第107話.その頃の灼夏宮
きゃーん、と白い子犬が鳴く。
何かを期待するように、ぶんぶんと尻尾が勢いよく揺れる。
「ほうら豆豆、この袋よ。覚えたわね?」
灼夏宮の庭である。
庭先に立った純花は、豆豆の鼻先で布袋を軽く振ってみせる。
布きれを繋いで作った袋には、米を入れて膨らませている。豆豆の遊び道具にと思って作ったものだ。
「それじゃ、行くわよ!」
えいやっ、と純花は布袋を投げた。
駆け出そうとする豆豆。しかし布袋は空を舞うことなく、ぽとりと純花の足元に落ちていた。
「…………」
「…………」
両者、沈黙である。
――代わりに投げましょうか。
そこに助け船が出された。明梅がそう書きつけた帳面を見せてきたのだ。
「そうしてちょうだい。でも、作りが良くなかったみたいだわ。うまく飛ばないと思うけど」
と純花が言う傍ら、明梅が軽く腕を振る。
布袋は空に半円を描くようにして、美しく飛んでいった。きゃんきゃん、と元気に鳴いて、豆豆が取りに走る。運動能力が極端に低い純花は、複雑そうな顔つきでそんな豆豆を見守る。
口に袋を咥えて戻ってきた豆豆は、どこか誇らしげだ。
「偉いわね、豆豆」
褒めて褒めて、というように見上げてくる豆豆の頭を、しゃがみ込んだ純花は優しく撫でてやる。嬉しそうにすり寄ってくるのが愛らしい。
清叉軍の多くが出払っているので、豆豆邮局は閉局中だ。世話に慣れた依依や宇静の不在を察知したのか、豆豆は灼夏宮の庭に入り浸っていた。
「今頃、お姉様は温泉三昧で過ごしているのでしょうね……」
傍らの明梅は純花を慮るように目を伏せている。
賭けに敗北した不甲斐なさは拭えないものの、依依が楽しくしているのだと思えば純花の心も少しは晴れる。本当に少しだけ。
実際のところ、依依はまだ温泉宮に辿り着けず、得体の知れない男たちに襲われて洞窟に逃げ込んでいたわけだが、留守番をする純花はそんなこと知る由もなかった。
「あたしも温泉にお供したかったです、灼賢妃」
後ろから声をかけてきたのは、もうひとりの女官だ。
「あら。林杏も?」
「はい。紗温宮の温泉は美容効果が高いことで知られているんですよ。その湯に浸かれば、灼賢妃の髪も肌も、よりつやっつやになっていたに違いないのに!」
まったく違う理由で、林杏は本気で悔しがっていたようだ。
純花はそんな林杏に、試しに布袋を手渡してみる。
「もっと灼賢妃を磨き抜きたかったのにー!」
そんな怨念が込められているせいか、彼女が投げた布袋は塀を越えてしまった。
「あっ」
林杏が慌てた声を上げる間にも、喜んだ豆豆が駆けていく。そんな姿を見ていると心が和むが、楽しく遊びながらも純花は大きな不安を抱えていた。
(お姉様……温泉の居心地が良すぎて、もう戻りたくない、とか思ってたらどうしよう)
それに、とにかく食べるのが大好きな依依だ。温泉宮での食事の虜になっているかもしれない、と純花は不安になっていた。
ふんふん、と鼻息荒い豆豆が戻ってくる。
「豆豆。お姉様が戻りたくないって言い張るときは、わたくしの文を温泉宮まで持っていってね。必ずよ」
きゅるんとした黒目の子犬は答えない。そんなことより早く投げろ、とその目は言っているようだ。
「そういえば林杏が戻ってこないわね。どうしたのかしら」
はて、と明梅が首を傾げる。
――様子を見てまいりましょうか。
「その必要はないわ。……灼賢妃、樹貴妃の使いの女官から贈り物です」
戻ってきた林杏は、取っ手がついた籠を持っている。