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移り気伯爵と都合の良い妻

作者: 白浜


 ナタリアへその話が転がり込んできたのは、本当に幸運としか言いようがなかった。


「俺の友人の…ああ、ナータも会ったことがあるだろう?ユージーンという男が結婚相手を探していてね。それで、ナータはどうかという話になったんだ」

「…お兄様、一つ確認したいのですが、ユージーン様は”あの”『移り気伯爵』のことですよね?」

「なんだ知っていたのか?ナータは社交界には明るくないと思っていたが…まあいい。そうだよ、今やロマンスの代名詞と言っても過言ではない『移り気伯爵』こと、ユージーン・ラジェフのことだ」


 ナタリアと兄、アレクセイが向かい合う応接室は2人の生家であるジルコフ伯爵家の屋敷の一角にあり、王宮侍女として普段は寮で暮らすナタリアが今回呼び出されたのはこの話をするためだったのだろう。

 既に貴族の娘としては行き遅れと言ってもいい年齢に差し掛かりつつあったナタリアの結婚は両親も兄も諦めていると思っていたが、『移り気伯爵』との婚姻となれば納得できる。

 黙り込んだナタリアを気にせずアレクセイは言葉を続けた。


「お前が知っているなら話は早い。ユージーンは”物わかりの良い妻”を所望だ」

「……つまり、伯爵の”移り気”を許容しながら屋敷を仕切る女主人が欲しい、と?」

「そういうことだ。お前だっていつまでも嫁に出ず侍女をしているわけにもいかないだろう。うちとしてもラジェフ家と繋がりが得られる機会はみすみす逃したくはない」

「わかりました。先方がよろしいなら私は構いません」

「ナータならそう言ってくれると思ったよ。既に話は通してある。3日後にユージーンとの席を設けてあるから、失礼のないようにな」


 アレクセイはそれだけ言うと手を払う。早く出て行けということだろう。ナタリアは小さく会釈をして部屋を出た。

ナタリアが幼少期に使っていた部屋は改装されてしまっているため、今日の滞在のためだけに用意された客間へ駆け込み、ドアを閉める。そして息を吸うと、小さくガッツポーズを決めた。


「……やった!」


 ナタリアはどきどきと心臓が高鳴り、頬が熱くなるのを感じていた。


 ユージーン・ラジェフはナタリアが初恋を捧げ、未だに想いを寄せる男性だ。

 初めて出会ったのは兄とユージーンがまだ学生だった頃。ジルコフ伯爵家は王都で学園へ通うアレクセイとその友人たちのたまり場になっており、社交界デビューもしていないような年齢だったナタリアは彼らと顔を合わせることが多かった。

 特に目立つ容姿でもなければ愛嬌があるわけでもなく、人見知りの気が強いナタリアは兄をはじめとした貴族の少年たちに「かわいげのない妹」としてからかわれたりいじられたりしていた。そんな少年たちのデリカシーのない視線に密かに傷つくナタリアを見つけて、「女の子」として扱ってくれたのがユージーンだった。

 当時から輝くばかりの美しい容姿をしていたユージーンを好きにならないわけがなく、初恋を捧げるに至ったわけだが、当然のことながらその想いは想うだけで終わった。なにせユージーンには婚約者がいたし、ナタリアにとってどんなにユージーンが特別でも、ユージーンにとってのナタリアは友人の妹でしかなかったからだ。

 それからナタリアも父親の決めた相手と婚約をしたものの、相手が別の令嬢と婚約をしたいと言い出したために婚約は解消。ナタリアの責ではないとはいえ「婚約者の心を繋ぎ止められない女」という評判が立ってしまえば新たな婚約などできず、修道院へ入れるのは外聞が悪いからという理由でツテを辿り侍女の職を当てがわれて現在に至っていた。


 ――このまま一生結婚せずに済むのなら、初恋の人を密かに想い続けるくらいは許されるだろう。

 そんな風に淡い恋心を大事に大事に抱えていたナタリアは、その「初恋の人」が数々の女性と浮名を流し、果てには家紋の蝶と合わせて「移り気伯爵」などと呼ばれるようになっていることも知っていたが、それでも想いを手放せずにいた。

