表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

点と線

作者: 妄想家

統合失調症とは脳内のネットワークがうまくまとまらなくなり、様々な能力に制限がかかる障害。

今まで気にしてなかったことを気にするようになり、不自然なことが起きる。

今までどうやっていたのかがわからなくなる。

何気なくわかっていたことがわからなくなる。


統合失調症は点である。

線にはならない。


本来は線があり、間があり、繋がっていく。

しかし、点なのでできても点線を見せることくらいしかできない。そして力尽きる。そのあとは苦しい。苦しくなるから別に黙ってればいいじゃんという話にはならない。


例えば、会話において世間話はかなり苦手になる。


それは世間話はゴール、もしくは目的というゴールの点がない会話になるため、会話ができなくなる。

つまり、統合失調症には間がない。

世間話は世の間を話すもの。


一方ではゴールのある会話、例えば仕事の話や哲学の話はゴールという点に向かって話を進めるため、会話が成立する。しかし毎度そんな話ばかりすれば友達はできない。

私が一番最初におかしいと思ったのは、友達が家に遊びに来た時、あれ、どうやってしゃべってたんだっけ。


仕事の能力面でも線はなく、間がない。

つまり、線を理解することが難しく、間を理解することが難しい。

まとめられないため部分的に物事を見る傾向になり、全体をつかむことが難しくなる。


線という意味では障がい者となり、集中力が続かなくなるということも起きた。なぜみんなのように集中できないのか、なぜこんなにすぐ飽きてしまうのか、また雑念が湧きやすくなり、話を聞いてる間に意識が一瞬だがふっと飛ぶこともある。お前聞いてた?みたいなことになる。思考の中で、会話の中で、疑問が湧きやすくなる。それは線にはなれないから。あとになれば、それは抗えないことだったのだと。

今は点で集中する力がついている。特定のことに対して自動で深く没入する。そしてすぐ答えまで辿り着く。


このように良い面は人が線をたどってたどり着くゴールに点から点でひとっ飛びして解を出すことができること。

しかしこれは妄想を自身でコントロールできるものにしか許されない能力である。

また執着心も強くないと実現は難しい。

この場合、答えに対する執着心である。

障がい者になり、いろいろわけわからないことになり、僕は答えを欲していた。その執着心が今に至る。

異常なデメリットは異常なメリットになる。

例えば被害妄想なら、コントロールできれば危機管理能力へと変わる。妄想ははたまた自動シミュレーションモードに変わる。

誇大妄想なら感動が人よりも深くなり、自らを鼓舞することも得意になる。正義という観点でとっても大きな視野で物事を見れるようになる。力を手に入れると言えない言葉も言えるようになる。今まで全く言えない側だった。ただ妄想をそのままやると全く良くない。実際は形を変えて現実にする。その時の空気ってものが加わるからだ。

発散でもあり、悪いパターンを先に独り言でやっておくことになる。

誇大妄想と被害妄想、どちらも厄介だがプラスとマイナスバランス良く異常値を持っているという見方もできる。


なぜ統合失調症の患者は妄想を強く抱いてしまうのか。

それは本来ある線がないため、そこがまるまる無いもの、つまり妄想に変わるからだ。

ないので考えようとすればするほど深みにはまっていく。ないのでそれは無限。底無し沼。

考えようとしなくても私の場合、あらゆる思考が妄想に繋がり得る。これはとても面倒。

私の妄想は支配欲にとても影響される。

点から線、そして次の点へ、、その間にある線がない私はその間どこにいるのか、それは内側だ。その間僕は内側にいる。僕の中にいる。僕と対話をし続けている。そこに強烈な妄想が加わっているため、騙されないようにしなくてはいけない。

僕は僕を溜め込み続けてきた。


点と線、点の私は世間話が特定の短い時間のみしかできないため、友達はいない。もしくは線で繋がっていない。知識や記憶にも間がない。

どれだけその点の場面でコミュニケーション能力が高いと印象を持たれても友達はできないのである。

もしその点の場面でコミュニケーション能力が高いと思うような障がい者なら元々はおしゃべりだったということである。それを封印されたと考えてほしい。

初めて会う人には喋ってない基本情報のストックがあるためたくさん話せるが、その基本のストックがなくなれば、話せなくなる。だからなんで初めあんなに話してたのに話さなくなったのというふうに思われる。嫌われたのかなって思われる。最初だけ人間。

