青天の霹靂 上
神様や仏様なんて、何処にもいやしないんじゃなかろうか。
地べたに這いつくばって、ぼんやりと思った。
ある時死んで、気がついたら赤ん坊だった。
察するにどうやら輪廻転生とやらをしたらしい。お世辞にも清潔とは言い難い家の中で、どう贔屓目に見ても祝福されているとは思えない空気の中で、私は生を受けた。
着物や言葉からして、前世で私が生きていた二十一世紀の日本とは違う。もっと昔の時代だ。
時代劇や時代小説が大好きだった前世の私としては狂喜乱舞もの。だが今の年号も此処が何という領国かも分からぬほどに寂れた田舎の、貧しい小作人の娘だと知ると、浮かれる心は急降下した。
憧れだった時代劇の舞台など遥か遠く、汗水垂らして働いて、今日のご飯にありつくことがやっとな生活だったのだ。
朝日が昇ると同時に目を覚まし、ほとんど水のような粥を掻き込む。後は日が暮れるまで畑、畑、畑。雑草を抜き鍬を振り続けること数時間、やっと帰宅してご飯を食べたのも束の間、寝るまでひたすら縄を編む。その繰り返し。これが死ぬまで延々と続くのか……と思うと、幼児にして早くも悟りを開きそうになった。
うちの一家を雇う地主は良心的とは言えないもののさほど苛烈と感じるほどではなく、どちらかと言えば家での暮らしの方に衝撃を受けた。
まず大凡の状況を把握した私は「このままじゃまずい、確実にお先真っ暗じゃん」と思い立った。そして、なるべく早く自分で動き喋ることができるようになろうと努めた。
幸い、両親も兄姉らも仕事で忙しかったために私を訝しむことはなかった。それどころか手間の掛からぬことをこれ幸いとして、ますます私を放置した。おいおいそれでいいのかよと呆れはした。だが仕方ない。貧しい水呑百姓の家に、ただでさえ沢山子供がいるのに更に新しく生まれてきた赤ん坊なんて、厄介者でしかないからだ。だったら産ませるなよとか、間引きでもしてくれよとか言いたいことはあるが、そうしたら今私は此処にいない訳だし。
それに最低限の世話は母が家事と内職の合間にしてくれているし、中身はれっきとした大人のまま赤ん坊扱いを受けるのは精神的にダメージが大きいので、まあよしとしておいた。
そうして歩き始めた頃には、兄姉らに混ざって仕事の手伝いをするくらいには成長した。……はずだが、明らかにおかしい。
いくら発育も知恵付きも早いからといって、普通幼女に重い籠を持たせたり、朝から夕方まで延々と草むしりさせたりするだろうか。
明らかに危ないよね、これ。猫の手も借りたい気持ちは分かるが、これで怪我して使い物にならなくなったらどうしてくれるんだ。実際、バランスを崩してすっ転んだ時は心配するどころか誰も此方を気にしなかった。兄姉らに至っては「怠けるな」と叱って箒や農具で尻を叩かれた。家に帰ってからは告げ口を受けた父に「養って貰ってる分際で」と思いっきり殴られた。理不尽だ。貧しさのあまり、もはや人に優しくする余裕すらないということだろうか。泣かなかった私は偉いのか、はたまた汗に水分を取られてもう残っていないのか。とりあえず労基と児相は仕事してくれ。
あと飯が不味い。普通に炊いた雑穀ごはんと普通に煮た味噌汁が恋しくて仕方ない。井戸水もなんか泥みたいな味がする。泥だらけの顔も汗まみれの体も服もろくに洗えないので常に全身が気持ち悪い。前世の生活が如何に恵まれていたかを強く実感した。
そんな生活を続けるうちに、私はある結論に至った。そうだ、身売りしよう。
幸い、私は女だ。何処かの名主の妾か、あるいは花街の遊女。この時代は食い扶持を減らすために娘を売る百姓は少なくなかった。武家や商家へ奉公に出るという選択肢も無いわけではないが、あれは実家のコネや教養が重視されるので、貧農の私では望みが薄い。
勿論、身売りしたからといって簡単に裕福な暮らしが手に入るとは思わない。理不尽な仕打ちや折檻だってあるだろう。それでも、少なくとも今の暮らしよりは遥かにマシなはずだ。
え、暮らし自体をを改善させる努力はしないのかって? 前世で料理も家事も大っ嫌い、勉強も運動も苦手だから早々に諦め、脳味噌のほとんどを歴史が占めるポンコツOLだった私にそれを言う? ……これは嫁の貰い手なんてないわ。
