ミストル〜白くて、ふわふわ〜
よろしくお願いします。
ミストルが駅のプラットフォームに立ってから、もう三時間が経過していた。
彼はまだ来そうにない。
今は冬だった。
麦畑が地平線まで続くだけの田舎のさびしいこの駅には、遠くの山々の向こう、海からやってくる、からっ風だけが吹いていた。
吐く息は白く、鼻水をすする音は止まらない。耳の感覚もない。もう、思い出せないくらい、ずっと前からだ。おそらく、どこかに落っことしていたのかもしれない。
ミストルは、安物のダウンジャケットを着ていた。が、コイツは寒さから、彼女を守っているとは言えなかった。
少なくとも、ミストルは「守ってくれやしない」と思っていた。
というのも、数週間前に転んで出来た小さな穴から、白いふわふわ(名前は知らない)が少しずつ飛び出して、ジャケットはもう、すっかりペチャンコになっていたからだ。
そのみすぼらしい小さな穴から、白いふわふわが出ているのに、当然ミストルは気づいていた。
しかし、彼女は、特にどうにかしようとは思わなかった。また、そんな考えにさえ思い至らなかった。
ただ黙って、その白いふわふわの行方をじっと眺めていた。
つまり、
ミストルが身体を揺らすたびーー白いふわふわが穴からこぼれ落ちーー空中をゆるやかに下降して――やがて、雪のひとひらのように、地面に触れるか触れないかのところで、風にさらわれて消えていくーーという過程を。
時にはむしろ、そのひょっこり頭を自分から掴んで、引っ張り出したりもしたものだ。
ミストルは、どうしても、その白いふわふわから、目をそらすことができなかった。
ずっと長い時間、眺めていたこともあった。
たとえば、大学の講義の始まりから終わりまで、セクハラ教授の抑揚のない説明や周りの生徒のひそひそ声にも気づかないで…… という具合に。
すべては、遠い遥かな山々の向こうの出来事のようだった。
それにまた、
まるで夢と現実を行き来するように心地よく、また面白くもあり、たまに美しいとさえ感じることがあった。
自分の部屋、トイレや風呂や、彼の部屋、大学の講堂、行きつけのカフェやドーナツ屋、本屋や服屋や銀行や、ファーストキスをした思い出の橋の下、そしてもちろん、五日前からこの駅のホームにも、ミストルの白いふわふわは落ちている。
ミストルは彼のことを考えた。
(彼ったら、私をこんなにもやきもきさせて。ほんとうにもう、どうしたら約束をちゃんと守ってくれるのかしら)
ポケットから冷たい手をだして、こすり合わせる。
それを丸めて口元までもっていき、まだ震える指先をため息で暖める。
風がまた強く吹いた。
海の匂いがする。彼が住んでいる隣町の匂いだ。
彼と出会ったのは、二年前だった。彼はドーナツ屋でアルバイトをしていた。
彼は、じっと熱い眼差しで私を見つめ、私もそれに応えた。
彼は優しく微笑んでくれた。
少し会話をして、一緒にドーナツを食べて、コーヒーを飲んだ。
それからデートをした。
買い物やボウリングや図書館や、ちょっと遠出して、水族館や遊園地にも行った。
今度は、ふたりの大好きなバンドのライブにも行こうねと約束をした。
私たちは幸せだった。
私は、彼にファーストキスをあげられなかったことを後悔した。
だから、今週のクリスマス・タイムに、それ以上のものをあげるつもりだった。
彼は完璧な男性だ。
ハンサムだし、背も高いし、なにより笑顔が素敵。
本をよく読むから頭もいい。
欠点をがんばってあげるなら、約束をあんまり守ってくれないこと、私に相談もなしで隣町の大学に行ったこと、お風呂あがりに半裸で家中を歩き回ることだった。特に最後。あれはほんとうに心臓に悪い。私(乙女)のことも考えてほしい。
あ! 電車がきた!
静かなホームに、けたたましい流線形の電車がゆっくりとすべり、止まった。
ドアが開くと、たくさんの人々があふれてくる。結構な数だ。
お母さんと手をつないだ小さな女の子、スーツを着たくたびれた男性、トローリーバックの車輪と陽気な笑い声がうるさい大学生のグループ、チビにデブにブス、老夫婦に若夫婦、人種の違うカップル、カメラを持った日本人の集団----、
いた! 彼だ!
彼は陰鬱な人々の波の中で、一人、輝いていた。
ああ、やっぱり彼は、他のにんげん達とは違う!
ミストルは微笑み、右手をあげて、彼の名前を呼んだ。
しかし、そのかすれるような声はホームに強く吹く風にさらわれてしまう。
もう一度、今度はもっと大きく、もっと高く、彼に自分のすべてを伝えられるようにーー名前を呼ぼうとして――――「あ」気づいた。
彼の隣に、知らない女がいる。
え?
彼は笑っていた。
はじめて見る優しい笑顔。ミストルの知らない笑顔でもあった。
女も笑っていた。彼に笑いかけていた。
2人は、お互いに笑いあっていた。
どうして?
ミストルは人の波にのまれた。
波に揉まれる哀れな小石のようになった。
強い波や、風が、ミストルを引き裂くように彼女の後ろへと過ぎていく。時にはぶつかり、彼女は倒れてしまいそうになる。
波と共に、彼が、ミストルのすぐそばを通り過ぎていく。
誰も彼も同じように、ミストルを一人残して、過ぎ去っていく。
ああ、消えていく。
よくわからないままに、よくわからない何かが消えていく。
すべてが間違いだったかのような気持ちになる。
私が、わたしでは無くなっていくように感じる。
やがて波が消え、音が消え、彼も消えた。
ミストルはまた一人になった。
読んでくれてありがとう。大好きです。