世界は4人と共に
続きです
体育館の上部、隕石の衝撃で割れた窓枠から紫色のモヤが降りてくる光景は、さながら早朝に霧が斜面を下るという山おろしのようだった。
恐れるな、と知らず知らず心の中で呟いた。
何が起こったのか。
何故人が倒れているのか。
何をすべきなのか。
何かできることはあるのか。
何も分からない。
唯一、それらが霧よりは風船に近い形なのだと認識しただけ。
かかとに引っ掛かった何かは生徒だった。ぶつかったのは何故かは分かったが、それが何故かは謎のまま。
風船の速さで迫ってきた紫色のそれを目前に捉えるまでの時間は、あっという間に過ぎ去った。
その刹那、言い知れぬ不安を前にして、ピンと張りつめて凍りついた空気に、心と体はそっと縛りつけられていた。
終焉は唐突に訪れるのものである。
「二年坊!目標は講堂!走れっ!」
雷に打たれたように体がのけぞった。
勢いそのままに体は回れ右をし駆け出すものの、倒れている生徒が意識の外だった。躓く。それでも転ぶことはなかった。
走りながら、さっきまでの放心を我ながら不思議に思う。
非常事態にふさわしい、緊迫感みなぎる心持で一心不乱に逃げる。躓く。転ばない。今すべきことはそれだけだった。
体育館入り口を目指す人が他にいることにも気がついた。後ろから幽霊のようなモヤが迫る中、その人数は4人。
残り600人は皆動けないのか?
にわかには信じがたい。 何か見落としがあるのではないか。
今逃げるよりもするべき仕事はないのか。
……わからない以上は何もできない。
仕方がないと割り切っても後ろ髪をひかれた。
4人でどうにかなるはずがないのだ。
「ちっくしょぅ……!」
叫びよりは呻きのように呟きながら体育館を飛び出した。
先輩の檄に返事もしていないことには気づいていなかった。
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暗い廊下をガラスを踏み割りながら少し走ると、重い講堂の扉に辿り着く。
最後に入ってきた体格のいい男子生徒が内から扉を固定した。
この人が声を荒げた先輩だと直感した。
防音の扉で、ガチャリと音がした。
何となく安心して、膝から床にへたり込んだ。
「他の扉はまだ固定してないぞ、二年生」
「大丈夫、もう閉めたから」
その男子は、被せるようにそう言った。
先輩に報告する、というより僕に聞かせている感じだった。
先輩はふっと口元を緩ませ、゛ヒロキ゛と呼び掛けた。
既に二人の意識の中に自分はいない。即座に何か言う気力は、残っていない。ヒロキのいう通り、情けない有様だ。
「さすが寛樹だ。そこの先輩よりもずっと立派だな」
「まあ、精神力の貧弱な人にはどうしようもないと思うね」
少しムッとしつつ、ヒロキわ見る。
靴の色から、ヒロキが一年だとわかる。小柄な反面、態度は大きい。
一年生が三年生にタメ口なのが奇妙だった。
「おい、いつまでもへたり込んではいられないぞ」
はっと顔をあげると、先輩が寄ってきて手を差し伸べてくる。
口調はそのままなのに高圧的な態度は全く無い。
何となく、緊張のスイッチが切れたような感じがした。
素直に手を取って立ち上がる。
そこにヒロキ、さらにもう一人集まってくる。
口を開いたのは見覚えのある女の先輩だった。
「まったく、恐ろしいものを見てしまったよ。俗に言う幽霊ってやつかい?」
一緒に逃げてきたもう一人、彼女は確か生物部の部長だ。研究が優秀だったためにその成果を称えるための全校集会が開かれた折、実験の様子と紹介しながらメダカのミンチの写真を白昼堂々投影し、訳のわからない単語を早口でまくし立て、挙句30分ほどの時間超過で授業を一つ潰すという事件を起こした前科持ちである。
「どうだろう……ヒロキ、どう思う?」
「人が一斉に倒れたのとアレが窓から入ってきたタイミングは一致している。全校生徒に周辺住民、たぶん教員も皆倒れてるだろうけど、原因にアレはかかわってるね」
「毒ガスのようなものだったのか……しかし」
「そう、一瞬で1000人近い人間が卒倒して例外が発生するのは奇妙だ」
「幽霊の形のまま広がる化学兵器も笑えやしないかい?」
三人は広い講堂の真ん中で話し始めた。いつも講堂は人気がなく静謐そのものだが、そこに人が4人だけだと益々もの寂しさが増すものだ。
見たところ三人は顔見知りであるらしい。
