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青天の霹靂 下

 あれからひと月後、源六さまが私のもとに駆けてきた。


「おい、お前をうちで預かることが決まったぞ!」


 わあ嬉しゅうございます、どうか末永く宜しくお願い致しまする、と目に涙を溜めて頭を下げる私の頭を、源六さまはいつものようにぐしゃぐしゃと混ぜる。その無邪気さになんだか心がずきりと痛んだ。


 それから打ち合いを切り上げて、また隣り合わせで座った。その時に源六さまは、訊きたいことがあるのだがと尋ねてきた。わりと豪快で気になったことはすぐに訊く彼にしては珍しく遠慮がちだ。


「此処に来る前のお前の暮らしが知りたい」


 聞けば、彼は武家の子として一日の殆どを屋敷の中で過ごしている。あの蝗害の日のように外を駆け回ることは珍しいのだそう。せいぜい見聞を広めるために兄や家臣の仕事に同行するくらいだ。そういうことだから、触れる機会の無い農民の生活に興味があるという。


「私のつまらぬ話で源六さまの無聊を慰めることが叶うかは分かりませぬが、少しでもお役に立てるのでしたら」


 そういうことならと、農作業の詳細や季節の行事、家でやる内職や縄の編み方なんかを当たり障りのない程度にかい摘んで、なるべく楽しげに語った。意外にも源六さまはお気に召したらしく要所要所に質問を挟んできて、私がそれに答えていくという遣り取りの繰り返しになっていた。気づけば日は傾き源六さまの顔に秋の夕陽が差していた。


「お前の家族はどうだったんだ?」

「は、家族、ですか?」

「おれと同じ末子だったのだろう。それも兄も姉も多いとなれば、さぞ賑やかだっただろうな」


 楽しげに笑う源六さまとは対照的に、私の心はすっと冷える。そうか、この人にとって家族は……。そしてここに来る前の私を知らないのだ。

 空が暗くなってきて源六さまの表情は上手く窺えない。私の顔は上手に笑えているだろうか。


「お前を召しかかえるということで調べてみたが、どの家かまでは特定できなかった。だが昨年の蝗害であちらの村も被害を受けたようでな。お前が心配なら仕送りを送る手筈を整えることも考えているぞ」

「結構です」


 反射的に冷たい声が出てしまった。うわあ私の馬鹿。ほら、源六さまもびっくりしてるじゃん。どうにか取り繕わなくては。震える声でどうにか紡ぐ。


「あの、もう縁を切ったも同然だと思っておりますので、源六さまのお手を煩わせるなど」

「何を言うておる。大事な家族ではないか。心配ではないのか」

「ええと、でも」

「養って貰っていたのだろう。親の恩を仇で返すようなことはしない方がいい」


ーー養って貰ってる分際で。

 冷え切っていたはずの頭が突如、沸騰したように熱くなった。

 誰が養ってるだ、何が親の恩だ。

 ああそうか。この若様、肉親から愛情を一身に受けて育ってきて、悪意など向けられたこともないんだろうな。子供は無条件で愛され、親は無条件で敬われる。そういう道徳を疑うことなく受け入れる。幸福な家で健やかに育まれた、人の心に影を落とした場所など知る由もなく生きてきた少年。


「……にが恩だ」

「ん? どうした?」

「何が養って貰っただ! 飯食わせときゃあとは殴っても暴言吐いても許されるってのか!?」

「えっ、おい」

「そっちの都合で産んどいてあとは放ったらかしにしたり働かせたり売り飛ばしたり……子供が鳥目の塊か銭を吐き出す機械にでも見えてんのかよ! だいたい……」


 この後の記憶は朧げだが、少なくとも癇癪を起こし、思いつくだけの罵詈雑言を並べ立ててかつての家族を非難したということだけは分かる。夕陽の陰になって、源六さまがどのような顔でそれを聞いていたのかは窺い知れない。だが、嫌われたということは火を見るより明らかだった。

 あれから私は尼僧たちに後ろから取り押さえられ、部屋で説教を受けた。ついでに晩飯も抜きで一晩閉じ込められた。当然だ、お武家様の子に無礼を働いてしまったのだから。

 もう円紋さまは怒りはしなかったものの、わざわざ気を遣ってくださった源六さまに対して自分勝手に当たり散らしてしまったことを静かに咎め、反省を促した。私が素直に頷くと、それっきり解放していつも通りの生活に戻った。