追記)逆にこの最初だけ人間であることを利用して、自分を最小かつ最大に表現したりすることは今はある。


また気にしないことを気にするようになるとは線が自然になぞれなくなるということであり、運動の分野においても点となる。リズムを取ることも苦手になる。

点ということは野球で言うと、一連の守備は線をなぞれなくなり不自然が起きるが、本来取れないものを取る場面で症状の1つとしての強迫観念がなくなるということも重なり強い打球に横っ飛びをして取るという点は得意となる。しかしそれだけでは野球の守備は成り立たないためうまくいかない。線をなぞれないということは当然手先は不器用になる。

運動に関しては障がいになって初めておかしいと思ったのは、友達と野球をしてて、守備をしてて、ゴロで飛んできたボールを捕ろうとした時に、あれ、どうやって捕ってたんだっけ??


強迫観念というのは自分の場合、悪いイメージが湧いてしまうことで、そうゆうイメージが湧いてしまうためうまく体を動かすことができなくなる。野球ならば失敗のイメージが動く時に湧いてしまうのである。

もしくはそれをしなくてはならないような状態に持っていかれる。これは運動に限ったことではなく、思考に関してもそうである。だから今は思っても外に出さないという方法を取っている。そう思ってしまうのは仕方ない。外に出さなければいいということにしている。耐震が今どうゆう設計になってるかご存じだろうか、壊れない設計ではなく、どう壊れるかという設計になっている。確か。それと似た考え方なのかもしれない。

だから何を考えてるのか、何を思ってるのかよりも何をしているのかで見てもらいたいものだ。

例えば、いやらしさは良い方向に使えば、戦略がうまいということになる。でもいい人間になれるならなりたいものだ。でもいやらしさは強くあるが、ちゃんと気持ちもある。本物の気持ちはある。いやらしさが勝ってしまう時があるから、外に出さない。そしてすぐに真ん中に戻すよう努める。自分にとって不快なことが思い浮かんでしまうこともある。

いやらしさを知っているから相手のいやらしさにも気づける。

いやらしさも含め必ず何かしらの理由で線が途切れてしまう。だから線が途切れる前提で動く必要が出てくる。

サッカーも点なので、誰も見てないところにパスを通す、誰も見てないところでシュートをポンと打つなどやはり点ではその才を出していた。


精神的体力はもちろん、身体的体力も点になった。伸びないということもなんとなくわかってる。限界突破があるのだろうか?


ならば線は諦め、点での活躍に徹するのが1つの道。

人との深い関わり、交流を広げることを捨てる。

人との交流などは点に徹する。

なるべく線になる場面を避ける。

さすれば人との関係でこじれることは減るだろう。

そして点を極めれば、それは特異な才能となる。

さすれば点の基点つまり本質、そして間を飛ばしててっぺんの点の思考が異常発達するだろう。

これは哲学が得意、基本が得意、そして永遠に残るアイディア、つまり答えを考えるのが得意であり、逆に定期的に募集されるようなアイディア、例えば人権啓発標語などは苦手ということだ。それは間に当たる。哲学に関してはもう学ぶものはないと思う(納得するということはあるだろう。自分の経験に当てはめて)。それは早い段階でたくさんたくさん考えたからで、また極端な話いろいろ身につかない中でそこだけが身についたからで、今はオリジナルだ。

さて複雑性に弱ければシンプルさで勝負すればいい。

実業に弱ければ虚業で勝負すればいい。

そしてそのてっぺんを超えるようなことが起きれば、「心とは」に書いたようないろんなことが起きるという話。

点ということは、根本からてっぺんに飛ぶことができるということは、例えば有名な小説家がいて、なぜその人が有名なのかを知るのに特徴のあるその人の小説を一度読めば仕組みなどがなんとなく理解できてしまうということ。つまり、学という意味では何冊も読む必要が私にはない。長いのは線ということなので、点の私には苦手なもの。だから私は実のところ小説をほとんど読まない。しかし特徴のあるものしか踏襲できない。なぜならそれ以外は間に当たるからだ。間は分からない。が、要点は分かる。知識も同じだ。だから間は基本的には覚えられなくても、分からなくても気にしないようにしてる。要点が理解できればいい。要の点だ。間が記憶に残りにくいということはみんなの間の記憶を頼りにした会話にもついていけない。覚えられない。いつどこでどこの学校の野球部と対戦したかなど。その内容、数字。


