絶体絶命
時間をかけゆっくりと渡って、ようやく吊り橋の中程まで来れたが、どれくらい経ったのだろうか、それさえもわからない。まだ陽は真上に昇ってはいない。その瞬間、足場の板に積もる雪に足を滑らせ反射的に強く綱を手繰り寄せた。
「ーーーーッ!」
手のひらに激痛が走った。
吹き晒されている綱はごわごわとしてささくれだっており、握っている綱が赤く滲む。
ジュクジュクと痛む手のひらは確認する事すら出来ない、なんせ離したらおしまいなのだから。一歩進める毎に、綱のささくれが手の傷に当たり、更に傷を増やしていくのがわかった。先程よりも時間をかけてゆっくりと進む。綱は血で滲み、ずりずりと一歩一歩引き摺れながら染まっていった。
なんとか最後の足場を渡りおえ、谷の向こう側へと辿り着く。綱から手を剥がして開き見れば、手のひらには真一文字に傷ができ、傷からは血が溢れた。綱のささくれが手のひらの至る所に刺さり、傷口からは行き場を失った血がぼたり、と腕に伝う。
痛い..。
それでも、進むしかない。貴重な水分ではあるが、水筒の水を手にかけておく。多量は使えないが、応急処置として初期にどれだけ綺麗に水で流せているかが重要になるからだ。後は雪をかき集め手のひらに伸ばしてゆっくり払う。
まだ血は滲んでいるが綱のささくれと血で混じり合った汚れは大分綺麗になった。
谷から向こう側は魔物はいないと聞かされているが、血の匂いで寄ってくる可能性も考え、なるべく足早に進む事にする。
吊り橋を渡り終えた事に安堵したのか、それとも冷え切った故か、足の感覚が無くなってきていたが、もう進むしかないのだ。
唯一良かった事は、こうして雪の上を歩くのは嫌いではなかった。空はどこまでも続き、広い世界をこうして歩く事が新鮮だった。
前世の雪は冷たくなかった。指で触れればとても乾いていて、指の腹が滑り行くだけ。それも本の挿絵なのだから致し方ないが。これが雪なのだ。手のひらの痛みや寒さを押し除けるように、そんなことを思いながら、頭に叩き込んだ地図を思い出す。
子どもの歩みで半日掛かるその場所は、領土内でも高い標高に位置する神殿であった。
王都にも神殿はあるが、その他で唯一建てられた神殿が、此処ダルガニア領にあるのだ。
そこに住うのが、5歳になったダルガニア家の末裔達を泣かせたり、硬直させたり、顔面蒼白にさせる大父様である。他にもダルガニア家に嫁を迎えれば、嫁もひとりで挨拶に行かせるらしい。現に母もこちらに嫁いで来たその日に挨拶に行き、顔を青くして帰ってきたらしいが、本人曰く言いたい事は言って帰ってきたらしいから流石である。
母はこの家に嫁ぐだけあり、肝が座っていたようだ。
大父様の外見について屋敷では箝口令が敷かれ、その容貌も、目の色も髪の色さえ話す事は禁じられている時点で、いろいろお察しだった。
痛みと寒さでかじかむ手に必死に呼気を吹きかけ温める。もうそろそろのはずだが、一向に神殿が見える気配が無い。道は間違えていないはずだったが..、そこまで思案していると空からこの白銀の地を揺るがすような咆哮が轟いた。
ーーーーーーッ!!!
あまりの大きな咆哮に目を閉じ、耳を塞いだ。暫くして何も音が聞こえなくなったが、嫌な予感しかない。山岳地帯、雪、地を轟かす咆哮。最近の気温や天気はどうだったか、今いる場所の傾斜、雪の状態は...、駄目だ、全部当て嵌まる。これは逃げるしかない。とにかく辺りを見渡すと、横に下った数十メートル先にひときわ大きな木を見つけ、渾身の限り走った。
ポシェットからロープを取り出して、急いで身体と木に巻き付け縛る。その刹那、遠くの方からゴゴゴ..と低い地鳴りの音が聞こえ始めた。
それは次第に大きな地響きとなり、目視で確認できる距離まで襲ってきた。ある一定の条件下に置いて発生するのは..