 ああ、取り返しのつかないことをしてしまった。もうあの人は私と剣を交えたりはしないだろうし、気さくに話しかけることも頭を豪快に撫でることもないのだろう。不思議と、召抱えの話が立ち消えることより源六さまと親しくできなくなることが心を大きく締め付けた。


 それから三月ほど源六さまが来ない日が続き、気付けば歳も明けて私は五歳になっていた。栄養をたっぷり摂ったおかげですくすくと成長し、背丈は八〜十歳の女の子とさして変わらなくなった。そのため私は体格と腕力を生かして重い物を持ったり力仕事を手伝ったりしていた。あの家にいた頃は鍬や鋤を持っての力仕事は嫌で仕方なかったのに、不思議とここに来てからは自ら進んでやりたがるようになっていた。お世話になっている人や優しく接してくれる人のために役に立てるのなら、何でもしたかった。


 正月の行事も一通り済んだ一月下旬、雪道を加納家の家臣たちがやって来た。そして驚く間も無く私だけを連れて屋敷に戻ってしまった。

 ああ、ついにこの時が来たか。私は腹を括った。やはり貧農の娘ごときが名だたる武家の子息に無礼を働いたこと、相当な罪になるのだろう。そして今日、私の首が紀の川の畔に晒されるのだ。縄を掛けていないのは年端もいかぬ子供ゆえの温情か。


 冷気が肌を掠る中、重い気持ちを引き摺り遂に立派なお屋敷に辿り着いた。此処で源六さまは寝起きしているのか。改めて身分の違いを見せつけられると同時に、三ヶ月前までは此処に仕えようなどと考えていた己の愚かさにのたうち回りたくなった。あー庭の雪景色めっちゃきれい。

 連れられたのは奥の部屋。私が入ると既に壮年の武士が二人、その横に源六さまが座していた。どちらも威厳が滲み出ており、とても下手な弁解など通用しないことは明らかだ。ここまで連れて来た家臣たちは、立ち尽くしたまま動けぬ私を下座に座らせると退出を命じられて去って行った。


「おお、あんたがうちの源六に説教かました嬢ちゃんか」


 片方の武士が豪快な声でおどけてみせたので、思わず肩を震わせ萎縮する。まずは名を名乗らんかともう片方の落ち着いた武士が横から突くと、咳払いをした。


「儂は紀州藩家老加納家当主、加納平次右衛門政直と申す。此処におる源六は儂の倅ぞ」

「俺は紀州藩藩士、加納角兵衛久政だ。まあ源六にとっちゃ親戚のおっちゃんってとこだ」

「普通に傅役と言わんか」

「硬っ苦しいのは性にあわねえんだよ」


 普段の私ならこのおっさんら仲良いな〜くらいで流せたのだろうが、今はただただ縮こまるばかりである。首を斬るなら早くしてくれ。なるたけ痛くないように、一思いに頼むわ。

 本来なら此処で私も名乗るべきだ。それなのに、喉まで萎縮して、口の中では歯がカタカタ震えて、とても声なんて出せる状況じゃなかった。何か発さなきゃ、発しろ、そう自分に命じているのに、唇からは息が漏れるばかりだ。

 そんな状況を打ち破ったのは、他でもない源六さまだった。


「父上、角兵衛。こやつがおれの子分だ」


 意気揚々として彼は私を紹介した。まるで至極当然のように。

 は? 子分? 何言ってんだこの人は。お(つむ)がちょっと残念なことは前から知ってはいたが、まさかこんな所で大事な言葉を間違えるとは考えられない。だって私は処分されるために此処に来たはずなんだ。

 言い間違いか、あるいは聞き間違いかと頻りに首を捻る私を指して、政直と名乗った武士は源六さまに問う。


「源六、本当にこの娘はおぬしの子分になることを了承したのか。もしや一方的に押し付けたのではないか」

「そんなことはない! こいつは自分からおれの子分になりたいと言ってくれたんだ。な、そうだろ?」

「おいおい、年頃の嬢ちゃんをそんなに揺すぶるもんじゃないぞ。十歳そこらとはいえ立派な女なんだ」

「いや、私まだ五つです」

「はあ!?」


 よかった、ようやく声が出せた。それにしても源六さま、私の年齢のことは何も伝えてなかったのか。二人ともまじまじと私を見ては首を傾げている。前から自覚はあったが、そんなにでかいのか、私……。