 つまり、本人が思っている以上に初恋を拗らせているために、一般的に見たら「浮気を容認できる都合の良い妻であれ」と言うひどく自分勝手で最低な結婚条件であっても、ナタリアにとっては人生でいちばんの幸運に違いなかった。



 3日後、ラジェフ伯爵家の応接室でナタリアとユージーンは向かい合っていた。

 長いまつ毛に縁どられたアイスブルーの瞳、波打つ金色の髪をゆるく一つにリボンで結ったユージーンの姿は、相変わらず神の造形物と言っても過言ではないほど美しい。

 そんな美しさに感動で打ち震える心を押し止め、侍女の仕事で鍛えた鉄の表情筋でもって無表情のままナタリアはユージーンの言葉を待っていた。


「…アレクセイから話は聞いている。ナタリア嬢…だったかな?きみは本当に僕と結婚するつもり?」

「はい。既にジルコフ伯爵家から打診はあったと思いますが、私はこの婚姻へ賛同しております」

「条件を了承している、と」

「そのつもりで参りました」


 ユージーンは値踏みするような視線をナタリアに向ける。笑顔を浮かべてはいるが、その瞳は無機質で、ナタリアに対して少しも興味を抱いていないということがよくわかった。

 しかし、そういった態度も覚悟の上で来たナタリアが怯むことはない。落ち着いて言葉を重ねる。


「私は家同士の繋がりしか求めません。ただ、そのためにお約束していただきたいことがいくつかございます」

「……へえ?どんなこと?」

「まず、私を妻として迎えてくださるのであれば女主人の仕事は私にお任せください。ラジェフ様が”真実の愛”を他にお求めになることは止めませんが、屋敷へ持ち込むことはやめてください」

「正妻としての扱いをしろと?」

「少なくとも、夫婦としての体裁は保ってください。婚姻をお求めになっているということは、そういったポーズが必要になられたからでしょう?」

「夫婦の体裁に含まれるものは?」

「”夫妻として招かれた場に夫妻として登場すること”、”女主人として私が振舞うことへの許容”です。私はラジェフ家を守ることに専念いたしますから、ラジェフ様が外で花々を渡り歩くことには関与いたしません」


 淡々と口にするナタリアを徐々におもしろそうな表情になって見ていたユージーンは「なるほど」と頷く。


「君の言い分はわかった。随分と僕の事情を汲んでくれているようだけど、それで君にどんなメリットがある?」

「…私は生涯結婚するつもりはありませんでした。幸いなことに王宮侍女としてのお仕事をいただいておりましたので、職務に尽くして生きるのも悪くないと思っていたのです」

「僕と結婚すれば仕事をやめることになるんじゃないかな」

「ええ。ですが、仕事場が変わるだけだと思えば今までと変わりはありません」

「”仕事”か。僕らの間に『愛情』は必要でない?」

「必要ならあんな条件は出されないでしょう?」


 少なくとも、ユージーンはそれを求めていないはずだ。ナタリアから愛情を求める気持ちはもちろんあるが、それが叶わないことだというのも十分に理解している。なにせ、20年近く不毛な片想いをし続けて来たのだから。

 ナタリアはどうしてもこのチャンスを逃したくはなかった。恐らくこれを逃したら、一生ユージーンと関わることはないだろう。結婚というものでさえままならない身のナタリアにとって、愛がなくとも”初恋の相手と結婚できる”という権利を絶対に手放したくなかった。