ーー雪崩だ。
先ほど立っていた場所がみるみる内に巻き込まれ、こちらにも襲い掛かろうとしていた。息をめいいっぱいに吸い込み、歯を食いしばると、その瞬間強い衝撃が身体を襲った。
全身を覆いつくし、雪原を押し流す雪崩の勢いを感じながら、その勢いが収まるのを待つ。流れが止まれば、少しでも空気を確保するために目の前に空間を作るのだ。
慌てず、おちついて迅速に、ある程度空間を作り終えたら、木と身体の隙間に入れておいたポシェットからナイフを取り出す。十五分がリミットだ。子どもの身体はもっと短いかもしれない。とにかく今出来ることを全力でしなければならない。
ロープを切り、頭上の雪を少しでも掻き出すが、吊り橋の綱で傷付けた手のひらの血によって、じわじわと雪が赤く染まっていく。
それは一瞬だった。
何かに頭上の雪ごと掴まれ、雪の中から引っこ抜かれたのだ。
「ーーッぷは!!!」
ゼイゼイと呼吸を荒げながらも、そろり、と目を開いてみる。
ーーそこには、驚く程大きな竜がいた。
あまりの大きさにか、それともその美しさにか、突拍子もないその登場になのか。
せっかく地上に出て、酸素をこれでもかと取り込める機会であるのに、息をするのも忘れそうになる程、ただ目を丸くしてその姿を凝視する。竜もこちらをじっとりと見つめ、どこか不機嫌さを醸し出しているような気がしてならないが、どうしてか敵意は感じなかった。
「..たすけて、くださって..、ありがとうございます。」
多分助けられたんだと思う。
領内の魔物は見た事があっても、さすがに竜はいなかったので、その生態や習性は分からないが。
その言葉に一層不機嫌になったらしく、グルグルと喉を鳴らした竜。だが、その顰めっ面ですら綺麗だと思ってしまう。
思わず手を伸ばしてしまったが、体温で溶けた雪解け水と、血でぐしゃぐしゃな手のひらに気付き引っ込めた。
竜は機嫌がすこぶる悪いらしい。私の手を睨み付けているのだから。恐ろしいまでに美しいその牙を剥き出しにして、大きな口を開けた竜。今世もここまでか、と思ったその時だった。竜は長い舌を出すと私の手をべろり、と舐めたのだ。竜の唾液で手のひらがチリチリと刺すように痛んだが、すぐに無くなる。手のひらを開いてみれば、竜の唾液が傷を覆う様に白く泡立ち、血と混じり合うと傷の痛みが掻き消える。手を握り、開いてみても痛くはない。手のひらにあった泡は役目を終えたとばかりに消えると、まるで怪我なんて無かったように綺麗さっぱり元通りになっていた。これには大変驚いた。
「あ、ありがとう。」
「血ノ匂イヲ纏ッテ来タノガ、許セナカッタ。
咆哮シタノハ怒リ故。雪崩ハ故意デハナイ。」
喋った..。驚きの上に更に驚いたが、なんとなく竜の言いたいことが分かった。
「おあいこ、ですね。」
その言葉に今度は竜の目が丸く、きょとんとした。一瞬だけ何処か懐かしむような眼差しを向けてきたが、すぐに消え、ジロリと睨まれた。
「オアイコ、デハナイ!
此処ハ不浄ノ地ダ!!血ナド流シオッテ..!!」
イライラしたように、竜の尾が雪原をべしべし叩いている。叩くたびに雪が舞い上がっているが...、その様子を見て、何処か心の奥がじわじわと湧き上がる様な、なんとも言えない変な感覚に襲われた。
......。
「罰トシテ、御主ヲ食ベテヤロウカ。」
そう言ってニヤリと笑い、その鋭利で美しい牙を見せ付けてきた。
ーーああ、駄目だ。
「ソノ幼子ノ、柔ラカナ肌ヲ引キ裂ケバ、御主ハドンナ声ヲアゲテ泣クノカノ。..ックック!」
ーーもう駄目だ。抑えられない。
「サア、泣イテ命乞イデモスルカ?」
至極楽しそうに悪い笑みを携え、獰猛な眼光を鈍く光らせながら私を見る竜。
だが、正直それどころでは無かった。
「......ッッ!!」
「ックック!怖イカ?怖クテ声モ出ヌカ?
ックックック、..サア、乞エ。」
「ーーーーーーッ!!」
「かわいいぃいぃいーーーーーーーっ!!」
私の絶叫がこだまし、遠くの森でカラスが鳴いた。
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