この閉鎖空間で一人だけ蚊帳の外なのは居心地が悪い。かといって冷静に観察出来たわけでもなく、分析が得意なわけでもければ特に何も言うことはない。
そうしてただ黙っていたのが都合よく解釈されてしまったらしい。
「おや、何か言いたげじゃないか、二年生?」
女の先輩からである。
「えっ、特に……あ、一つ聞きたいことがあって」
「何だ、言ってみろ」
男の先輩もヒロキも先を促す。拍子抜けされないだろうか。
「名前を伺いたいです」
「そんなことか」
「多分3人はもともと知り合いだと思うんですが、生き残りはこの4人だけですし。僕は近衛陽道といいます」
よろしく、と頭を下げる。こちらこそ、と男の先輩が応じてくれた。
「道理だったな。俺は武田嶺人だ。ついでに言えば剣道部主将だった。もう引退してるけどな」
「僕は剱持寛樹。名字で呼ばれることも多いが嶺人がヒロキと呼ぶからそう呼んでくれて構わないよ。一年だが敬語は使えないので気にしないでほしい」
「私は蕗根理憬子だ。自分で言うのもおかしいが私は有名だから見覚えはあるだろう?」
「あ、はい。メダカの研究ですよね」
「会う人みんなに言われるけどね、メダカはあくまで対照実験用に使っただけだからね。メインは鱈とか鯰とかだよ」
「部長の研究は魚などが持つタンパク質の応用研究だ。一般生徒に理解は難しいか」
「寛樹、いつも言ってるように人を見下すような物言いはよくないよ」
「頭が回ってないのは事実だろう」
寛樹は生物部らしい。
寛樹は嶺人さんに対してと同じ口調で理憬子さんと話している。成程、三人の関係が見えてきた。しかし、寛樹が三年生二人に全く遠慮がないのには素直に感嘆するべきなのかどうか。
「なあ、陽道といったね。あんたも言われっぱなしじゃなくてガツンと言い返してやってくれ」
「えぇ……でもまぁ気にしてませんから」
今回赤点が分かったのは数学だけだが、見返却の他教科も散々だろう。毎回のことである。その意味で、ボンクラ呼ばわりは適当だ。
後輩から馬鹿にされるという状況は気分を害する典型例だが、そもそも寛樹は真っ当な後輩の部類には入れられない気がする。
「このまま何も起こらないなら、いや、何も起こってなければ良かったんだがねぇ」
理憬子さんの落ち込んだ声に嶺人さんが顔を曇らせる。
そうだ、この静かな講堂の他に人が生存しているのを確認できてはいない。そもそも体育館の人たちの安否もわからないままだ。
しかしあの幽霊のような物体の脅威を量れないまま迂闊に行動もできない。
まるで夜の森を彷徨うような感覚。
状況には不安しかないことを忘れてはならない。
ただ、理憬子さんの言は意外にも悲嘆に暮れたものではなかった。
「私はこの状況は最悪ではないと思ってるよ。何より嶺人がいるからね、大抵のことはどうにかするだろう。ただ、ここにあんたが居るのが問題になる」
突然の指名に身構える。露骨に顔を強張らせてしまう。理憬子さんは僕を一瞥し、さらに続ける。
「つまり、あんたが寛樹と関わる毎に精神をすり減らし、辞めていった部員達の再現になってしまうのを私は恐れているんだよ」
意表を突かれた。それ以上に拍子抜けした。昨今の自己紹介の提案もそれなりだったが、それにも勝る場違いさ。思わず吹き出して笑ってしまったのは僕が悪いのか。
「部長、あの低能共が部活をサボりだしたのは僕のせいではないと主張するよ」
お前も主張するな。
「確実に止めはお前だよ。私も実験の手を止めてやっと繋ぎ止めてた助手要員をお前はたった一言で追い払ってしまうんだから」
「あの、この期に及んで心配することですか」
ついに堪えられずに割って入る。
「いや、大事なことだろう。この4人しかいないんだ。仲間割れは身の破滅に直結する」
嶺人さんまでもがそう答える。確かにそうだ。正しいけれども、先に議論することがあるのではないかと思わずにはいられない。
「だからあんたにはビシッと寛樹に言い返して貰って、ストレスを溜めないようにしてほしいんだよ」
「このボンクラは気にしてないといっていますが」
「ボンクラなんて言われたら先輩の面子も丸つぶれじゃないか!さあ、言い返せ、流石に堪えたろう?」
「理憬子、むしろお前がこいつを煽っているようだぞ」
皆、笑っていた。4人が打ち解けられてよかった。
もう、静かだった講堂はどこにもない。
代わりに、活気に満ちていた校舎は沈黙し、日は落ち、夜を迎えていた。それすら、窓のない講堂から確かめる術は無かった。
続きます
少しグダります