Zweiter Satz
入学式から数日経った放課後、音楽室には管弦楽部の部員と新入部員が集まっていた。
「はいはい、今日は合奏の日よ。先生は後でいらっしゃるから先に机を後ろに片付けて椅子と譜面台を並べてね。一年生は先輩を見てお手伝いしてあげて」
部長の薫子がぱんぱんと手を叩いて仕切り、音楽室内の配置が変えられていく。
「先輩、手伝います」
留衣は率先して机を持って行く。
「ヴィオラは何プルですか?」
天茉理が椅子を並べようとしている。「プル」とはプルトの事で譜面台の意味。弦楽器は一つの譜面台を通常二人が使うので、プルトの数が分かれば大体の椅子の配置が分かるのだ。
「へ~君は経験者かい?プルトって良く知ってるね」
天茉理に声をかけたのはヴィオラのトップで高校一年生の「阿蘇 順子」(あそ じゅんこ)。
「オケの経験はないんですけど……」
そのうち部員達がてきぱきと机を片付け終わり、椅子と譜面台を並べて音楽室はすっかり合奏モードになった。
「は~い、手が空いた人から楽器を出して席についてね。新入生はみんなに紹介するから前に並んでちょうだい」
薫子がそういうとパラパラと皆、楽器を持って席に着き始めた。一年生は教室の前で少し緊張した面持ちで一列に並ぶ。
「皆さん、待望の新入部員が入ってくれました、今年はこの子達よ!」
現役部員達が一斉に拍手して歓迎する。
(そういえばあの子、来てないわね……)
薫子は新入部員の顔ぶれを一通り見てまわる。
「最初は簡単にこの部の事を説明するわね。あ、ごめんなさい、私は部長の米田薫子です。ヴァイオリンパートよ」
前に並んでいる留衣が天茉理にコソコソと話しかける。
「天茉理、あの人入学式で棒振ってた美人だよね、ばよりんって棒も振るの?」
「あらやだ、美人だなんて~」
留衣の小声の「美人」という単語に薫子が敏感に反応した。
(地獄耳……)
部員一同ちょっとあきれ顔だが、照れながらも薫子の説明は続く。
「こほん、えーと今日お休みでいない人もいるけど、うちの管弦楽部は今日あなた達が入ってくれて約五十人になります。主な活動内容は、来月の五月にある春の定期演奏会と秋の文化祭、それ以外にも小さな演奏会が年に数回あります。基本は全員でのオーケストラだけど、演奏会によって小編成のアンサンブルもその都度結成したりもするのよ。みんなにはこれから自己紹介してもらうので名前とクラス、今までの楽器歴と最後に希望楽器を言ってください。でも編成の都合で、楽器の無い人は必ず希望楽器をやれるとは限らないので、それは承知しておいてね。あ、最後に今日楽器を持ってきている人はなにか簡単に弾いて頂戴ね♪」
「えー!?」
薫子の最後の一声に、今日楽器を持ってきている新入部員は悲鳴のような声を上げる。しかし十詩子だけは余裕の笑みを浮かべていた。
「じゃぁ最初の人、どうぞ!」
薫子が嬉々として新入部員に話しかける。
「え、あ、はい、あの一年三組、印南 文(いなみ あや)です。楽器はヴァイオリンをやっています……」
最初に指名された子はあせりながらも自己紹介を始めた。
何人か自己紹介した後、留衣の順番になった。
「じゃぁ次の人」
「はい!一年二組、日吉留衣です。よろしくお願いします!楽器の経験は全くないけど入学式の時にぱんぱぱーんを聴いて感動してこの部に入りました!」
「おぉ!あたしのペットに感動したのか?」
留衣の言葉を聞いて喜んでいるのは、トランペットのトップで副部長の「金子 みゆき」(かねこ みゆき)、高校二年生。
「お前、あたしの演奏の良さが分かるとはなかなか良い耳をしているなぁ、じゃぁペット希望だな?」
「いや、ばよりんやりたいです!」
ドッと音楽室に笑い声が響く。
「なんだよ~ペットやろうよ~」
みゆきは少し拗ねてしまった。次は天茉理の番だ。
