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浮融  作者: 海月歌
3/4

金風

昔、サッカー部でした

 僕の夏は二回戦で終わった。唐突に、ホイッスルと勝者の歓喜だけがグラウンドに響いたという。


 ぬか喜びさせやがって。あの時は一回戦突破という響きだけで、まだ神様は僕を見放していないんだと。いつもは湧かなかった食欲にエンジンがかかったのに。いざというときにエネルギーを蓄えていたのに。すべてが無駄になったよ。


 ぬか喜びさせやがって。


 夏の風は、生ぬるいだけだった。僕らは負けてしまったので、受験勉強に切り替えることになった。第一志望はカウンセラーの資格に強い「仁科大学」だ。今のところ判定はⅮ。あと半年でA判定にまで持ってこなくてはならない。今日は僕の苦手な現代文をするか。


 喫茶店のブレンドコーヒーは最近の僕のお気に入りだ。勉強のお供にちょうどいい苦さを持っている。コーヒーに手を付け始めたのは夏休みに入ってからだ。もともとコーヒーは勉強にいいらしい。僕はソーダを卒業した。一段階大人へと近づけたのだろうか。


 喫茶店に入って六時間。そろそろ帰るか。続きは家でやるとしよう。僕はお金を払って喫茶店を出る。この店から家までは徒歩で二十分。歩きながら英単語の復習でもしようかな。ぬるい風によって手の汗が単語帳を湿らせてしまうのはこの際、気にしないようにしよう。


 少し寄り道でもするか。英単語帳をペラペラとめくるのは楽しい。知識が増えそうだからだ。いや、実際に増えているのは確かであるが、このペラペラが癖になる。この夏で伸ばしていった教科は主に英語であった。この夏に好きになった教科と言っても過言ではない。残る半年を、僕は部活なんかを考えず勉強していればきっと、きっと合格できるはずである。だから僕はあの日以来、部活用品をすべて処分した。母さんは賛成してくれたが、父さんは妙な表情だった。


 それが今でも忘れられない。僕の言っていることは確かなはずなのに。


 英単語をすべて復習し終わった後の眼前の世界は、実に夕暮れ緑であった。二か月前まで僕の日常。よくソーダを飲みながら、部活仲間の翔と亮平と一緒にこの公園に来ていた。そのころは顧問への愚痴を吐いたり次の対戦相手の対策会議をよくしていたものだ。なにもかもが、あつくなっていたあの日々は炭酸飲料で流し込んでいた。今は翔も亮平もいない。当然である。この公園には遊具や自動販売機がない。あるのは二つのベンチのみなのだから。

 一つのベンチを占領しながら、僕は明日のことを考えていた。明日は学校の始業式だ。あの日以来、部活のメンバーとは会ってない。なぜだか気まずかったのである。僕があの試合の敗因だと考えているからである。僕はチームの部長だった。だからこそあの試合は負けた。つまり一年前に僕らの夏は終わったのである。


 明日から授業をまじめに受けよう。メンバーとはあまり会いたくないな。仁科大学対策について先生に聞いてみるか。漫画も禁止にしたほうがいいかな。あいつら今何やっているかな……。

 帰るか。


 始業式当日。僕は自転車をこぎながら、古典の単語を頭の中で復唱していた。学校につくと教室に向かう。なんか忘れ物ないよな。宿題は全部やってきたよな。


「おーす、郷二(きょうじ)、久しぶりだな」

 クラスメイトの田中だ。おはようと返す。そういえば明日は学力テストだっけ。面倒くさいな。まあ英単語でも復習するか。そのとき、田中のにやけ顔が目に映る。

「おーっと、すっかり真面目ちゃんになったなあ。感心感心!」

 こいつはどの目線で言っているんだ。というか田中、お前も勉強したほうがいいぞ。

「おーい、それは禁句だぞお。俺様は卒業したら自営業で金稼ぐから、大学には行かんのだ」

 それは頑張ってください。僕は意識を英単語に戻した。僕は何としても大学に入らないといけない。そのためには毎日の勉強も苦にはならないだろう。


 昼休み。僕は急いで昼飯を片付け、ノートを開き、シャーペンを動かしていた。そのときである。

「郷二、ちょっといいか」

 翔だった。まさか、話しかけられるとは思わなかった。僕は翔の促されるがままに、廊下に向かう。そこには亮平もいた。彼らは僕と対面し、なぜか、頭を下げた。


「すまない、郷二。あの日、負けてしまって。改めて謝罪したいんだ」

「キーパーである俺も失点してしまった。あの試合は俺が原因で負けた」

 なんだ、そういうことか。しかし、間違っていることが一つある。

「頭を上げてよ。あれは完全に僕のせいだ。うまくチームを導くことができなかった。試合にも、勝利にも。だから僕は翔も亮平も悪くなんかないよ」

 そう言っても二人は険しい顔をしている。いいや、僕だ。僕はあの日に……。

「そんなことねえよ。郷二。お前に非があるわけないだろ。だってあの時、郷二は……」


 病院で手術をしていたんだから。あの日、ホイッスルを聴くことができなかったんだから。


「だからだよ、僕は部長でありながらチームに顔を出すことさえできなかった。部長失格だよ。くだらない怪我のせいで、お前らの夏を奪ったんだ。ごめん。ごめん」


 二回戦前日にはもうすでに入院していた。チームメイトがお見舞いに来てくれたよ。当日は手術だったけれど、あいつらのおかげで僕は怖くなかった。手術が終わった後だった。僕たちのチームが惨敗したという知らせを聞いたのは。