「あなた、自分に無礼を働いて処罰する人間のこと呼び出しといて歳も伝えてなかったんですか」


 すっかり呆れていると、私の肩を掴んでいた源六さまが即座に反応する。


「しょうがないだろう、四歳の娘を召抱えたいなどと言っても受け入れて貰えん。それにお前の背格好じゃ到底信じられんだろう」

「いやいや結構大事な所じゃないですか。背格好なんて二の次ですし」

「というかお前、またでかくなったな!? あとなんか太ったか?」

「流石に失礼過ぎません!? むしろ前のが痩せ過ぎだったんですー。ていうか源六さまこそ冬の間に鍛錬怠けて太ったんじゃないですか」

「べ、別に悪いとは言ってなかろう! あとおれのは太ったんじゃない、男らしくなったんだ! お前と一緒にするでない」

「私だって別に太ったんじゃありませんもん! やっと普通の体格になっただけですもん。だいたいあなた……」

「待て待て、二人とも一旦落ち着け。……それよりお嬢ちゃん、処罰とは一体何の話だ?」


 ヒートアップする私と源六さまの久政が笑いを堪えながら割って入った。奥では政直も冷静な表情を保ちながら口元に力を込めて笑いを噛み殺しているため、ちょっと変な顔になっている。源六さまは今頃ハッとしていた。

 いつの間にか私たちは互いに顔を突き合わせて言い合っていたようだ。互いにばつが悪くなりながら定位置に戻った。


「だって、私は昨年、源六さまに無礼なことを沢山言ったので罰を受けるために此方へ呼ばれたんですよね?」


 遂に政直が噴き出した。何だって言うんだ。その横では久政が盛大に笑い出した。子供二人は付いて行けずに戸惑うばかりだ。


「はー笑った笑った。ほらな、やはり正確に伝わっとらんかった」

「もしや家臣の説明もろくに聞いとらんかったのではないか」

「えーと……」

「無理もないだろう、突然侍が来て問答無用で連れてかれたんだ。おれならともかく尼寺で暮らしてる紫が怯えるのも当たり前だろう」

「そもそも源六、お前が反省にあれほど時間を掛けるから話がややこしいことになったんだろうが」

「いでででで。角兵衛、耳が千切れる!」

「大丈夫だ、お前くらい丈夫ならこのまま持ち上げて耳でぶら下がることくらい容易いだろ」

「んなわけあるかー!」


 眼前でドタバタホームドラマを繰り広げられるも、私はそれどころじゃなく混乱していた。えーと、つまり私は首を斬られるわけではないと……? まさか本当に子分にするつもりで源六さまのもとへ?


「馬鹿じゃないですか」


 だって、あれほど自分勝手に、自分には関係のない憤懣をぶつけられた相手を、それでも子分にするだなんて。そんなのふざけてる。


「ああ、馬鹿だ」

「おい角兵衛」

「だからこいつも、馬鹿なりに考えたんだ。どうしたらあんたに許して貰えるかをな」

「許すって……」


 どう考えても逆だろう。私が謝って、源六さまに許しを請う。それが普通だ。

 紫、私の名を呼んで源六さまは私に向き直った。いつになく真剣な眼差しに、反射的に私も背筋をぴんと伸ばして見つめ返す。


「お前の境遇を知らずに、無神経なことを言ってしまい、すまなかった」


 やめてくれ、あなたのような人が私なんかに頭を下げるなんて。


「源六さま」

「あれからおれは考えた、何故お前が怒ったのかを。だが分からなかった。おれにとって親兄弟とは大切なもので、簡単に縁を切るなどと言うお前がおかしいと思った。……でも、それはあくまでおれの考えで、紫に押し付けていいものではない」


ーーだから、知ることにした。紫がどんな生活を送り、どんな人に囲まれて生きてきたかを。

 そう切り出した源六さまの口から語られたのは、驚くべき内容だった。


 以前の私がどのような暮らしをしていたかは、誰にも言っていない。尼寺の人たちにも、あの円紋さまにさえも。それゆえ源六さまは、自らあの村へ足を運んだ。最低限の供と説明役に村の役人を引き連れて。

