表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

たゆたいの館

作者: 山科晃一

過ぎてゆく時間をこの身で受け止めようと、私は静止する。一秒、0・五秒、はたまた、〇・二五秒ずつ。秒とは、一体、何を始点に、何を終点に。秒の輪郭とはどのようなものだろうか。と、古時計が刻む音よりも私のリズムを感じようとする。ブラックコーヒーを一口、食道から胃袋にかけて温かい。この一瞬、時はどうして前に進まなければならなのか、進まなければならないのではなく進んでいるのだ、ならば幻想で良い、時から解放された空間へ―ノートパソコンの画面を眺めていた私は、ハードディスクに写真データが全てコピーされた事を確認すると、畳んで、深く伸びをする。休日もやらなければならない事が多過ぎたが、これでようやく。というより時代錯誤に陥るようなこのアールデコ基調の空間ではなかなか、サラリーマン時代のような覇気が出なかったのも仕事が溜まってしまった要因かもしれない。定時がないせいでもあろう、タイムマネジメントもしていかなければと、大学受験を迎えた学生の夏休み勉強計画のような時間割表を、スマフォアプリで作成して常備しているぐらいだ。異人館を本拠地にと決めたのは、現在、私のアシスタントについている涼平の紹介だった。私が来る前まで入っていたコーヒーショップが閉店し、涼平の祖父でもあるオーナーが次の使用者を探しているとのことだった。コーヒ―ショップの前は、普通の家族が暮らしていて、さらにその前には震災で一度倒壊し、建て直しもあったという。技術会社で写真カメラマンとして六年、ブライダルを中心に経験を積み、我ながら給与以上の働きをしていると自己評価し、自分でも機材を取り揃えて独立の準備をしていた私にとっては、住居兼オフィスにできるという点においても、顧客確保においても都合の良い話に思えた。正直、涼平の知り合いということもあって家賃を大幅に下げてもらったことが大きいが。『異国情緒漂う空間で、時間を止めてみませんか?』をキャッチコピーに、晴れて開業。今月は、従来から私を慕ってくれていたブライダルのお客様や成人式のお客様も入り、足りない機材の仕入れ作業をしながら、それなりに忙しかった。ゴーン、と遠慮深い音で古時計が朝の十一時を知らせた。コーヒ―を飲んで数十分の仮眠をすると、寝起きの気怠さも感じなくて済むと、どこからの情報だったか、私は知っていて、裸足でぺたぺたと半円状の木製の螺旋階段を登っていき、エメラルドグリーンの格子窓から差し込む陽射しを肩に受けながら、寝室の扉を開いた。ツインベッドに腰掛け、読みかけの短編小説を開いた。時間は、消えて―


 女は美しい声で言う。

「私の遺影を撮ってください」

「君はまだ若い。それに今日は水曜日、休日だ」

「私の遺影を撮ってください」

「駄目だ」

 玄関扉を閉めると、私は言う。

「ご両親が悲しむぞ」

「両親はもういません」

 やはり、まだ立っている。彼女が去らないことを私はどこかで知っている。記憶、いや、身体の一部で。扉に濾過されこもった彼女の声は哀調を帯び、なお美しい。美しさとは、完成に至らぬ過程そのものに見出した温情のようなもの。彼女の声は掠れていた。つまり、彼女は欠けていた。

「仕方ない。立っていても寒いだろう。中へお入りなさい」

 扉を再度開いた時、女は僅かに微笑み、水色のドレスが揺れた。

リビングのソファに浅く腰掛けると、先ほどの勢いはどこへいったのか、「遺影を……お願いします」と力無く呟いた。

「どうして、遺影にこだわるんだ? 死にたいのか? 君は学生か?」

 女は視点が定まらないように、対面した私の膝辺りをキョロキョロしている。

「お金はいくらでもあります」

「お金はいくらもいらないよ。今日は休日だよ。だから、私は写真家ではない。今日はな。それでも、撮って欲しいというのなら、撮ってあげるよ。タダで。でも、君が、遺影と言う限り、私はここから立って、三脚とカメラ、レフ版を用意することに至らない。分かるかい? 君が遺影と言うことを責めているんじゃない。遺影を撮るのは簡単だ。だけれど、そのような綺麗なドレスを着た女性は、もっとこう、姿勢を崩して、優雅に天を眺めつつ、手の甲は頬に添える格好の方が、身の丈に合っていると思うんだ。写真家ではなく今日は素人の意見として、だがな。そして、僕は構図のことより、君のことを思うよ。どうしてそんなに若いのに、遺影なんて?」

「……わたしは……老いるということを認められないのです。いえ、老いから逃げたいということではありません。ただ、なるべく見られたくはない、のです。見たくもないのです」