とにかく今より良い暮らしがしたい。その一心で私はより一層仕事に励んだ。口角を吊り上げて愛想を振り撒いたし、自ら進んで手伝いを買って出た。忙しい母の家事を助け、分からないことは何でも訊くことで知識欲があるアピールもした。なるべく顔をこまめに拭き髪を梳いていると、同じ境遇で働く少年たちの見る目も変わった。あれほど厳しかった父も、私も見てもあまり殴らなくなった。
形振り構っている余裕など私にはこれっぽっちもなかった。私は立派な商品になりますよ、いつでも余所に売りに出して良いんですよ。そうアピールし続けて約半年が過ぎた夜のことだった。
「この夏はやけに涼しいな」
「おんや、今年は不作かねぇ」
「ったくよ、ただでさえ年貢が上がって苦しいってのに」
「お殿様にも困ったもんだなぁ」
「食いもんはどんどん値上がりすっし、兄弟みんなに食わす分も厳しいど」
いつも通り縄を編んでいると、向こうで両親と長兄が話し込んでいるのが聞こえた。
これは私が何処かに売られるのも時間の問題かな? と内心ほくそ笑んだ。
そうするうちに、もう遅いから早く寝ろと母に促されて兄姉と一緒の布団にぞろぞろと潜り込む。
「今日もお疲れさん、ゆっくり寝えや」
母は私を寝かせようと横に寝転がった。まだ幼く末っ子だからか、母は妙に私に甘い所がある。母さん、と呼ぶとなあに、と穏やかな声が返ってきた。
「私、いつでも覚悟はできとるよ」
「……」
「みんながご飯食べられるんなら、私は喜んで余所のおうちに行くから」
「っ……あんた!」
そう告げると、私は目を閉じて夢の世界へと旅立った。
よし、これで意思は伝えたぞ。あとは母がこれを父と長兄に伝えて適当な売り先を探して貰うだけだ。暮らしのため、少しでも多くの銭を受け取るためなら、あの人たちも多少は頑張っていい所を探すだろう。自分の処遇で頭がいっぱいになっていた私は、それを周りで聞いていた他の兄姉たちのことなどすっぽり抜け落ちていた。
それから翌々日の真夜中。ふと妙な気配がして目を覚ますと、暗闇の中に私を見下ろす人影が見えた。
「あんたのせいで……あんたのせいで……」
ぶつぶつと呟くそれは私の首元に手を伸ばしてきた。ひんやりとした感触に驚いたのも束の間、首をぎりぎりと締め上げられる。必然的に至近距離になってようやく、その人影の正体が二番目の姉だと知った。
「ぎっ……ぅ、姉ちゃ……」
「あんたのせいで……あたしは……」
「く、しいよ……ねえ、や」
「うるさい! あんたが母さんに余計なこと吹き込むから、あたしが……あたしが……」
姉が声を荒らげたことと、私なりに必死でもがいて手足をばたつかせたことで、他の兄姉が目を覚ましたらしい。暴れる姉が押さえつけられるのを私は長兄の腕の中で呼吸を整えながら眺めていた。
経緯はこうだ。あれから母は、幼い私が家を思って自ら身売りを申し出たことに酷く落ち込んだらしい。それを知った父と長兄が憐れに思い、同時に末っ子の健気な思いに胸を打たれた。そして家族思いな幼い末っ子を手放すなんてとんでもない、二番目の姉を売りに出そうという結論となった。それを知らされた二番目の姉が、私に恨みを募らせた果てに逆上して、現在に至る。
なんというか……何故そうなった? 完全に斜め下なんだが。あれから彼女は何処かに閉じ込められ、反省するまで出してもらえないという。出されたとしても、売られることには変わらないんだろうが。
だが、それだけでは終わらなかった。ほかの兄姉の私を見る目は以前より一層鋭さを増したのだ。
「そもそもあいつがいるからあんなことに」
「おかしいと思ってたんだよ、あの歳にしてはやけにでかいし、知恵付きも早い」
「人の皮を被ったあやかしか何かじゃねえか」
「違ぇねえ、うちをめちゃくちゃにして最後には食っちまおうとしてんだ」
ひそひそと囁く声は、やがて兄姉に留まらず他の百姓たちにも伝播した。小さな村のことだ、こういった噂が広まるのは早い。ただでさえ妙な騒ぎがあった後だ、家内のごたごたを全て私一人に押し付けた方が都合が良い。両親が何も言わないのも、そのためだろう。掌返しが早いことで。
そんな空気があったから、私もすぐに気付いていた。長兄が私を始末しようとしていることにも。長姉が次は自分の番だと恨みがましい目で私を見ていることにも。