 そんな必死さを隠して無表情を貫くナタリアの言葉に納得したのだろう。ユージーンは一転して華やかな笑みを浮かべると、執事を呼んでナタリアの目の前に書類を並べた。


「いいだろう。契約成立だ。僕は君を正妻とし、この家の仕切りの一切を任せる。君の仕事ぶりは聞いているからね。そちらについては心配していないよ」

「恐縮でございます」

「そして僕は、君以外の女性をこの屋敷へ連れ込まないこと、ラジェフ伯爵夫妻としての体裁を損なわないよう努力しよう」

「よろしくお願いします」

「僕が君に求めるのは、ラジェフ伯爵夫人としての振る舞いだけだ」


 暗に「愛情は必要ない」と語るユージーンに胸を痛めながらも頷く。


「…私からラジェフ様へ先ほど言った以上のものを求めることはございません」

「そう。助かるよ」


 示された場所へ互いの名前を書き込む。ユージーン様は姿や声だけでなく文字もお美しいのね、と密かに胸をときめかせながら、ナタリアは夢にまで見た初恋の人との婚姻を結んだのであった。



 数か月後、あっという間に2人は結婚した。

 伯爵令嬢とはいえ社交界にほとんど顔を出さない行き遅れのナタリアと社交界を飛び回る蝶と名高いユージーンの婚姻は、多くの人にとって「形だけの結婚」として受け取られたようだった。


「まあ、事実なんだけどね」

「奥様?」

「いいえ、なんでもないわ」


 結婚後ナタリアは侍女を辞め、ラジェフ伯爵家夫人として屋敷を切り盛りしていた。領地を持たないラジェフ伯爵家は王都の屋敷で暮らしている。ラジェフ家の使用人たちはナタリアに対してはじめは懐疑的な目を向けていたものの、伯爵家の女主人としての役割を精力的にこなす姿を見て信頼してくれたようだった。

 意外なことにユージーンはナタリアをきちんと妻として扱ってくれていた。夫妻として招かれる場へはきちんと2人揃って参加し、ナタリアをエスコートする。必要があればドレスやアクセサリーも揃えてくれるし、ナタリアがラジェフ伯爵夫人として不自由することは一切なかった。

 とはいえ、やはりそこに愛情はない。ユージーンは朝帰りする日の方が多いし、外で連泊してくることもある。それでもナタリアからしたら結婚前よりもずっとユージーンと顔を合わせる機会が多くなったので幸せとは言い難いが、不幸ではない日々を過ごしていた。


「奥様、旦那様がお帰りです」

「え?…まだお昼よ?」


 昼食を食べた後、夜会の招待状を確認していたナタリアの元へ慌てた様子の使用人がやって来た。その報告を聞くのと同時に開け放たれたドアの前にユージーンが姿を現した。昼の光の下で見るのは久しぶりだったため、柔らかな金髪が光を受けて輝くのを眩しく思いながらも椅子から立ち上がって出迎える。


「ユージーン様?どうかされたのですか?」

「別に何もないよ。午後からの予定がなくなったからたまには家でゆっくりしようと思ってね」

「あら、そうでしたか」


 やんわりと微笑むユージーンは相変わらず美しい。死ぬ前に見る光景みたいだわ…と内心で呟きつつ、表情は変えずに「何かありましたら声を掛けてくださいね」とだけ答えて再び招待状の確認をするために椅子に座った。


「……」

「……」

「……」

「……あの、何か?」

「いや?君は出かけたりしないのかと思ってさ」


 一向に部屋から出て行く気配もなく、使用人たちが戸惑っている様子を感じてナタリアが顔を上げると、なぜか部屋に入って来たその場から動かないユージーンがこちらをまじまじと見ていた。

 不思議そうな問いかけにナタリアも同じく不思議に思いながら返す。


「出かける用事はございませんし、今日は招待状へのお返事とお礼状を作ろうと思っておりましたから」

「デートとかはしないの?」

「しませんが…相手もおりませんし」

「目の前に旦那様がいるけど?」

「……夫婦としてのアピールでしたら十分できていると思いますが、何か言われましたか?」


 一瞬、ユージーンとデートができる!と心が沸き立ったが、こちらを探るような視線を感じてスッと冷静になった。恐らくナタリアを試しているのだ。思わず背筋を伸ばして答えると、ユージーンは少しの沈黙の後「いいや、何も言われてないよ」と微笑んだ。