「俺たちは約束を破った。悔いの残らないようにグラウンドを駆け抜けるというお前からの約束を俺たちは破ったんだ。悔いだけが残ったよ。郷二が何のために手術したのかを考えるとな」

「郷二がまた走れるように俺たちが頑張るべきなのに。勝つべきなのに!」

「俺たちは郷二の夏を奪った。本当にすまなかった」

 翔と亮平はこの夏に何を考えていたのだろうか。最後の夏に俺たちの時間はどれほど進んだのだろうか。確かに走りたかった。こいつらと一緒にグラウンドで戦いたかった。ただ、こいつらは悩んでいたんだ。


「そんなの、気にすんなーよっ。僕は別に一生サッカーができないわけではないしさ。相手も強かった。確か、そいつら準決勝まで行ったんだろ。仕方がないよ」

 運が悪かった。そう思うしかない。翔にも亮平にも悪いことをした。しかし、僕はいい友人を持った。

「そこで提案なんだが、俺たちのチームで紅白試合をしないか。お前と最後にまた試合したくてさ。一応メンバーは全員承諾済みなんだ。あとは郷二だけだ」

 言葉が詰まった。出てこない。言葉が一切出てこない。

「郷二が難関な大学を目指して勉強しているのは知っている。だから強制はしないよ。でも、できるだけ来てほしい。日時はメールで知らせるよ」

「じゃあまたな」

 二人は各教室に戻っていった。僕はその場で立ち尽くすことしかできなかった。


 家に帰ると、夕食にも目をくれずに勉強をした。何ページも手汗にまみれようとも。コーヒーの苦さは感じなかった。

 今は勉強だ。勉強しかない。そう言い聞かせないと今まで何とか保ってきた自分だけの空間に穴が開きそうになる。

 やめろよ、開いた空洞の闇をこれ以上広げないでくれ。やっとの思いで決別できたのに。あのソックスもウェアも燃やしたのに。ボールだって親戚の子に譲ったのに。

 これ以上広げるのはやめてくれよ。


 携帯メールの着信音が僕の手を止める。見ると、翔からだった。内容は……紅白試合の日時場所が記されていた。かわいらしい絵文字も使われている。僕はメールを見つめていた。

 僕は一階に降りて、両親と夕食をとる。静かな食卓に咀嚼音だけが響く。大会後からはいつもこうだ。だから今日はハンバーグを食べ終わると、あのさ、と口に出す。両親は僕のほうに顔を向ける。

「確か、まだサッカーのシューズは家に残っていたよね」

 父さんも母さんも口角が上がったような気がした。止まった時間が動き出した。


 当日、朝一番にグラウンドに来ていた。久しぶりに蹴るボールは硬かった。久しぶりに足をつけるグラウンドは広かった。

「郷二! さすがだな。お前はいつも一番にグラウンドに来ていた。久しぶりだ」

 翔だった。続いて亮平やほかのメンバーもちらちらと目に入る。皆僕を見て微笑んでいた。確信はないが、僕も微笑んでいた。

「当たり前だろ。部長だったんだから」


 各自アップを終え、各色のゼッケンを着てポジションについた。あと十秒で試合が始まる。翔と亮平は僕と同じ色だった。今日だけは将来のことなんか忘れよう。ホイッスルが鳴る。その時、風が僕をすり抜けていった。生ぬるくなんかない、爽やかで確かに暖かい風であった。




 すっかり夕暮れになってしまった。体力は激減したがまだまだ走れる。しかし、紅白試合は終わってしまった。もう想い残すことはない。後輩を鼓舞し、ほかの同期にはこれからの受験をともに頑張ろうと伝えてきた。あとは、翔と亮平だ。

「これで約束は果たされたな。翔、亮平。いつものところにでも行くか」

「いいねえ。久しぶりに行くなあ」

「今日ばかりは愚痴も吐けないよなあ」

 翔がそう言うと三人は笑い合った。ほかのメンバーたちはもう帰ってしまったが、僕たちはまだ学校の駐輪場にいた。そろそろいくかと三人は自転車を手押しする。

 学校を出ると、いつもの公園に向かう。この日の夕暮れはあまりに眩しかった。

「お、自動販売機はっけんー!」

「郷二、確かベンディングマシン、だっけ」

「そうだな。学力テストに出たね」

「二人何にするー? 俺はコーラだぜ」

「俺はソーダにするか。部活帰りには最高なんだよな」

 僕は小銭を入れる。コーヒーの隣にはあの時いつも飲んでいたソーダがあった。『つめたーい』の文字を改めてみると、ちょっと笑ってしまう。

「おーい郷二、お前何にすんだよ」


 急かされて僕はボタンを押す。飲み物をとると、僕らはまた自転車を手押しする。これから公園で何を話そうか。それを模索しながら道を進む。

 手に持った飲み物の缶を誤って振らないように慎重にね。

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