向日葵の咲く丘で
句読点少なめなので縦書きPDF(上ボタン↑)で読んだ方が読みやすいかもです。
兄の良樹はその夏休みに、大学の友だちとアメリカ留学という名の短期アルバイトに出かけた。
大学教授という職業柄、母がゼミの学生たちを連れて東南アジアへ向かうのは例年のこと。
小学五年生が自活できれば、残された私は家で過ごしていたのだろうけれど。
さすがに一ヶ月も紗矢をひとりで置いてはおけないわね、という母の一言で私は電車で一時間かかるおばあちゃんの家に厄介になることが決まった。
不満なんてない。いつものことだ。
かろうじて日に二本のバスが走る田舎町に、なんの娯楽があるのかと問う気にもならない。子どもは外で遊ぶのが当たり前と信じているおばあちゃんに「虫取りに行っておいで」と笑顔で虫取り網を渡されれば、私が反論できることなんて何もない。
私はもう五年生なのだけれど。今時虫取りが好きな女の子なんていないと思うのだけれど。
心の中で呟いて、古い平屋の家から追い出されるように照りつける太陽の下に出た。
何度も訪れたこの町に私の居場所は多くない。同い年の友だちでもいれば楽しかったろう。
でも一番近くの小学校から数キロ離れたこの場所で子どもの影を見たことはない。遊び相手を探すだけ無駄というものだ。
セミってこんなにうるさかったろうか。
日差しってこんなに肌に刺さるものだったろうか。
やはり持ってきた本を読みながら部屋に転がっているべきだったと、早々に後悔しはじめた私の眼前に、一面の黄色が現れたのはそのとき。
登り坂を越えて吹いた風に、心までもが持っていかれそうな錯覚をみた。
お日様へ向かって真っ直ぐに伸びる、大輪の向日葵の数。数。数――。
「こんなところがあったんだ……」
どこまでも続いていそうな向日葵畑を望めて、ひとり呟いた。
都会ではあり得ない光景が田舎のご馳走だとは、誰が言った言葉だったろうか。私は道端の木陰に入ってしばしその光景に見とれた。
視界の隅に映った小さい影が、蜘蛛の巣にかかった蝶々だと気づくまでに少しかかった。
もがく黒い蝶がかわいそうに思えたのはほんの気まぐれには違いなくて。自分が虫取り網を持っているのに矛盾していると思いつつも蜘蛛の巣からつまみ出すと、ベタベタする糸を丁寧にとってやった。
自由を得た黒い薄羽が向日葵の黄色の中に飛び込んでいくのを見送って、風のなびく様をただ追いかけて、時間を忘れかけた頃。
黄色い海からこぼれ出たように、ひとりの少女が立っているのを見つけた。
子どもだ。子どもがいたんだ。
私と同じくらいの歳の、長い黒髪の少女。無表情にこちらを眺めているので話しかける勇気がないのかもと思い、自分から声をかけた。
「こんにちは」
すらりと姿勢の良い少女は何も言わず私を見つめたあと、手招きした。
「なに?」
地面に置いていた虫取り網を拾いあげて坂を下りた。
向日葵たちは私の頭よりまだ高い。少女は、ついておいで、というように向日葵の森に体を滑り込ませた。
道があるのかないのか、地元の子だけが知っている何かがあるのか、分からずに後を追った。そうしたほうがいいような気がした。なにより、着いていかなければ少女が気を悪くするかもしれない。
チクチクする茎の間を抜けていくうちに、どこまでも終わらない迷路に迷い込んだ気持ちになった。少女はこちらを振り返りもせず迷いなく進んでいく。
どんどん距離が離れていくようで少し怖くなった私は「待って」と声をかけた。
でも濃い緑の茎の間からその言葉に応えたのは少女ではなくて。
もう何年前になるかも分からない昔に家を出て行ってしまった、父だった。
「――紗矢、元気でな」
父は言った。あのときと同じ顔で。
そう言った父に幼い私が何と返したか、はっきりと覚えている。
「待って」と繰り返した。
聞き遂げられることはなくタクシーに乗ってしまった父の目に浮かんだ揺らぎまでもが思い出されて。伸ばしかけた手を縮めた。
幻覚だ。
きっと暑さで頭がおかしくなって、夢を見ている。
だからそんな白昼夢のあとは、夢と現実の境がひどく薄い。
気付けば、向日葵の森の中には父ではなく、少女がいた。
吸い込まれそうな黒い瞳で私を見ていた。
「虫を捕まえるのが好きなの?」
問いかけられて、虫取り網のことを言っているのだと思った。
自分の意思とは関係なく、忙しなく打つ鼓動を感じながら考えた。
もちろん好きではないけれど、嫌いでもない。好きよ、と答えればいいだろうか。それとも一緒に虫取りをしようと誘えばいいだろうか。どう答えればこの子が満足なのか分からない。
「好きか、嫌いかを聞いてる」
心の底をのぞくような目で、少女は言った。
少しだけひるんで、ああ、と思った。
「好き、じゃないわ……でも、虫は嫌いじゃない」
「そうね」
「虫取り網は、おばあちゃんに持って行けって言われて。でも虫取りをする気はないの」
「そうね」
そうなのね、じゃないことに違和感がなかった。
そう言えば良かったのよと、私の言葉を肯定しているのが伝わってきた。
「さみしいのね」
同情でもなくて、憐れむのでもなくて。ただそうなのでしょうと言っている。
透明な水のように乾いた胸に落ちてきた言葉を受けて。なにかを考える前に私の口はしゃべり出した。
「わがままはダメなの。なにがしたいとか、嫌だとか、それ以外好きじゃないとか、そういうのはダメなの。みんなが困るの」
吐き出したのはそう感じながらも気づいていないふりをしていた本当の言葉で。
少女は無表情のまま言った。
「それはおかしいわ。あなたに向き合った人の望む言葉だけを探しているのなら、あなたの言葉はもうあなたのものじゃない」
向日葵が揺れた。高いところで。
ざわりと通っていく風が大きく大輪の花たちを揺らして、私の心をも揺らしていく。
少女ははじめて笑った。
「自由をありがとう。あなたもまた、動けるようになるわ」
次の瞬間、もとの木陰にいた。
足下には虫取り網が落ちていて。
壊れた蜘蛛の巣が心細げに時間を止めていた。
セミの声は相変わらずうるさくて、一面の向日葵畑がお日様に輝いていた。
私は足下の虫取り網を拾った。
そのまま一歩踏み出した。
セミの鳴く、太陽の照りつける道を歩いた。
真っ直ぐあの平屋の家に帰っておばあちゃんに言おう。虫取りは好きじゃないと。
電話をかけよう、母に。早く帰ってきて欲しいと。
兄にはお土産をねだろう。
鼻がツンとして、見上げた空がにじんだ。
瞼に焼き付いた一面の向日葵が、それでいいんだよと言っている気がした。