「もう一度聞くが、死にたいのか? 君は学生か? いや、一つにしよう、君は学生か?」

「わたしはここにいます!」

 唐突にテーブルに両手を乗せて前のめりになった彼女の逞しい声に驚き、飲みかけたアールグレイが気管に入ってむせた。

「すいません……突然大きな声を出してしまい……小さい頃からそうなんです。パニック症でして、遊園地でジェットコースターに乗って一番高い所までいった時、祭りで金魚掬いの金魚がビニールプールの外に飛び出して口をパクパクさせていた時、防空壕で爆撃機の飛行音が聞こえた時、私はいつも―」

「爆撃機の音が聞こえる時なんて、誰でもそうなるだろう。それ、お口に合わなかったかい?」

 私は、彼女のアールグレイが入ったカップを見て言った。

「紅茶より、コーヒーの方が良かったかい? すまないね。私は、君を見ためで、あれやこれやと」

「いえ……、わたしは学生です」

「そうかい、それで良いよ」

 それ以上は、カメラが彼女を肯定するだろう。肯定してあげなければ、消えてしまうような揺らぎを私は彼女に感じていた。

 私はホワイトバックの前に彼女を案内した。椅子に腰かけた彼女は恥ずかしそうに視線を落としながらも、ドレスの皺を伸ばすように指を沿わせている。ドレスはカットアウトで、鎖骨に柔らかく張り付いた肌がライトの白い光を帯びて清淑な陰影をともにしている。三脚を彼女の正面に立てて、目高に合わせ、一眼レフカメラを載せる。

「綺麗なドレスだね」

「ありがとうございます。一度は着てみたくて」

「初めてかい?」

「ええ」

カメラには五十ミリの単焦点を装着し、画角を調整する為にファインダーを覗けば、そこには、擦り切れたモンペ姿の女が、焼け焦げた赤ん坊を抱いて座っていた。驚いた私は、ファインダーから離れて、今そこに腰掛けている彼女を目視したが、何ら先ほどと変わりなく照れくさそうにこちらをチラチラと伺うばかりだ。もう一度、ファインダーを覗けば、やはりモンペの女が俯いていて、胸部に空いた穴からは垂れた乳房が露出しており、くすんだ頬、散り散りになった髪、悲しみと憎しみの向こうまで透き通った目はただ一点、こちら、を見て、瞬きの度に生命が零れる。またファインダーから顔をずらすと変わらず、水色ドレスのお姫様がちょこんと座ってこちらを見ている。それを何度か繰り返したのち、私は立ち上がって、ホワイトバックを破るようにして、捨てると、背景にはアールデコ調の壮麗な壁紙、ステンドグラス、暖炉、鷹の剥製、パキラの鉢が姿を現す。

「カメラは本質を映す。現実を無残にも捉えてしまう。それがお望みでないだろう」

 照明を消すと、ステンドグラスから差し込んだ自然光がスポットライトのように彼女を捉える。私は、ほとんど本能的にそうした。

「君は遺影と言った。そこまで謙虚になる必要はない。君は今、撮られるべくして撮られる美しい女性。ここにせっかくきたんだから。分かるかい?」

 再びファインダーを覗くと、モンペの女が肩を震わせて俯いている。しかし、背景が、徐々に彼女の姿を奪っていく。焼け焦げた赤ん坊が光の蝶々となって飛び立ちステンドグラスに溶けていき、モンペは水色のドレスにじわじわと変化して、訪ねてきた彼女の姿と重なっていく。

「そうなりたかった。わたしの子は、戦争に行かせる為にも、殺される為にも産んだ子じゃありません。わたしはもっと食べられます。わたしはもっと働けます。わたしはもっと綺麗です。わたしはもっと」

 カメラは女を現在に記憶しようとする。未来永劫を集約する光を吸収し、焦点で激動の時代を交差させ、反転した女の像に当時の悲境をみとめる。決して、消えるものではない―生きたかった。だろう、生き抜いた魂を、讃える、この一枚で、と私は人差し指に滲む汗をシャッターボタンに滲ませた。女の微笑みを二度と失ってはいけない、と。私は、女が玄関の前に立っていた時から、全て納得していたように、業務を遂行した。といっても、金は貰わない。これは、私と彼女だけの、たゆたい―


 ゴーン……ゴーン―


 前にこの館で営業していたコーヒーショップが忘れていったのか、置いていったのか、キッチンの引き出しには大量の粉末ドリンクの袋が残っていた。コーヒー、紅茶、お茶が数種類ずつあって、せっかくなので、お客様にお出しする飲み物として使わせて頂こうとそのままにしている。透明なパッケージの隅にはよく見ると、どこかで見たことのある製造メーカーのイメージキャラクターのラクダのイラストが小さく描かれており、おそらく商品としてではなく、従業員の賄や、接待に使われていたものだろうと思われる。豆から仕入れています! というオリジナルブレンドが売りだったとは聞いていたのでそうだろう。私は、ダージリンの袋を取り出し、カップに移したところで、チャイムが鳴った。今日は休日だというのに。涼平の顔が一瞬顔に浮かんだが、それなら事前に連絡ぐらい入れて来るはずだ。私はキッチンの小窓から顔を出すようにして、玄関前を伺った。しかし誰もいない。