「一年二組の西天茉理です。希望はヴィオラです」
「おー」
今度は驚きの声が音楽室に響き、薫子が天茉理に問いかける。
「あら珍しいわね。西さんはヴィオラ弾いたことがあるの?」
「いえ、小学生の頃からヴァイオリンは弾いてましたけど、ヴィオラはありません」
「ヴィオラは毎年希望者が全然いなくてね、嬉しいわ。でもなんでそんなにヴィオラを弾いてみたいの?」
一瞬、天茉理の目が光るとニヤっと笑った。
「フッフッフ、それはですねぇ……」
またまた天茉理がびよらに対する思いのたけをクドクドと語るのだが、長くなるので割愛。
「……なんですよ。分かって頂けましたか?」
気の遠くなるような長い話を聞かされた部員達はみんな力尽きており、若干ひきつり気味の薫子が声をかけた。
「え、えぇとっても良く分かったわ。それじゃ次の人……」
次に紹介するのは十詩子だ。
「一年四組の伊村十詩子です。希望はチェロです。チェロは幼稚園の時から弾いています」
「おー」
今度は感嘆の声が音楽室に広がる。
「幼稚園からチェロを弾いていたなんてすごいわね。それじゃなにか弾いてくれる?」
「あ、はい。無伴奏でいいですか?」
「なんでも好きな曲を弾いていいわよ」
薫子に促されて十詩子はチェロをケースから取り出し、おもむろに近くの椅子に座って簡単にチューニングを始めた。
(さすが経験者ね、チューニングも的確で早いわ)
薫子は十詩子の動作の一つ一つを注視している。
「それじゃ……」
少し目を瞑ってから十詩子の弓が動き始めた。
●ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
無伴奏チェロ組曲第一番 ト長調 BWV1007より前奏曲
組曲としては六番まであり、チェリストのレパートリーとしては定番中の定番の曲。実は近年に彼のパブロ・カザルスが発見するまでは無名に近い曲だった。一番は技巧的にはさほど難しくないとされるが、その分演奏者の高い表現力が求められる。
十詩子の演奏に一同目を見張る。薫子も冷静に十詩子の演奏を聞いている。
(上手いわね、音程も正確でなにより遠くまで抜けるような響きが良いわ。多分楽器も良いんでしょうけど技術も卓越していて、なによりこの曲が好きって感覚がギュって凝縮されているようね)
最後に弓を右手で高く跳ね上げて十詩子は演奏を終えると、今までの新入部員の自己紹介の中で最高の拍手と歓声が湧き上がった。
「あ、ありがとうございます!」
十詩子は戸惑いながらも一礼し(やった!上手く弾けた!)と心の中で呟いた。
「伊村さんすごいわね、びっくりしちゃった!それじゃ新入部員はこれで全員自己紹介終わったわね?」
「ち~す!」
その時、音楽室の入口から巨漢の男が入ってきた。
「葛西先生、こんにちは」
その男は現在D女管弦楽部の指揮を振っているプロの指揮者「葛西 武」(かさい たけし)。
「ところでこの背中にひっついている子を降ろしてくれない?」
「トトロ~」
なんと葛西の背中にはカルラがぴったり張り付いていた。
「あら、カルラちゃん!」
「わ~い、薫子~」
ぴょんと葛西の背中を離れてカルラは薫子に駆け寄って抱きついた。
「すいません先生、この子どうしたんですか?」
「うん?なんか校舎の中でヴァイオリン持って泣きべそかいてたから【トロロだよ~】って言って連れてきた。ここの部員で良かった?知り合い?」
「はい、入学式の時に校舎の中で迷子になってたのを、私がうちの部に入らない?って声をかけたんですよ」
(良かった、来てくれて……)薫子はカルラの顔を見て安堵した。
【留衣】(わぁ……かわいい……)
【天茉理】(ああいう見た目がお子様みたいな子に限ってめちゃくちゃ上手かったりするんだよね)
【十詩子】(なんだ、あのチビは?)