決め手は次兄が私を手に掛けようとしてきたことだった。暴れる私を押さえつけ刃物を構える彼がぼそぼそと零すことには、どうやら彼は二番目の姉さんのことが好きだったらしい。それを私のせいで引き離されかけたので、化け物である私を殺して姉を救い出す、ということだ。なんてこったい、そして知ったこっちゃねーよ。呪詛の如く呟きながら刃物を振り被る次兄に、本能的な恐怖を覚えて戦慄した。決死の思いで股間を蹴り上げて怯んだ拍子に家を飛び出した。
無我夢中になって村を抜け出した。どうせここにいても碌なことにならない、そう思った。川を渡り、山道を駆け、小道を抜ける。どこかに泊まったり食料を買う金なんて無いから殆ど止まらず進み続けた。後から思えばよくそんな化け物じみたことができたものだ、脳内麻薬ドバドバだったんだろうな。
しかし遂に限界が訪れた。蝗の大群が南方から押し寄せているという報せを叫ぶ早馬が村を駆けると、あっという間にそこら中が逃げ惑う人々の波でめちゃくちゃになった。その一人にぶつかった拍子に叢に倒れて、二度と起き上がることはなかった。電池が切れたように体が言うことをきかなくなっていたのだ。
もうだめだ、体も心も。私は悟り、焦点の合わぬ目で雑踏を見送った。
神様や仏様なんて、何処にもいやしないんじゃなかろうか。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。私は回らない頭の中を巡らせる。
少しでも良い暮らしがしたいと願ったから? 貧しい暮らしを受け入れて身の丈に合った生き方をすれば良かったのだろうか。
やっぱりあれかな、前世で散々身を固めろだの孫の顔を見せろだのと両親や周囲から言われたのに、生返事だけ寄越してのらりくらりと躱し続けていたからかな。だって、時代劇や歴史小説の世界は現実よりずっと輝いていた。面倒で窮屈な恋愛や結婚なんか眼中に入らぬほどに魅力的で、私を惹き込んで止まない。人知れず悪を成敗する剣客や、夜の江戸を駆け巡るくノ一、世知辛い時代を生き生きと息衝き彩る町人たち。ああ、あと二百年でも早く生まれていたら!
そんなことだから罰が当たったのだろう。
念願叶って、確かに私は江戸(と思われる)時代に生まれ変わったーー明日の飯すら儘ならぬ無力な貧農の娘として。
気付けば黒雲と轟音が辺りを支配していた。逃げ惑う人々の悲鳴と雑踏が横をすり抜けていく。
あー、私このまま死ぬのかな。だってもう起き上がる気力も体力もない。踏み潰されて干からびた蛙のように呆気なく息絶えるか、蝗に髪や服を食い千切られた果てに家畜の餌になるか、運良く免れたとしてもせいぜい餓死。
ほらね、現実なんてこんなもんだ。乾いた笑いが込み上げた。マジか、まだ笑う元気があったなんて。私は力無く目を閉じた。
英傑が悪を成敗する勧善懲悪な時代劇や小説なんて、所詮は夢物語だ。救いなんて無い。富む者は富み、飢える者は飢える、ただそれだけだ。
ああ、耳障りな音が此方に迫ってくる。
さよなら今世、また来るな前世、せめて来世はマシな人生でありますようにーー。
「おらぁ! 散れっ、散れい!」
ばさっばさっと布が翻る音とともに、高い怒声が脳に響く。深い眠りの淵に沈みつつあった意識が襟首を思い切り掴まれたように引き戻された。
体中に虫がへばりつく不快感が無くなり、代わりに地面から浮いた感覚がやって来る。
何事だ? 一体何が起こったというんだ。
恐る恐る薄目を開くと、そこには見知らぬ少年の顔。よかった、まだ生きてる。そう表情を緩ませた少年が先程の声の主だということと、彼に抱き上げられているのだということだけが、よく回らない頭で辛うじて理解できた。
「怖かったな、今助けるぞ……おい! 誰か、誰かおらぬか! このままでは死んでしまう!」
状況が掴めないものの優しい面持ちと掛けられた声は、不思議と心地よくて、乾き切った私の中にすとんと落ちる。そして安堵したのも束の間、彼が張り上げた大声にびくりと心臓が跳ねた。
直ぐに従者らしき侍が何人か駆け寄って来た。よく見れば、少年の髷は一寸の乱れもなく綺麗に言われている。おそらくそれなりの家……武家の倅なのだろう。
「源六様、その者は……」
「孤児だ。円紋の寺に運んでおけ」
「はっ」