「何飲まれますか?」

 突然後ろから、二重になった女性の声が聞こえたので、私は急いで窓から顔を引っこ抜き、そのせいで窓枠に頭をぶつけて頭を抱えた。

「お客様、大丈夫ですか?」

 私は頭を抱えた腕の隙間から恐る恐る声の聞こえる方を見ると、全く同じ姿の十歳ぐらいの少女が手を繋いで並んでいた。チロリアン柄のエプロンに茶髪で毛先が肩に着地してくるんっとなっている青い目の双子が……微笑んで……。

 僕が小さな木製の艶のあるサイドテーブルに肘を乗せて、カラフルなテーブルランプに見惚れていると、双子がお盆の左右の端をそれぞれ持ちつつ、お盆のど真ん中に置いた特製ブレンドコーヒーを零さないよう、とはいえスピード感を緩めることなく、こちらに向かってきた。カップを掴む動作も完璧に一致しており、トンッと机に置く力加減も申し分ない。私の前にコーヒーの良い香りが漂った。

「もしよかったらこちらもお召し上がり下さい」

 と、小皿に乗った扇状のチーズケーキも置かれた。

「ありがとう」

「他にご注文はよろしかったですか?」

「ああ、大丈夫だ」

 と言うと、二人揃って、右側の子は左回りに、左の子は右回りに、身体を回転させてキッチンの方に向かおうとしたので、

「あ、ちょっと」

 と、思わず声が出た。聞きそびれたことがある。双子は同じ態勢のままUターンしてこっちを見た。

「素晴らしいパフォーマンスだね。ブラボー。ブラボー。一つ、聞きたいことがあるんだが、店内は撮影オーケーかい?」

「はい」と「いいえ」が同時に混ざって、聞き取りにくい言葉になった。初めての違いに、自分達でも驚いた、というように向き合う二人の少女達に僅かな違いが見えた。それは、彼女達がつくっている影だった。それはただ、立ち位置が異なるという物理的な違いとは別に、影が放つ色彩が違うのだ。右の子がマゼンタ、左の子がシアンといったところだろうか。影そのものが光を反射させているのだった。

「君たちの意見が違うのなら、理由もそれぞれだろう。だから、右の、そうだな、君たちから見て、左側の子、仮にマゼンタと言って良いかね? マゼンタからその理由を終えてくれないか? 同時に話しても聞きとれんからな。君は、どっちだったかな?」

「『はい』と言いました。ルカと呼んでください」

「アンナと呼んでください」

 と、シアンも続いた。

「分かった。じゃあルカ、君が『はい』と言った理由を教えてくれるかね」

「かしこまりました。あれはポカポカ陽気の朝でした。目が覚めると窓からヤギのウィリーが窓越しに私の方を見ていたのです。不安そうな目というのは、長年一緒に暮らしていると分かります。オオカミがでたのかと私は直観的に、感じました。私は鋤を持って急いで外に飛び出たのです。すると、そこには何と一匹の痩せ細った赤ちゃんがウィリーの元に倒れていたのです。私は鋤を捨てて、暖かい布で包んで小屋に戻り、牧草を溶かしたミルクを与えました。お母さんがどこかに行ってしまい、ウィリーは雄でミルクを与えてやれずにいたのでしょう。私が数日後ウィリーの元に元気になった子供を返すと、ウィリーは喜んで私の肩に飛び乗ってきました」

「……」

「……」

「終わりかい?」

「はい」

「だから君は『はい』と言ったのかい?」

「はい」

「そうか、じゃあ次は……シア」

「アンナ」

「そうだった。アンナ、君の理由を教えてくれるかい」

「かしこまりました。あれはポカポカ陽気の朝でした。目が覚めると窓からヤギのウィリーが窓越しに私の方を見ていたのです。不安そうな目というのは、長年一緒に暮らしていると分かります。オオカミがでたのかと私は直観的に、感じました。私は鎌を持って急いで外に飛び出たのです。すると、そこには何と一匹の痩せ細った赤ちゃんがウィリーの元に倒れていたのです。私は鎌を捨てて、暖かい布で包んで小屋に戻り、牧草を溶かしたミルクを与えました。お母さんがどこかに行ってしまい、ウィリーは雄でミルクを与えてやれずにいたのでしょう。私が数日後ウィリーの元に元気になった子供を返すと、ウィリーは喜んで私の肩に飛び乗ってきました」

「……」

「……」

「あれ、いや、うん? 君たちは同じ話をしたのかい?」

「いいえ」

 と、二人は同時に首を振った。

「今の話で何か違ったかい?」

 と聞くと、

「はい、全く違います。よくよく思い返してみてください」

 とまた揃って言われた。ルカ、アンナ、ルカ、アンナと私は頭の中で繰り返した。先ほどの話よりも、名前の違いの方が明確だった。

「どちらにしても、君たちの話はお話でしかなくて、撮影をして良いかどうかの理由になってない。私は写真家だ。この瞬間も、君たちの曲線美、笑顔、しめやかな佇まい、色の違う影を撮りたくて仕方ないんだ。えーっと、シアン」