 そして彼は知った、民の生活の厳しさを。普段、彼が兄や家臣から見聞きする百姓の話は、あくまで上澄みに過ぎぬということを。現実は収穫高や年貢といった数字では計り知れず、明るく素朴なだけでは決してない。

 二年前の蝗害で自分は被害に遭った領民を助けて回った。有り難え、このご恩は忘れませぬと手を合わせる民が、裏では生活のために収穫高を誤魔化したり、武士に対する不満をぶちまけたりしている。親のもとに返したり人に預けたりした子供らの中には、食い扶持のために売られたり過酷な労働を強いられたりする者もいる。貧しい者にとって、長男以外の子供は手放すか働かせるかして金に換える存在、あるいは面倒を見きれずに始末することもあるもの。


 源六少年は衝撃を受けた。自分がのうのうと寝食し呑気に稽古をしている間に、それを支える大勢の民が苦しんでいる。あずかり知らぬ所で傷付いている者がいる。大人の勝手な都合で生死を脅かされる子供がいる。その事実は数え十歳にも満たぬ、身分の高い武家で育った純粋な少年の心を強く苛んだ。

 散々に苦しみ悩んだ末、彼は自分にできることは何かを考えた。


「確かに身分を鑑みればお前の行いは正しくはないんだろう。だが、あれがあったからこそ、おれは自分が如何に世を知らずに生きてきたかを知ることができた。ありがとう」


 源六さまの話に、この部屋の誰もが聞き入っていた。少年の双眸には強い意志が宿っており、私は片時も目が離せない。


「すべての民が飢えることなく安らかに暮らせる世をつくる。それがおれのやるべきことだ」

「っ……」

「どうかおれを許してほしい。そしておれの世直しを手伝ってはくれないだろうか」


 やっぱり馬鹿だ、目の前で真剣な顔で拳を握りしめて理想を語る源六さまも……黙って涙を流す私も。

 神様も仏様も、弱き者のために戦う時代劇の英傑も、何処にもいやしないのだとあれほど思い知ったのにこのざまである。

 夢なんて理想なんて、抱いた所で踏み躙られるだけ。そう分かっていても、この人ならば、と手を伸ばしたくなってしまう。

 きっと、英雄って彼のような人を言うんだろうな。


「末永く、お仕え致しまする」


 自ずと私はしゃくりあげながら頭を下げていた。


 それからは四人で今後の身の振り方について話した。……とは言っても、主に大人二人の決めたことに私と源六さまが頷くだけだ。

 まず、私は今日から男になる。名は紫郎(しろう)、孤児だったのを源六さまが気に入って小姓として召し抱えることにした、という形だ。確かに女の身では女中か下女くらいしか道はないし、なにかと不自由だ。それに何より男子に混ざって剣の稽古に参加することができない。これは由々しき事態だ。なんだかんだで楽しいんだよな、あれ。

 ということで、ひとまず元服するまでは小姓として生活し、その中でどう生きたいかを決めるということになった。とはいえ源六さまに仕えることは確定事項であるのだが。私の希望を聞いた上でそれなりの家の養子として迎えさせるゆえ、精進するようにとのことだった。

 次に、私の住まいはこれから屋敷の離れ、使用人棟となった。必要な荷物は連れられて来る際に一緒に持って来たらしい。全く気づかなかった……。其処には私の他にも源六さまに仕える武家の子弟たちが何人か暮らしているらしい。皆、純朴で真面目な者ばかりだからすぐ打ち解けられるだろうと源六さまは言っていた。

 尼寺には今までのお礼のために一度戻るが、女だということが漏れぬよう出向くのは控えるようにと言われた。寂しいけれど仕方ない。たまに円紋さまに手紙を書くくらいなら良いらしいので、皆の近況を聞きたいな。

 あとは、一日のスケジュールや屋敷内の配置図の解説、勉学についての話なんかをして、お開きとなった。


 気付けばもう夕暮れ時、私たちは夕餉の席へと向かった。

 それから他の子弟たちへの挨拶と食事を終え、皆すっかり寝静まった頃。

 みんな優しい子ばかりでよかったなーとすっかり能天気になっていた私は、厠の場所を忘れて屋敷を彷徨っていた。

 うっわどうすんのこれ……こうなるんなら遠慮せず誰か起こすんだった。とりあえず運良く大人と出くわしたら道を訊けばいいかな。入っちゃいけない所に入っていたとしても、道が分からなければきっと不問になるだろうし。