「四郎右衛門、村民の避難ができ次第、兄上たちに身許を改めるよう伝えてほしい。弥助はおれと共に来い。此奴のように逃げ遅れた者や捨て置かれたもがまだいるやも知れぬ」
「……その、畏れながら、危のうござるゆえ源六様は」
「急げ! 事は一刻を争う、こうしている間にも民が命を落とすやもしれんのだぞ!」
「は、はっ!」
「承知仕りまする!」
指示を受けた若い侍に私を引き渡すと、少年はそのまま伴を連れて荒れ果てた村に走り去ってしまった。
……なんだったんだ、一体。明らかに年上の侍を恫喝して従えたあの少年は、只者でないことは確かだ。少なくともそれなりでなく、結構良い武家の倅なのだろう。
一連の様子を未だに呆然と見送ることしかできずにいる私を俵のように担ぐと、その若い侍は溜息を吐いて歩き出した。
「まったく、うちの若様は。危ないというのに聞きやしないんだからなあ」
ま、そんな若様だからこそ付いてくんだけどさ。その呟きは、今生で聞いたこともないような明るい声音だった。
❀ ✿ ❀
あれから私は信じられないほどの厚遇を受けた。
優しげな面差しの尼僧のもとに他の子供たちと一緒に預けられ、温かいご飯を食べ、綺麗な水で体を流し、暖かい布団で眠る。怖かったでしょう、もう大丈夫ですよ。他の子たちと同じ窮屈な寝床でまだ混乱して寝付けずにいる私に、円紋と名乗った尼僧はそう言って背をぽんぽんと叩いて安心させてくれた。涙が溢れたのなんて、赤ん坊の時以来だった。
円紋さまの元での暮らしは天国のようだった。衣食足りて礼節を知るとは言うが、貧しくて心がささくれ立っていた頃よりずっと穏やかに時が過ぎていく。
同時に分かったこともある。今は元禄四年、此処は紀伊国の城下に隣接する村だ。前に暮らしていた村の名を告げると「そんな遠くからか細い脚で歩いてきたのか」と驚かれた。さらに数えで三歳だと告げるまでは五、六歳だと思われていたらしい。ここで改めて、私は周囲の子供たちより大柄だということを自覚した。道理で農作業をさせられるはずだ。
読み書きを教えて貰えることも非常に有り難かった。前世の記憶により基本的な言葉は分かるものの、やはり整然とした現代的な仮名文字と筆で書いた崩し字ではまるで違う言語のようだ。他の子供たちより覚えが早いと褒められたものの、少し複雑な気分だった。
「おーい!」
「源六さま」
背後からの威勢の良い声に、洗濯の手を止めて駆け寄り礼をした。
あれからしばらく経ち、蝗による被害から少しずつ立ち直ってきた今日この頃、厚意で置いて貰っているのだからと私はなるべく円紋さまや他の尼僧らの手伝いをするようにしている。幼子の面倒を見たり、雑巾掛けをしたり、洗濯をしたり、とにかく手を動かした。円紋さまには「そんなことまでしなくていいのに」と言われたものの、なんとなく申し訳ない気がするのだ。
「洗濯か、相変わらず働き者だな」
「恐れ入ります」
声の主である少年はわしわしと私の頭を掻き混ぜ、細っこいな、ちゃんと飯は食っているのかと楽しそうにしている。私はもーやめてくださいよう、なんて軽口を叩きながらもニコニコと流しておく。この人は毎回こんな感じだからな。
戦国時代、徳川家康に小姓として仕え、のちに初代紀州藩主となる徳川頼宣に従って大阪夏の陣に出陣した武将、加納直恒。その後、彼の家系は紀州藩家老を代々務める家として続いてきた。
源六さまは直恒の孫にして、加納家の三男。九歳にして既に周りの子供たちより頭一つ飛び出た体格と、大人たちも舌を巻くほどの武芸の才を誇る期待の若君だ。但し勉学はからっきしで、朱子学の講義の時間になると決まって屋敷を抜け出し、悪餓鬼らと一緒に外で戦ごっこをして暴れ回っては家臣たちを困らせているという。
あの日以来、源六さまは定期的にこの尼寺へと足を運ぶ。そして子供たちの身元に関する報告をするという名目で、いつも刀の打ち合いごっこに興じている。実際の報告や手続きは共に付いてきた傅役の有馬四郎右衛門さまが円紋さまと行なっている。
「終わるまで暫くかかるか?」
「申し訳ございませぬ、すぐに切り上げますので暫しお待ちを」
「いや、いい。ちょうど来たばかりだ。終わるまで休んでる」