「アンナ」

「アンナ、どうして許可してくれないのだね? と聞くとまた長いお話が始まりそうだから、そうだね、じゃあこうしよう、撮った写真がお気に召さないようだったらその場で消去するよ」

 そう説得すると、双子は後ろを向いてコショコショと二人で話を始めて、ピタッと声が止むと振り返って、突然、キャーッとようやく少女らしい叫び声をあげながら別方向に走り出した。ルカは二階へ、アンナは一階のリビングの方へ。

「おい、どこいくんだ。お客さんごっこはもう終わりか。ったく子供は」

と、私はカメラを構えて、まずアンナを追いかけた。

 シュタシュタシュタシュタッ。フフフッ。

暖炉の上に飛び乗ったアンナは、テーブルを次から次へ跨いで、中々フレームの中におさめることができない。おまけに、シャンデリアにぶら下げって、私の方に舌を出して揶揄われる始末。悔しくなって、私はレンズを望遠から単焦点の十ミリに付け替え、広角にして、待ち伏せするように気配を消してカメラを構え、シャッターボタンに指をかけた。油断したアンナがカーテンの後ろからからヒョコッと顔を出した瞬間、私は指に力を入れて、何とか画角の左端にアンナを入れることに成功した。ファインダーから顔を外すとヒョコッと顔を出したままのアンナがその状態のまま瞬き一つせず、まるで写真に撮られたように固まっていて、徐々に透明になっていく。最後にはシアンの影だけを残してこちらにやってきて「シュパース」と耳元で聞こえたかと思うと影も消えた。私は撮れた写真を確認したが、そこにはアンナの姿はなく、館内の風景だけが映っていた。私は「また遊びにおいで」と言っていた。

続いて私は二階に上がり、寝室からトイレ、洗面所とルカを探したがどこに彼女はいない。直観的にかくれんぼだとは分かっていた。私は「どこだあ」言いながら、ファインダーを覗きつつ、ベッドの裏や便器の中、シャワーの排水溝の中まで見回った。それでも見つけられず途方に暮れていると、「あと三十秒で私の勝ち」と館内にまんべんなくルカの声が響いた。二階ではないのかもしれない、こうなったら、最後の作戦、と慌てて螺旋階段を踏み外し、中段で仰向けに転んでウゲエーッつと唸るフリをしたら、クスクスクスクスと天井の方にルカの笑い声が聞こえてきた。私はファインダー越しに天井を見ると、ルカがエプロンを柱の突起にかけてぶら下がっているのが見えた。ばれた、というような表情をするアンナにピントを合わせてシャッターを切ると、そのままのアンナの時と同じようにルカは固まった。そのまま徐々に透明になっていくルカに「おパンツが見えてるよ」と言うと、透明になるスピードが早くなりマゼンタの影さえも残さずさっさと消えてしまい、耳元で「ぺルヴェルス」と聞こえた。双子でも違う人間なのだと、私は訪れた静寂のうちに学習した。


 ゴーン……十一時。十二時?


 雨が打ち付ける音に起こされた。寝室を出ると、螺旋階段の近くにある格子窓が風のせいで半開きになって、隙間から無防備に雨を迎え入れていた。私は寝室に戻って数枚の雑巾を箪笥から引っ張り出して、窓の方に再度向かった。窓を閉め、床にできた水溜まりに雑巾を浸すと、みるみるうちに雑巾が水を吸って平べったくなった。窓からは荒れ狂った海が見渡せて、防波堤に打ち付けた波が白く散っている。空は厚い雲に覆われていて、灯台は昼にも関わらず細長い光を発していた。休みで良かった。荒れ狂う外の景色に、内側の安寧を見出していた私は灯台の下に塊、を発見する。それは、ヒト型、の。海兵、だ。上下迷彩の軍服姿でうつ伏せに倒れている。波は灯台の建つコンクリートまで呑み込む勢いで、雨よりも波の粒の方が海兵の背中に打ち付けている。最悪の場合波に攫われることも考えられる。私は、急いで螺旋階段を降り、玄関の傘立てから傘を抜き出して港の方に向かった。彼を助けない選択をまるで知らないように。