 そう思って廊下を歩いていると、灯の点いた部屋を見つけた。失礼だけど、道を訊くくらいなら大目に見てもらえるよね? 障子に近付いたその時、聞き覚えのある声に手が止まった。


「本当によかったのですか? 斯様な下賤の者を源六様の傍に置いて」


 源六さまの次兄、加納角兵衛の声だ。下賤……確かに武家の人たちからしてみれば、私のような薄汚い小娘はそう見えるのだろう。それにしても、兄が弟を様付け? 笑い声が聞こえた。


「何だ、そんなことか。百姓の小娘一匹くらいで崩れるような企てではないわ」

「然り。いつでも切り捨てられる捨て駒を入手したと思えばよい」

「しかし……」

「角兵衛よ」


 企て? 捨て駒? 窘めるような声は政直か。


「忘れたわけではなかろうな。我々の志はただ一つ。源六様を紀伊太守の位に押し上げることぞ」

「父上……」

「我々の悲願ーー在府派を倒し腐敗した藩政を終わらせるためには、これまでと違う強い君主が必要なのだ」

「源六様は紀伊大納言様の血を引く最後のお方ぞ。失敗は許されぬ」

「左様。それに此度のことでまたあのお方の君主としての器が磨かれたこともまた事実。あの小娘も役に立ったではないか」

「なにもそこまでしなくとも……」

「軽すぎる神輿は風に吹かれれば簡単に倒れてしまう。源六様には新しい世に相応しい君主になって頂かねば」


 血の気が引いた。壁に張り付き隠れたまま、一寸たりとも動けないまま、話に耳をそばだてることしかできない。

 なんて事実だ。源六さまは加納家ではなく、主君たる紀伊大納言ーーすなわち紀州藩藩主の子息。政直をはじめとするこの屋敷に集った者たちは、彼を神輿にして藩の派閥争いを企てているのだ。

 同時に疑問が解消された。どうして貧農の娘に過ぎぬ私がこれほどまでに好待遇で召し抱えられたのかーー私は教材にされたのだ。哀れな百姓の孤児を通して、武家では教えられない庶民の闇を教え、成長を促した。


「あれも感謝しておろう。小さな村で生きるにはあまりに異形じゃ」

「確か村では妖か化け物かと追い立てられていたと」

「左様、しかしここでは好都合じゃ。化け物で大いに結構、此度のことで完全に源六さまに心服し切った様子だったからの。駒にはうってつけじゃ」

「久政殿も人が悪い」

「なに、人心掌握も君主としての大事な資質よ」


 もはや声も出なかった。甘美な夢を映す青写真に酔い痴れる大人たちに戦慄した。

 幸福な家で健やかに育まれた? とんでもない。化け物は一体どちらの方だ。源六さまはこんな大人たちに囲まれて今まで生きてきたのか。

 あの純粋に民を思う少年が大人たちの歪んだ理想のために崇め祭り上げられることを思うと、底知れぬ恐怖を覚える。


 その後のことはよく覚ええていない。ただ、辛うじてあの場から逃げ去ったことだけは確かだ。翌朝になっても私の首が繋がっていたことが何よりの証拠である。尿意などとうに引っ込んだ。

 怒涛の展開に混乱する頭の中で、情報が錯綜する。


 時は元禄、紀伊国和歌山城下。

 藩主の庶子として生まれながら、母の身分が低い故に家臣の子として育てられた男。

 幼少より諸武芸に秀で、民を思いやり堅苦しい武家の理を嫌った破天荒かつ大柄な暴れん坊。

 私の中で全ての点が線で繋がり、その先にある一つの名が浮かび上がった。


ーー徳川吉宗。


 源六さまこそが、未来の江戸幕府第八代将軍たる男。日陰者として生涯を終えるはずだった藩主の四男坊から武家の棟梁にまで上り詰め、大胆かつ革新的な政治により江戸幕府中興の祖として歴史にその名を刻んだ名君。

 確信してしまうと刹那、ぞくりと全身が粟立った。


 ああ、私はなんて男に近付いてしまったのだろう。

 もう後戻りはできない。

R1.5.16 修正

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