そう告げると源六さまは少し離れた地べたにどかりと腰を下ろした。できればもっと丁寧に洗いたかったが、早く終わらせなければ。私は急いで服を擦った。やがて一緒に洗濯していた年上の女の子が、後はやるから行っておいでと引き受けてくれたので、後でお菓子を分ける約束をしてお願いした。
「やはりお前がおらぬとつまらぬからな。皆、遠慮して本気で掛かって来ようとせぬ」
廊下広い庭に向かって歩きながら源六さまが独り言ちる。そりゃそうだろう、お武家さまのご子息に本気で木刀を振って、万が一怪我なんてさせたら首が飛びかねない。そうでなくとも、勝ってしまったら機嫌を損ねるのではないかと迂闊に出られないというのもあるが……うん、源六さまに限っては杞憂かな。大人ですらびびって腰を抜かす奴が出るくらいだし。
そんな中で、私はとても貴重な存在らしい。女子でありながら堂々と源六さまに立ち向かい、恐れることなく打ち込んでいくのだから。当然、膂力も技術も雲泥の差なので毎回負ける。だが源六さまは私をいたく気に入って、来た時は毎回私を呼び出すようになった。
「いや、惜しかったな。お前も勢いはあるんだが、踏み込みがまだまだ甘い。おれのように技を習えばずっと良くなると思うぞ」
今日も例に漏れず、私は木刀を吹っ飛ばされて完封。満足げに胡座をかいて汗を拭う源六さまと縁側で隣り合って座り茶を飲んだ。
源六さまの言葉に私は緩やかに笑みを浮かべ、当たり障りのない返答をしておく。
「恐れ入りまする。しかし私なんぞに源六さまのような技が身につけられるのでしょうか」
「間違いない、このおれが言うんだぞ」
胸を張る彼に、ふふっと笑みが溢れる。武芸に秀で人柄も良い彼に付いて行きたいと今から志願する武家の子弟は決して少なくないらしい。例えそれが子供ゆえの戯れや将来に不安を覚える次男三男の保険だったとしても、彼の実力と人を惹き付ける魅力が本物であることは明らかだ。
「なんなら師匠に伝えてお前もみてもらえるよう頼んでおこうか」
「……よろしいのですか?」
「ああ、ちょうど屋敷の遊び相手が足らなくて退屈していたところだ。なんならそのまま子分として召抱えてやっても良いぞ」
「左様ですか!?」
私が身を乗り出して反応すると源六さまは少し面喰らったようだったが、構わず続けた。話が流れてしまわぬうちに畳み掛けたかったのだ。
「あ、ああ……お前さえ良ければだが……」
「そう仰って頂けるだけで光栄にございます! 源六さまは私の命の恩人ですもの。畏れながら、お側にお仕えすることで恩をお返しできたならどんなに幸せかと願っておりましたのに……」
今の私はおそらく、潤ませた目に源六さまだけを映す殊勝な少女となっていることだろう。なんなら勢いに乗って手を握っておこうかとも思ったが、流石に大袈裟だし非礼になりかねないので控えた。だが、それだけでも純粋培養で育って来た若君には充分だったようだ。
「まさか斯様に思ってくれていたとは……わかった。今日からお前はおれの子分だ」
はにかんで私の手を日焼けした大きな両手で包んだ彼を、私は複雑な気持ちで見ていた。
源六さまに感謝する気持ちも、恩を返したい気持ちも本物だ。しかし心根の卑しい私は、無意識のうちに打算が働いてしまう。有力な武家の子息。家督を継ぐ望みは薄いが、人望と度量からして藩士として出世する見込みは十分にある。そうでなくとも道場主の道があるのだ。これに早いうちから乗っておきたいと思うのは自然のことだ。
本気で子分になって剣術を極めたい訳ではない。楽しいし強くなる度に源六さまが喜んでくれるのは嬉しいけれど、女の私には限界がある。
あのお方の側室になる。そのためにこの一年余り、源六さまに気に入られるべく振舞ってきた。あからさまな媚びが通用しないことは明らかだったため、できるだけ身分を最低限弁えつつ気兼ねなく接し、かつ彼の好きな武道を通して距離を縮めてきた。自慢ではないが、目立たず自然を装って強者に媚びるのは得意なのだ。
今の暮らしに満足していない訳ではない、むしろ感謝してもしきれないくらいだ。だが、それとこれからの人生を少しでも良いものにしたいという欲は別だ。いつまでもここに置いて貰えるとは思っていないし。
「末永く、宜しくお願い申し上げます。源六さま」
こんな浅ましい自分は嫌いだ。でも、生きるためには手段を選んでいられないということもまた事実であった。
R1.5.16 修正