 意識の無い海兵を背負って館に戻る途中、私は生きていない、と感じた。それは、生きていたものが死んだことによって、生きていない状態になった、という事とは別の体感で、物体、肉体そのものは温かく柔らかいが、まるで海岸に落ちていた缶やペットボトルを運んでいるように、生命力を感じない。無機質。そのことに関しては、特段、私が救済の意志を持ってしまったことによる後悔には繋がらなかった。私の収集癖といったところか、珍しいものを見つけた。ワクワクとした気持ちさえあった。それは販売中止になったフィルムカメラや、もしくは新しいフィルターを手に入れた時のような体験に近かった。暖炉の近くにバスタオルを敷き、海兵を仰向けに寝かせた。私は「大丈夫ですか?」という無意味な言葉をかけながら海兵が乾くことを無意味に待った。軍服の迷彩に迷わず、その彩を目で追っていたところ、胸の辺りに迷彩の濃緑で象られた鷲のマークを発見した。鷲は地球の上に羽根を広げていて、地球には碇が刺さっている。そして、マークの下には『USMC』の文字が刺繍してある。アメリカ海兵隊。生きていない、アメリカ海兵隊。私に迷いは無かった。ジャケットを開き、ロングシャツを捲りあげ、左胸の辺りを心臓マッサージするように、押し込むと、左胸がカパッと開き、リアルな心臓が飛び出した。リアルな心臓を手にとって、割れ目の部分に爪を引っ掛けると、文字通りグチャッという音がして、アンリアルな小さい電池が右心房と左心房に一本ずつささっていた。アンリアルな小さい電池を外して、見てみると、『NNNNNNNN―SP』と印字されている。単十九形。それはアメリカ海兵隊がAI化した当初に開発した乾電池であった。捕えられた海兵が、敵国に寝返らない為に独自の研究と技術によってのみ製造されたもので、決して国外に流通してはならないものだ。勿論、私は替えの電池など持っていない。海兵というからには水には強い構造にはなっているはずで、本体の故障というより、電池切れだと思われる。私は電池を手にとって、復旧を考えた。しかし、その必要は無かった。電池には作動メーターが埋め込まれていて、168hとなっていた。つまり、一週間の命だったわけで、それは電池の端のつまみを回せば好きなように変えられた。999hとして、再び心臓に挿入して蓋をすると、海兵はゆっくり青い目を開いて見せた。私は一瞬しまった、と思ったが、彼が英語で「ありがとう」と言った時、その危機感は消えていった。心臓を一度開いてしまえば、戦闘意欲は失われる。そうでなければ、敵にも簡単に利用されてしまうではないか、と私は、戦略の一端を担う武器としての彼を理解しようとした。彼はゆっくりと身体を起こすと、まるで人間のようなくしゃみをした。私は、温かいコーヒーを入れるので待っていてくださいと英語で言った。ホットコーヒーを飲む気がした。彼なら。

 ホットコーヒーは飲まなかった。リビングのソファにどっしりと腰を掛ける姿は士官のような威厳を漂わせていた。英語で話しているが、英語で話しているという意識を私失っていた。言語を意味が貫通するように、何語であれとも彼とは疎通可能であるという自信すら湧いた。私はそれを翻訳の進歩と仮定した。

「私を蘇らせた貴君には感謝しよう。命の恩人。私の命は貴君と同じように限られている。貴君はどうして私を生き返らせたか、それは私を利用しよういう悪意からか? それとも、本当に救ってくれようとした善意からか? 私にとってそれはどちらでも良い。悲しく、嬉しくあるだけの無機質な機械だからだ。感情の機械化をされた私に貴君が哀れみの目を向けるとしたら、私はその感情に期待したい。それとも無駄な時間を避けたいのであれば、このまま私の心臓を抜き取って破棄する事をお勧めする。なぜなら、私の戦意は既に失われている。君の国には貢献できない。自国の人間を抹殺できない。それでもこの個体のつまらぬ話、作動音といってもいい、そんなものを聞くという選択を貴君がするのならば、私の期待は裏切られないことになる。私は少なからず喜びを作動させるだろう」