「それじゃ、僕は部屋にいるから何かあったら声をかけてくれ」

「わかりました」


 使用人に上着を預けてユージーンは部屋を出て行った。どうやら満足のいく返事をできたようでほっとする。ユージーンが部屋を出て行くのを確認して、ナタリア付きのメイドが心配そうな顔で声を掛けて来た。


「…奥様、よろしかったのですか?ご結婚されてから一度も旦那様とお出かけされていないのでは…」

「夜会やお茶会には連れて行ってもらっているし、ユージーン様は私を連れて出ても楽しくないでしょうから。それに、私も知り合いに会って色々言われるのは嫌だから」


 社交界の蝶を捕まえたとあって、ナタリアは一部の女性たちから相当に恨まれていた。人の前へ出るたびに値踏みをする視線や、嫉妬、蔑み、哀れみの視線を向けられ、口さがのない者たちはナタリアに聞こえるような悪口を言う。そんな視線を受けるのも中身のない嫌味を聞くのも慣れているとはいえ好ましいわけでもないので、ナタリアは最低限でしか屋敷の外へ出なかった。


「奥様…私共は奥様の味方ですからね」

「ありがとう。でも別に、私は何も辛くはないのよ。こうして自由に過ごさせてもらっているし、伯爵夫人としての仕事も張り合いがあって楽しいわ」


 メイドに曖昧に微笑みを返して答える。

 ラジェフ伯爵家に長らく女主人がいなかったのはユージーンの母親である前伯爵夫人が早くに亡くなってしまい、前伯爵が後妻を迎えることをしなかったためだ。

 ユージーンにも婚約者がいたが、流行病で亡くなってしまったらしく、伯爵夫人として迎え入れられることはなかった。この十年ほどは執事たちが屋敷を取りまとめる仕事を代わっていたようだ。だからか、古参の使用人ほどナタリアの存在に感謝する姿勢が見える。

 実際はただ自分の恋心に素直になっただけなのに。と心のうちでぼやき、ナタリアは目を通し終えた招待状をまとめて休憩することにした。


 ラジェフ伯爵家は庭が美しい。この家へ来てから庭の散策とガーデンテーブルでお茶をする時間はナタリアの数少ない楽しみになっていた。


「ナタリア」

「あら…ユージーン様。お散歩ですか?」

「君がここで休憩していると聞いてね。僕もいいかな」

「構いませんが…」


 いつも通り庭の隅にある東屋でのんびりとお茶を飲みながら詩集を開いていたナタリアの元を訪れたのは部屋へ戻ったはずのユージーンだった。着替えたらしく、ラフなシャツとスラックスだけの姿を見るのは新鮮で、ドキドキと高鳴る心臓や熱くなりそうな頬を押し込めてナタリアは詩集を閉じる。ユージーンは向かいの席に腰を下ろすとメイドに自分の分のお茶も用意するよう指示していた。どうやら一緒にお茶をするようだということに気づき、喜びよりも先に疑問が浮かんで首を傾げる。


「お部屋で休まれるのでは?」

「せっかく家に居るのだから君と話すのもいいかと思ってね」


 とろけるような微笑みを向けられて理性が消し飛びそうになったが、ナタリアは何とか堪えて「お気遣い感謝します」とだけ返した。あまりの衝撃に表情も声も平坦になってしまったが、ユージーンは気にしていないようだ。


「普段はこうやって過ごしてるの?」

「ええ、まあ…そうですね」

「退屈じゃない?ずっと家に居るのは」

「そうでもありませんよ。女主人として学ぶことはたくさんありますし」

「勤勉だね、君は」


 特にそうは思っていなさそうなユージーンにどう返事していいものかわからず、結局ティーカップに口をつけて誤魔化した。

 ユージーンは庭を眺めており、視線の先では枯れた花が取り払われた植木が穏やかな日差しにさらされている。


「…もう夏も終わりか」

「え?ええ。そうですね。先週くらいでしたらもっとお花がたくさん咲いていてきれいでしたよ」

「そうだったんだ。そういえば君に花を贈ったことはなかったね」

「生活に必要なものは十分いただいておりますし、お気遣いなく」


 好きな人から贈られる花なんて絶対に欲しいし嬉しいとは思うが、これも試されているのだろうと思い気を引き締める。案の定ユージーンはナタリアの返事に満足したように笑い、優雅にティーカップを持ち上げた。


