ひとつめ
会話の意味が分からない人も多いのでは無いでしょうか…
その人に出会ったのは、雨の降る、とある六月の日のことだった。
たった1度だけ、同じ場所で雨宿りをしただけの関係。いわば、赤の他人。
別にこれと言った特別なものは無かったけれど、その人のことをよく覚えている。これまでも、きっと、これからも。
1
雨について、好きか嫌いかを問われたら、きっと、嫌いと答える。
とても簡単な感情論だ。嫌いなことに特にこれといった理由などないし、理由は対して大事なものとはとらない。特に感情論にそんなものは無意味だと思っている。
寂れたバス停にいた。六月、中旬。急に降り始めたそれは、嘲笑うかのようにその行為を続ける。
アスファルトを叩き続ける大量の、大粒のそれが音を激しくしていくとともに、心は億劫になっていく。
雨の、主張的なその音が昔から嫌いだった。自分を否定しているような、存在意義を問いてくるようなそれは、気持ちを沈めていく。
紫陽花に囲まれたバス停で、ベンチに座って雨が止むのを待つ。たまには、身勝手でとても嫌いなそいつに付き合ってやってもいいだろう。
数十分もしないうちに、小雨だったそれは、土砂降りに変わった。ひどい天気だ。自分の予定通りに進まない世界は、自己を中心とする人間にとって、都合の悪い世界だ。ひどいとも言いたくなる。
その人は、気が付いたら隣に座っていた。突然だった。
雨の音がうるさくて、随分の間気付くことが出来なかった。あるいは、最初からいたのかもしれない。どちらにせよ、とても驚いた。
彼女は、膝の上にびしょ濡れの犬を乗せ、頭を撫でながら、泣いていた。無表情の涙だった。感情は分からなかった。ぱっと見ただけならば、彼女の格好からしても、雨に濡れているだけだと思うだろう。だけれど、やはり彼女はその両の瞳から、透明な雫を絶えること無く、落とし続けていた。
思うべきではないのかもしれないが、綺麗だと、そう思った。
紫陽花の中にいる彼女は、その華奢な体躯からも、醸し出される雰囲気からも、今にも崩れて、壊れてしまいそうで、それがより一層彼女を儚げに、美しく魅せた。
嫌いな雨の音も忘れて、不躾に彼女を魅ていると、その視線に気付いたのか否か、表情を変えることなく、こちらを見る。
「私は、どうすればいいと思いますか?」
彼女は、突然に喋り始める。そのか細く折れてしまいそうな、だけれど芯のある声を聴いていると、どうしようもなく、抱きしめたくなる。
もちろんそんな事が出来るはずもなく、代わりのように、彼女の質問に疑惑の表情を浮かべる。
「どういう、ことでしょう?」
もしかしたら、発したその声は、上ずっていたかもしれない。
彼女は、質問には答えずに、続ける。
「この子は、私を置いて、消えました。私は、追うと思います。半分は、決定しています。あなたは、どう思いますか?」
意味のわからない、暗号のようなその言葉を、彼女はひとつひとつ大事に形にしていった。とうてい理解できないそれは、なのに心の中に深く入っていく。
「その犬は、あなたが飼っているのですか」
本当に聞きたいことは違うけれど、問いてはいけない気がする。だから、違うことを聞く。
彼女は質問に対し、やはり表情は変えずに、だけれど今回は答える。
「私のではありません。そして、この子はもうこの場にいません。誰にも愛されてません」
飼っていない。ということだろう。彼女は回りくどいその言葉を使って、何かを訴えているようにもみえる。
「死んでいるのですか?」
発した問いに彼女は答えなかった。無言のその間は、おそらく、否定ではないだろう。いつもは嫌いなはずの雨の音が、普段は煩くて仕方なかったそれが、今はバス停にいる生きた二人の間を埋める、確かな助けになっていた。
やはり彼女は、突然に言葉をこぼす。
「君の、あなたの、名前はなんですか?」
一瞬、誰に対しての問いなのか分からなかった。あまりにも小さな、綺麗なその声がしめす物が自分なわけがないと思った。しかし、今この場所にいる彼女の問いに、応えを出すものは一人しかいなかった。
一応の確認をとり、彼女が静かに首を縦に振るその姿を見て、名乗る。
彼女は、その応えをひとつひとつを口の中に留めるように反芻する。それを聴いていると、どうしようもなく、こそばゆくなる。恥ずかしくなる。理由は分からない。
またゆっくりと、膝の上の犬だったそれを一撫でする。何かを確信したように、何かを決意したように、何かを、諦めたように。
「死なないですよね?」
ふと、なぜだか浮かんできたその問いが、口からこぼれ落ちる。とても小さな言葉であっただろうその疑問を、なのに彼女はしっかりときこえたらしく、初めてその表情を変えた。
驚き、怒り、喜び、悲しみ、笑み、そして、安堵と、さまざまな色を作り出していく。きっとこの人は本当はとても豊かな表情を持っているのだろうなと、そう思わせた。
なぜ最後に安堵の表情を見せたのかは分からない。だけれど、その顔にもう涙は無かったから、安心する。
「死にません」
困ったように、嬉しいように笑いながら断言した彼女は、何かを隠しているようにも見えて、先程感じた感情を消してしまう。
いつの間にか雨は止んでいた。彼女は露のついた紫陽花の花を一房、そっとちぎりとり、花を、正確にはがくを口元にもっていく。軽く目を閉じ、優しく紫陽花にキスをして、胸元にそれを移動させる。全てが美しく、儚く、綺麗だった。
犬は地面に落ちた。
彼女は立ちあがり、こちらを見る。強い意思の持った、心の入ったその表情で、宣言するかのように、言う。
「また会いましょう」
なぜそんなことを言うのかは分からなかったが、はい。と答えた。断る理由も無かった。
「それでは、また」
「また」
彼女は、その真っ白なワンピースをひるがえして、道の向こう側に行く。駅のある方面だ。きっと電車にでも乗るのだろう。
十メートルほど彼我の距離が開いて、ふと、彼女は振り返る。
「とても素敵な六月でした」
まだ六月も中頃なのにそんなことを口にする彼女に、疑問を感じる。だけど、そんな疑問を口にする間もなく、紫陽花の向こう側に彼女は消えてしまう。諦めて、立ちあがる。
じめじめとした、だけれど、爽やかでもあるその雨の残り香を深く吸い込む。
少し、雨が好きになった気がする。
ゆっくりと、歩き出す。
遠くで、電車の通る音が聞こえた。
読んでいただきありがとうございました!
次回の投稿で完結になります!ほんとは短編にしたかったのですが、ちょっと気力が…(笑)
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