてそうですし」
「……女にも興味はない」
「それはいろいろと大変ですね」
無礼千万な依依に、宇静はむっつりと黙り込む。
しかし頭ごなしに怒る気になれないのは、依依に悪意がないからだ。
思ったことを、ただ口にしているだけ。
出世とはほど遠いだろうが、そういう人間は宇静は嫌いではなかった。
だが難儀なのは、頭を使わず命令だけを聞くほど、依依が大人しい性格ではないということだ。
少しばかり考えた宇静は、口にした。
「……お前は、台所番を庇ったのだな」
唐突な言葉に、依依は首を傾げる。
少し考えてから。
「先輩たちを庇ったというより……単純に、食べ物を粗末にする人が嫌いなだけです」
数年前、国中が飢饉に襲われたことがあった。
辺境への影響はまだ小さいものだったが、食うのに困る日もあった。
そんな日は乾燥させていた薬草でかさ増しして、ほとんど飯粒のない粥を、茶碗を舐めるようにして食べていたものだ。
そんな風に、依依は若晴と共に生きてきた。
思い出話は言葉にしなかったが、依依の表情から何か読み取ったのだろうか。
そうか、と宇静が頷く。
彼の整った横顔を、ちらと依依は見遣った。
(台所番の先輩たちの中には、訓練や遠征時に怪我を負ってしまった人も居る……)
そうして、武官としての出世の道は断たれてしまったらしい。
だからこそ、台所番という新たな居場所を与えてくれた宇静に感謝していると笑顔で言っていた先輩も居た。
宇静は彼らのことを重宝がっている。
そんな人たちを馬鹿にした牛鳥豚たちに、依依は喧嘩を売ってしまったが……怒られないのは、そのおかげだろうか。
「……もしかして」
「なんだ」
「武官登用試験の内容にも、何か理由があったんですか?」
依依が何を問うているのか、宇静はすぐに理解したらしい。
彼は目を細めると、やがてぽつりと言った。
「……以前は、受験者には真剣同士での斬り合いをさせていたそうだ」
「!」
「それでひどい怪我人が出た。今、そいつには台所番を任せているが」
(木刀での打ち合いにさせたのは、そのためなのね……)
木刀を使わせれば、重傷者は出ないと考えたのだろう。
「でも、痛い思いをする人が多い試験内容だと思うんですが」
「俺は、次に銅鑼が鳴らされるまで立っていた者を合格者にすると言ったが、あれは受験者の意気を揚げるために言った。……お前のように、本気で自分以外の全員を打ち倒すやつが出るのは想定外だ」
「仕方ないじゃないですか。受かりたくて必死だったんだから」
宇静は不思議そうな顔をしている。
「立っていれば、合格としていたんだ。別に全員を叩きつぶす必要はないだろう?」
「………………あ」
言われてみれば、そうだ。
別に合格者は一名とは決まっていなかった。宇静やその部下も、誰もそんなことは口にしていなかったではないか。
(え。じゃあ何? 私、勝手にこの人のこと残酷な人だと思って、ちょっとむかついちゃってたんだけど……!?)
つまり宇静の言葉で、少なからず依依も張り切ってしまったのか。
(はっ、恥ずかしい……!!)
ぶわり、と頬に熱が上る。
なんて未熟なのだろうか。恥ずかしくて、今すぐにでもこの場から逃げ出したい。
どんな強敵を前にしても、今まで一度だって、そんなことを思いはしなかったのに。
「……く」
そこに何やら、喉が詰まったような音が聞こえて。
依依はぐるんと首を動かした。
「今、笑いました?」
「いいや? 笑ってなどいないが」
口元を片手で覆った宇静に、肩を竦めて返される。
でも嘘だ。絶対笑った。
依依がむっとして睨んでいると、宇静は口の端をわずかに緩めた。
「頬が赤いぞ、楊依依」
「これは……っ沐浴したばかりだからです!」
「そうか。そういうことにしてやってもいいがな」
(くそ~……!)
どうしよう。悔しい。
清叉軍将軍である陸宇静というのがどのような人物なのか、少しだけ分かったのは僥倖だったが――、
(それはそれとして、むかつく!)
「お前に部屋をやる、楊依依」
しかしむかむかしていた依依は、その言葉に目を見開いた。
「……部屋? えっ、本当に?」
「嘘を言う必要はないだろう」
明らかに依依が喜色満面だからか、宇静が目を眇める。
「お前もさすがに個室は喜ぶのか」
「私の住んでた家は、居間しかなかったので!」
「…………そうか」
(なに、その哀れみの目は!)
貧乏だったのだから仕方ないだろう。
「あとで空夜に案内させる」
「ええと……」
「俺の副官だ」
脳裏に浮かぶ顔がひとつだけあった。
食えない笑顔を浮かべている童顔青年のことだろう。
(じゃあ私は、見習いも卒業ってこと?)
部屋を与えられるということは、おそらくそういうことだ。
見習いどころか、他の下っ端武官たちもすっ飛ばしての階級が与えられるのだろう。
毎夜の不埒者どもを退けるのにもうんざりしていたので、大変ありがたい。
「それと明日から始まる春彩宴で、俺と共に警護に当たれ」
「春彩宴ってなんですか?」
呆れたような溜め息が聞こえたが、依依が無知なのは事実だ。そんな言葉は、若晴の手書き帖にも載っていなかった。
「教えてください」
正直に頭を下げると、宇静は面倒くさそうにしつつ説明してくれた。
「簡単に言えば、後宮の庭園で行われる花見の宴だ。皇帝陛下や妃嬪たちが集い、四夫人を含めた上級妃嬪たちが一箇所に集うからな……清叉軍はその警護に当たる。といっても、お前の仕事は周囲を見回ることだが」
(それって、つまり……)
俄に依依は張り切り出した。
「分かりました! 私、頑張ります!」
意気込んで、強く拳を握る。
胡乱げな目で宇静に見られていたが、そんなことはまったく気にならない。
(ようやく純花に会えるわ!)
生き別れの妹に会う。
またとない機会が、唐突に巡ってきたのだった。