「奥さんが控えめな人で助かるよ」


 別に控えめなわけではなく、この生活を続けるための打算でしかなかったが、ユージーンがそれを良しと感じるのならこのままでいよう。ユージーンの正妻として扱ってもらえるだけで十分幸せだ、と言い聞かせながらナタリアは小さく微笑みを浮かべて返した。



 それ以来、なぜかユージーンが家に帰ってくる日が増えた。

 はじめのうちは戸惑っていた使用人たちやナタリアも、ユージーンが特に何をするでもなくゆっくり過ごしていることを理解すると、不思議に思いながらもいつも通りの日常へ戻った。

 使用人の中には「ついに奥様への愛に目覚められたのですよ」と言う者もいたが、ナタリアはまったくそうは思えなかった。確かにユージーンは外泊が減り、休日も家に居ることが多くなった。ナタリアがお茶をしているところに同席するようにもなったし、食事を共にしたり、ナタリアが読書している部屋のソファでうたた寝をするくらいにもなった。

 もちろんナタリアはその一つ一つに胸を高鳴らせはしたが、ナタリア自身がユージーンに対してなんのアプローチもしていないのにユージーンの心がナタリアの方を向くわけがない、というのがナタリアの考えだ。だから勘違いしないように用心深く恋心を胸の奥底へしまい込み、線を引いて踏み出さないようにしていた。


 そんなナタリアの疑問が氷解したのは、珍しくナタリア1人で参加した茶会でのことだった。


「最近”移り気伯爵”の移り気が収まったというお話はご存じ?」

「ええ、知っているわ。お付き合いしている女性が来訪が減ったことを嘆いておいでだとか」

「ご結婚されたのですから、奥様だけに一途になられたのかしら?」

「それがねぇ、ここだけの話なのですけれど…これは”スパイス”なのですって」

「スパイス?」

「今までは独身の伯爵からの愛を受けて、あわよくば夫人の座を射止めようという方が多かったらしいのですけど…今は”奥様がいる伯爵と恋をすること”が良いという方が多いらしいのよ」

「まぁ…火遊びがお好きな方はどこにでもいらっしゃるのねぇ」


 扇で口元を隠して『内緒話』のポーズを取っていても、声を潜める気がない会話は当然のようにナタリアの耳に届いていた。この数年ですっかり”聞かないふり”が上手になったナタリアが素知らぬ顔でお茶を飲んでいると、話し相手になってくれていたご婦人が気づかわし気に「大丈夫ですか?」と声を掛けてくる。


「ええ。世の中にはおもしろい趣味の方もいらっしゃるのですね」

「え?そ、そうですわね」


 ご婦人は戸惑ったような表情を浮かべたが、それ以上話を広げる気のないナタリアは「ところであのパティスリーの新作ですけれど」と話を変えた。


 とはいえ、会話の内容はしっかり聞き取れていたため、最近のユージーンの様子にようやく納得することができた。つまりは、妻を大切にする男を奪い愉悦に浸る女性がいるということだろう。実際のナタリアは別に女として大切にされているわけではないが外から見たら同じことだ。

 あの女性たちは「家に帰ってくるようになったユージーンに愛されていると勘違いしたナタリアが自分の勘違いに気付いてショックを受ける姿」が見たいのだろう。まったく趣味の悪いことだ。