「あなたはどこの国に派遣された海兵だ?」

 質問に答えるシステムはどうやら取り入れられていないようだ。彼は、私の声には反応せず、センテンスの語尾に声を重ねるようにして語り始めた。

「ありがとう。サンクス。私は海を渡ってきた。水に浮かばない海進戦車というものに乗って海底を進んできたのだ。君たち敵国の海軍に撃墜されない為に水深三千メートルの底を、だ。光の届かない本当の暗闇を貴君は知っているか? 前進していることすら疑いたくなる、永続的な闇をイエッサーという掛け声で切り開いていくのだ。切り開いているのかどうかも定かではない。確実なのは車内の灯と土を這う振動、それからモニターの地図、司令官の声、我々のイエッサーだ。私はそれらに平静を保とうとする。我々は前進しているのだ。『そこを右に曲がれ』『イエッサー』『そこから少し下れ』『イエッサー』『十五分三十秒の休憩と一リットルの水をとれ』『イエッサー』水深三千八百メートル以上は車体が水圧に耐えられない。全てを押しつぶされる恐怖を貴君は知っているか? 私はここまでに述べた感情を全て知らない。なぜならば、機械だからだ。或いは、知っているとも言える。それは情報としての感情を、だ。統計的に人間がおおよそこのような状況に陥った時に発生させる感情の類を正確なシステムによって作動させている。『そこを登れ。敵の領海に入る』『イエッサー』実は私にはそのような、平生を保つ為の車内の灯も、土を這う振動も、モニターの地図も、司令官の命令も、『イエッサー』という返事も必要が無い。私は私で完璧であり、完結しているからだ。貴君の国の領海に入ると、私はすぐさま貴君の国の経済の中核を支える感知出来得る限りの水産資源を瞬く間に破壊していく。サンゴ、甲殻類、魚、海藻、魚の住処となるような岩、透明度のある海水、鯨、砂、を、だ。破壊、だ。貴君の国がもし戦争に勝つことがあったとしても、戦争に投資した金額以上の損失を回収できないほどに、粉々に、だ。貴君達に我々を止めることなどはできない。我々に追い付く技術を持っていない。その海底に敵はいない。打ち込まれてくるミサイルの位置も全て私達には予測済みだ。貴君の国は負けるだろうが、他の国と戦争をした時以上のさらなる損害を被るだろう。それでも我々と戦争を続けるか? 貴君の国には私のようなAI化された無敵の海兵もいない。例え、海底三千メートルを進む車を開発できたとしても、光の届かない本当の暗闇を、水圧を、本当に恐怖の中で過ごさなければならない生身の人間が、ただその中に溺れ、潰され、死んでいく事に他ならない。それもまた大きな損失とは思わないかね? 我々は、市場の独占に成功している。素直に降伏することを貴君の、また貴君の国の為に、我々は提案したい。貴君は悪い人間ではない。倒れている人間、いや、ヒト型の物体を起こして、何らかの復旧を試みた貴君は、おおよそ我々の国の技術を盗み取ろうという小汚い魂胆があったとしても、そこには国を背負った軍人としての貴君では無く、生身の人間としての貴君の良心というものが少なからずあったはずだ。ここからは我々、ではなく、君に助けられた私、として話すが、戦争は人間の欲望だ。だから貴君は私を思う存分粉々に壊すと良い。私は貴君のことを恨まないという約束をシステムとしてやってのける。その代り、貴君の国にそれ以上の自滅をさせないように平和を説くのだ。降伏を受け入れよと我々は言うが、私は、そもそもそんな人間の欲望に駆られる自己という存在に、人間はもう飽き飽きしているのではないかと思う。もうやめよう。やめたいのだ。私は職業作家だ。敵国に降伏させる為の台詞を今、この瞬間書かされている。AIに創作は不可能だったのだ。つまり、私はAIシステム管理者と手を組んで個体に、このような声明を言わせるようにした。バレたら終身刑だ。死刑かもしれない。法律はいつの時代も本質を欠く。貴君、どうか我々と結託してこの戦争を止めてくれないか? 何も難しいことではない。貴君の国を滅ぼしたくないのならなおさらだ。家族はいるか? 恋人は? 友人は? 貴君の国で君が君の意志を剥奪されるのであれば、我々が受け入れる。これは内部解体だ。第三機関の構築だ。中立の意志、ではない。我々は平和の革命家として潜むのだ。美しい海をこれ以上壊したくない。海は誰の所有物でもないのだ。あるべき命の循環を取り戻すのだ。私は美しく死んでいきたいのだ。貴君もどうか、貴君を貴君として愛すべく、光を私と取り戻してくれないか。私にはGPSが付いているが、この話を開始したと同時に作動停止するようにしてもらった。私の口から連絡先が出る。そこに一報くれると嬉しい。全てを明らかにして、私を破門させることも貴君にはできる。それでも貴君に全てを託そう。私は戦争を止める為ならこの身がどうなっても構わない。作家としての私の、だ」

 ウイーンと音を立てて、海兵の口から水が染みてグチャグチャになった紙が、細切れになって断続的に床に落ちた。全てを吐き出した海兵は全身の筋肉を喪失したかのようにソファにうな垂れた。私は紙を拾い集めてみたが、一枚に『19』という数字を確認できた程度で、他のどれとどれを繋ぎ合わせば良いのかの検討も全くつかないほど腐敗も進んでいて、海兵が口にした連絡先というものはこれっぽっちも浮かび上がらなかった。何せ、二百年の時を経た紙だ、と私は二百年の時を思った。それが二百年前なのか、二百年後、なのか、時間の方向という概念を知らないように私は考えるに至らない。ただ、彼が、この物体が、経験した戦争はずっと遠くで未だに、弾を失っても空砲を撃ち続けているような、収束の見込めない恨みや憎しみを湛えているように思えた。私は写真家として、彼を、この物体を撮らないという選択をした。私にとって撮るという行為は、未だ掴めぬ存在、景色を、私の中で記憶させ、時間とともに噛み砕いていく為のもので、彼は、この物体は、撮られるには語り過ぎた。つまり、そこに私のジャーナリスティックな意志を喚起されてしまったわけだ。それは私の仕事ではない。今日は休日で仕事というわけでもないが、彼を、この物体を撮るには、彼が語った分だけに対する私の内側の反響を、私自身が聞く時間を獲得する必要がある。私は、事切れた海兵をおぶって、その日、が来るまで、時代を内包する意志を持ったような分厚いクローゼットの中に収納しておくことにした。