だが、普通に資格の勉強などは普通に勉強する。

だってそれらは根本でもないし、てっぺんでもないから。そしてこの勉強は枠というものが関係しており、それは補足の方で書き記しておいた。


私は線で人と繋がることはないが、妄想の力により頭の中で様々なものを良くも悪くも繋げる力が常軌を逸している。これは障がい者になって長年不毛に強く妄想を繰り広げていたからだ。そしてなんとかしようともがいてきたからだ。結果的に今やっといい形で鍛えられたと言える。だがデメリットは以前存在する。

本質が他の人よりも充足してるのに、アウトプットに反映できず、悔しい思いをしてきたものだ。おかしい。本質が充足している人が成功を収めてきている世の中で、なぜ僕はダメなのか。


今、妄想と現実が交わり、過去の嘘が曖昧に形を変えて本当になる。僕の熱意がやっと力へと変わる。同時に冷静という新たな武器を手にして。


さて私は人間らしさを捧げ、悪魔の力を得た。

(上記以外で自分にはロボットみたいなところがある。

無感情的になったり、それも線が途切れやすいためだ

←超客観性の取得)

しかし悪魔の力を扱うのは容易なことではない。

常に自分の中で起こる強い支配欲に対して見極めを行い続けなければならない。

そして揺れ動きやすい思考に対して真ん中を維持できる力を持つものしかこの悪魔の力はうまく使えないだろう。私の思考は普通の人にとっては発狂ものだ。

勘違いが起きると困るので付け加えると、力を手に入れたからといって、私の場合は順風満帆になるわけではなく、やっとスタートラインに立ち、みなが経験するような様々な困難を一つ一つ解決している。それが家であろうと会社であろうと。時間をかけて。反省することもまだまだまだ多い。解決できないこともあるし、まぁ試練を与えられる。なんか常に背水の陣感はある。背水したこともあるけど、試されてる感が未だにある。いい緊張感とも言えるし、わるい緊張感とも言える。でも無理してた頃とは違う。ただいくつかの絶望を経験した身としてはこの絶望と紙一重のところに自分は常にいることを認識してなくてはならないと思う。


でも、昔に比べたら、全然マシ。

昔は昔で楽しいことはちゃんとあったけど。

人と繋がらないという点では頑張って繋がってたあの頃もよかったのかもしれない。部分的に見ればよかったと言える。


もう遠回りは嫌いなので、流れというものに敏感に反応しなくてはならない。そしてそれが私にはわかる。あとはそれが妄想かどうかを判断する。

おそらくここに書いてきたことはみんなそうじゃんと思う人もいるだろう。それもある。だけどそうじゃないものは異常なのだ。異常値だから全然違う。異常だからいろいろ考えられるんだ。


誰もが私と同じようにはならないと思う。

しかしヒントにはなるのではないだろうか。


・□



まぁ、でも羨ましいよね少しだけ。

必要最低限の繋がりは持つようにしましょうね。

僕と友達になろうとしてくれた人、申し訳ない。

僕はいつだって分裂を起こしてしまうんだ。

でも、分裂は必ずしも悪いことじゃない。

分裂することで良くなることもある。

離れた方がいいこともある。

分裂は分析に変わる。

分裂は分身に変わる。

分身は自分の使い分け。


若い子には、酷な話だよほんと。。

でも僕は障がい者の中でもかなり特殊なので、

とにかくいろいろ実験してみることが大事だ。

そして自分の答えを見つけよう。


そういえば、障がい者になってから擬似的に普通を経験したけど、実質間はなかったな。底辺、てっぺん。障がい者採用だから今もないと言えるんじゃないかな。根本から基本までは広げることは可能だ。そこから先が間だ。


補足

ここで苦手と言ってる全体とは間における全体で、根本とてっぺんを繋げたさらに大きく、完璧に循環する全体を見ることは得意だ。なぜそうなったか。間に行けないから無理やり行こうとして猛烈な力を加えつづけて根本から間を飛ばしててっぺんに飛べるようになった。結果論。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