 ナタリアが茶会から帰宅すると、既にユージーンも帰宅していた。リビングで本を読んでいたらしく、顔を上げてナタリアに微笑みかける。


「おかえり。お茶会は楽しかった?」

「ただいま戻りました。ええ、それなりに楽しめました」


 おいしいお菓子とお茶はいただけたからそれなり、だ。ナタリアの返事をどう受け取ったのかはわからないが、ユージーンは「そう」と言ってまた本に視線を落とした。

 家に居るようになってからユージーンがこうして読書をする姿を見かけるようになった。暇つぶしに読んでいるのかと思ったが、どうやら昔から本を読むのが好きだったらしい。そういえばアレクセイとも本の貸し借りをしていたな、と思いながら上着と帽子を使用人に預け、部屋から出る前にふと思い立ってユージーンに声を掛けた。


「…そういえば、ご婦人方の間で噂になっていましたよ」

「ん?いつものことじゃない」

「そうですけど、最近家に居る時間が増えてらっしゃるでしょう?」

「ああ…」

「寂しがられる方もいらっしゃるようですし、ユージーン様も無理に家に居らっしゃるのは退屈なのではないですか?」

「……君は、僕が家に居ない方がいいってこと?」

「まさか!」


 しゅん、と眉を下げる姿は新鮮で、普段とは違うかわいらしさを感じてナタリアは身悶えしそうになったがどうにか堪える。もちろんナタリアとしては毎日家に居てくれたら嬉しい。もっと会話できる機会が増えたら嬉しいし、そのまま夫婦として自然な関係を築けたらいいなと思う。

 だけどユージーンがナタリアに求めるのは『都合の良い妻』だ。ユージーンにとって負担が少ない妻で居ることでこの結婚という名の契約が長続きするとナタリアは信じて疑わなかった。

 心配そうなナタリアの表情を見てユージーンは少し考える素振りを見せた後、本を閉じて膝の上に置く。


「別に無理はしていないよ。忘れていたけど、僕は元々本を読むのが好きだしね」

「そうでしたか」

「それに、君と居るとすごく楽なんだよね」

「……楽?」


 目を丸くするナタリアを手招きして隣に座らせ、ユージーンは目を細める。こんな風に並んで座るのは、それこそ夜会や茶会に出るときくらいだから、ナタリアは内心どぎまぎしつつユージーンの顔を直視しないように少し視線をずらして首を傾げた。


「そう。僕ってほら、女性から求められることが多いだろう?」

「そうですね」

「求められて嫌なわけではなかったけど、思ったよりも疲れていたみたいでね、僕は」

「はぁ……」

「その点、君は僕に何か求めたり期待したりしないし、家のこともよくやってくれている」

「そういうお約束ですから」

「約束が守れるところは君の美点だよね。…まあ、そういう理由で僕は気づいたんだよ。家に居るのは結構気が楽でいいなって」


 笑う気配を感じて外していた視線をユージーンへ合わせると、見たこともないような穏やかな微笑みを浮かべていて一瞬ナタリアの思考が止まる。あまりにも神々しくて宗教画かと思った。咄嗟に手が祈りの形を作ろうとしたが、どうにか我慢して「それはよかったです」と微笑みを浮かべた。


「だから、僕のことは気にしなくていいよ。噂のこともね」

「……わかりました。変なことを聞いてしまってすみません」

「構わないさ。どうせ余計なことを言う人が居たんだろう。ところで、この後時間は?」

「え?時間はありますが…」

「なら一緒にお茶でもどうだい。君は茶会に出たばかりだからいらないかな」

「い、いえ…ご一緒させていただきます」


 話が終わったと思ったらユージーンは使用人を呼んでお茶の用意を頼んでいた。目を白黒させるナタリアを見てユージーンはきゅう、と目を細めて笑う。


「これからもいい関係でいようね、奥さん」

「は……、はい、旦那様」


 ナタリアは知らなかった。ユージーンは追われるよりも追いかける方が得意だということを。花から花へ飛び回るのは、次の獲物を求めるがゆえの行動だったことを。


 ――自分が、新たな標的になったことを。


 契約だけの夫婦関係が変わるのと、移り気伯爵の移り気が収まるのは、まだもう少し先の話。



end.

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