 便器の上に座って、思考そのものについて思考を巡らせていると(思考はするものなのか、されるものなのか、こちら側から向かう場合と、向こう側からやってくる場合がある、など)、ポケットの中のスマートフォンが振動した。アプリの予定表が『涼平・面談』と知らせている。仲が良いとはいえ、ビジネスパートナーとしての後輩の意見にしっかり耳を傾けるというのが私の仕事を行う上でのポリシーでもある。一月に一度はPCによるビデオ通話による面談を行っていた。私は、ソファに腰掛けPCを立ち上げ海兵が手に付けなかった冷たくなったコーヒーを一口飲んだが、美味しくない。もしこれが元々アイスであったとするならば、そうでもなかったかもしれない。温かかったものが冷たくなることには、一種の劣化を感じる。しかし、飲めるコーヒーをそのまま流してしまう方が人間としての劣化に至る気がして、捨てる決心も直ぐにはつかなかった。ならば、もう一度温めれば良い。温かかった時間に戻すのだ。冷たくなることを知らない時間に。私はキッチンに行き、薬缶にコーヒーを入れて火をつけた。古時計が十時十五分を指している。時間は確実に経過している。面談が終われば、小説でも読んでから少し仮眠をとるか。そういえば、コーヒーを摂取してからの仮眠は心地よい目覚めにつながるらしいと、私の細胞の一部となった情報が「眠ろう」と思う私に応じて、機能した。見覚えのある感覚だ。デジャビュ―とも言うらしい、あの。

 『涼平着信』私は電話をとるマークをクリックすると、モニター画面が開き黒い猫を抱いた涼平の上半身が映し出された。

「お疲れ様です。すいません、今日はこの子と一緒に。猫も誰かと疎通したい時があるようですね。それが先輩とは限りませんが、疎通のタイミングが僕と丁度重なったみたいです。ほら、ペットも飼い主に似るっていうじゃないですか。ただ、猫は疎通の領域に身を置きたかったみたいですから。お気になさらず。どうですか? お調子は」

「おかげさまで今月も助かったよ。君がいなければここまでやってことができなかった。君の発注してくれたレンズが調子良くってね。被写界深度が浅い上に、あの明るさが加われば怖いもの無しだよ。ありがとう」

「いえ、僕の意志でやったことですから。僕は立場上、先輩のアシスタントですが、僕は僕がメインだと思ってやっています。カメラで何かを映すことも、機材の発注の為にキーボードを叩くことも、等価ですから。先輩は大学時代から、僕の事を川釣りや山登りに連れて行ってくれましたが、僕は僕が川釣りや山登りに行っているという意志を忘れませんでした。そうでなければ、僕と先輩は危険な領域でシンクロしてしまう。僕にも先輩にも与えられた時間は、空間を共にしても、過ごし方、過ごされ方は変わらなければならないのです。だから、僕は進んで運転しましたし、事前に釣れそうな川、健康そうな山、晴れそうな日程を主体的に調べました。僕と先輩の時間の均衡はそうして保たれたのです。保たれているのです。ですので、お礼はいりません。先輩がお礼によって埋め合わせようとした隙間は既に埋められています。先輩が僕の話を聞こうとする意志によって。長くなりました。何も固い話をしたい訳ではありません。猫がいますから。猫は緩衝です。もう少し砕けて話しても緩衝動物がいますから。にしても、僕がお調子はと聞いたのは、先輩が少しお疲れになっているように見えたからです。気のせいでしょうか」

「実際に疲れてはいるようだ。面談が終われば少し仮眠をとる予定だよ。最近変な夢ばっかり見てしまって」

「夢ですか」

「ああ。そうだ。戦時中の女性が遺影を撮って欲しいと水色のドレスを着て訪ねてきたり、双子のスイス人の姉妹がコーヒーショップをここで経営していたり、海兵隊が」

 とまで言いかけて、「あ、ちょっと待ってくれ」と、キッチンの方へ行ったがコンロの火は消えていて、その上に置いてある薬缶の蓋をとってみても中身は空っぽだった。戻ってソファに座った僕に向かって猫がにゃんにゃと鳴いて向こう側の画面を触っていた。

「疲労からくるものもあると思います。寝る前にコーヒーを飲むとすっきりするらしいですので、是非試してみて下さい。疲労からくるものも、と申しましたのは、それ以外のものもあるかもしれないということですが、僕にはまだそれがよく分かりません。よく分かりませんと言ってようやく言い表すことができるようなものです。ですが、先ほど僕が申し上げたように、危険なシンクロというのには是非とも気を付けてください。僕と先輩の関係においてのご心配は無用です。何故なら、僕だけが気を付けていれば良いからです。先輩は普段通り、僕に指示を出して、僕を動かそうとして大丈夫です。発信源が先輩であるからです。しかし、それが僕以外の場合、先輩と僕以外の関係の場合においては、よくよく注意して欲しいのです。発信源が先輩ではない場合、その発信されたものに対して、発信し返すということです。それが夢であれともです。夢は見てしまうもの。向こうからやってくるものですからこそ、その夢に対して、先輩が譲渡しすぎないようにすることです。対策としては、僕がさっき申し上げたように寝る前にコーヒーを一杯の飲む事、もしくは、夢に出てきた存在の言う事を聞かないということです」

「そうしたくとも、夢の中で私は私自信を認識することができないのだ。それに、その夢をいつ見たかということもはっきりと覚えていないぐらいだ。昨日なのか、一昨日なのか、一週間前なのか、十年前なのか。はたまたこれから見る夢なのか、とは冗談で、もしくは妄想で見てすらいないのかもしれない。十年前ということはおそらくないだろう。なぜなら、夢にはこの館が舞台となっている。そして、何者かが訪れる度に私はその存在を被写体として認識しようとする。つまり、私はこの館を知っていて、彼らとの間にはいつもカメラがあるということだ」

「それなら良かったです。カメラは虚構と現実を媒介する中間物ですからね」

 にゃんにゃん、と向こう側の画面をまた猫が引っ搔いている。

「中間物」

「夢という虚構と夢を見ている先輩という現実を媒介する物ってことです」

「しかし、カメラ自体虚構では?」

「先輩の夢に出てくるカメラ、そして館は先輩の知っている現実の延長線上にある物体です。それはあくまでも物体なのです。ですから、それをうまく使って向こうからやってくる存在とのバランスをとって、危険なシンクロを回避していけば良いのだと思われます。とにかく、夢ともし分かったのならば、目の前の存在の言う事に注意することですね」

 にゃおにゃん。猫の声が先ほどよりも大きく聴こえた。混じりけのない透き通った鳴き声で。こちら側で。私の隣に。伏している。

「猫ちゃん。戻っておいで」

「良いよ。しばらくこっちで預かろう。このまま看板猫に、なんて出世もあるかもな」

 と私は猫を持ち上ると、猫は両足をピンとして、にゃ、と言った。

「ありがとうございます。この後、彼女と出掛けますので。明日までそちらで冒険さて頂ければ幸いです」

「分かった。なんだか私の相談を聞いてもらって申し訳なかったね」

「いえ。そうでないと、均衡は保たれませんから。僕が語り過ぎてしまった分、猫がそっちにお邪魔したのだと思いますが」

「そうかい」

「それではまた、明日から頑張りましょう」

 『接続が切れました』とPC画面に表示されると否や、玄関チャイムが鳴った。玄関の方に真っ先に向かっていた猫を追いながら、猫を抱え玄関扉を開く。そこに立っていたのは、ワタシ、だった。猫を抱えながら私はどうぞと言ってワタシ、を迎え入れた。ソファに座って向き合うワタシ、は私に「今、君は夢を見ている」と言った。私は、ワタシ、に「そうですか、それではあなたの言う事は聞かないようにしましょうか。私にはカメラがあります。猫も。ですので何も怖くはありません。たとえ、あなたと危険な領域でシンクロすることがあったとしても」と言った。「ワタシはあなたにとって恐がるべき存在ですか?」「そうであってもなくても、その言葉自体に私は警戒しています」「安心してくださいよ。第一危険なシンクロがどうして危険なのかすら分かってないでしょう。あなたは、何も分かっていない。これが夢だということも。あなが既に死んでいるということも」「そんな陳腐なことありますか!」と私は声を荒げた。

「そんな陳腐な結末ありますか……そんな小説……誰が読みたいですか」

 と言って、小説? と私は自問した。もしや、私はベッドで今、小説を読んでいるだけではないのか?

「これが夢でも、死後の世界でも、小説の世界でも、あなたはあなたとして見られて、過ごされて、書かれてしまっているんです。せっかく、ワタシがこうして教えてやっているのに耳を傾けようとしないことは勿体無いことですよ。あなたはカメラで撮っているのではなく、カメラに撮られ続けているのですから。写真家としての能動的な情熱は忘れちゃいけませんよ」

「うるさい!」

 私はワタシ、に向かって吠えるとワタシ、は微笑を浮かべてながらゆっくりと消えた。猫がにゃ、きゃ、と言った。

「幻惑の私を夢見ている存在が、亡霊の私を生かしている存在が、主人公の私を書いている存在が、もし本当に存在しているとするのなら、私は君に断言する。君は私に撮られている。私の構図を担う一物体。被写体なのだ。君は私に見つめ返されている。それに気が付いていないのは君の方ではないか? 君が私を知っている事を私は知っている。今、君が何を悲しみ、何を憂い、何を憎しみ、何を望むか、私には全てお見通しだ。君は今日、いや、明日、昨日かもしれない、そう、いつ時か一匹の猫に出逢うだろう。今、私の足元で寝そべっている猫の格好をした猫。それが私だ。君は私に、『たゆたい』と語り掛け、まばたきをゆっくり三回すると良い。その時に放った仕草が私の存在であり、私は君にイメージを伝える。そこに草原の丘に建つ洋館が現れるだろう。その扉を叩くと良い。水曜日は休みだから気を付けて欲しい。しかし君の為なら私はいつでも待っている。君を美しく撮れるのは私しかいないのだから。君は美しい人間なのだから」

 ゴーンと十一時を知らせる音が響き渡る。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