金髪碧眼のあどけない顔に身長は百二十センチもないまるでお人形さんのような少女に、音楽室にいる一同が和やかな表情になる。
巨漢の葛西がカルラの目線にまでしゃがんで話しかけた。
「カルラちゃんはヴァイオリンを弾くんですか?」
「うん!」
「オーケストラやりたい?」
「うん、やりたい!」
「よし!新入部員一人ゲット!」
巧みな話術?でカルラはD女管弦楽部に入部することが決まった。
「カルラちゃん、それじゃこっちに来てみんなに自己紹介してちょうだい」
「はーい」
薫子に促されてカルラが音楽室の前に出る。
「カルラ・ミッターマイヤー・独鈷です!ママがドイツ人でパパが日本人で、この前ドイツから帰ってきました」
「あら、じゃぁあなた一組?」
「うん!」
二人の会話を聞いて天茉理が留衣に話しかける。
「あの子が例の帰国子女枠の一人か」
「ドイツだって、すごーい!ドイツ語ペラペラなのかな?」
D女にドイツ語科があるのは前回説明したとおりだが、各学年四クラスのうち一組だけがドイツ語科、残りの二~四組が普通科(英語科)になる。この学校ではドイツから帰って来たと聞けば、誰もが一組を思い浮かべるのだ。
「それじゃ、なにか弾いてくれる?」
「なに弾いてもいいの!?」
「ええ、好きな曲弾いて良いわよ」
「わーい!」
そういうとカルラはケースを降ろしていそいそと楽器を取り出し始めた。
【留衣】(すっごーい、あんなちいちゃい子がばよりん弾けるんだ)
【天茉理】(どんな曲弾くんだろ?)
【十詩子】(どうせキラキラ星とかじゃないのか?)
モーツァルトが作曲したキラキラ星変奏曲は、良くヴァイオリンを始める最初の頃に弾く曲として有名だ。
小さなカルラがヴァイオリンを構えると、雰囲気は子供のヴァイオリン教室の発表会のようだ。皆が温かい目で見守る中、さっとチューニングを始める。
(え!?音が……響きが……なにか違う……)
この間、僅か数秒なのだが薫子と葛西だけがカルラのチューニングの音を聞くとなにかを感じとった。今までのあどけないカルラの表情が一変しておっさんくさい顔になると、チューニングから間髪いれずに豪快な重音からたたきつけるようなフォルテ、いやフォルテッシモで演奏が始まる。
●トマソ・アントニオ・ヴィターリ作曲
シャコンヌ ト短調
十七世紀の作曲家でヴァイオリニストでもあるヴィターリの代表作。元々はヴァイオリンと通奏低音の曲として作曲されたものの、現在では十九世紀にレオポルド・シャルリエが編曲したシャルリエ版が有名。カルラが弾いているのもこのシャルリエ版。
(なっ……!)
音楽室にいる一同が響き渡る音色に凍りついた。
(この子、なに……?)
薫子は思わず口を手で押さえて固まってしまう。
(こりゃすごい、プロでもこんな表現をできるやつはいないな)
腕組みをして真剣な表情で葛西が演奏を見ている。
(すっごい、ばよりんてこんなに綺麗な音がするんだ…)
留衣は食い入るようにカルラを見ている。
(こいつプロ?今までこんな演奏聴いたことがない)
天茉理が感心して聴いている。一方十詩子はというと
(…………)
無言でカルラの一挙手一投足を目で追っていた。
全員が息を呑んでカルラの演奏を見守る中、カルラは最後の重音の嵐も難なく弾ききり演奏が終了した。カルラは元のあどけない表情に戻るとぴょこんと一礼したが、音楽室はシーンと静まり返っている。皆の反応にちょっと驚いたカルラが
「……あれ?」
と小首を傾げると、その瞬間音楽室内は拍手の嵐に変わっていた。その拍手に驚いて十詩子はようやく我に返った。
(……なんなんだ、なんなんだ!なんなんだ!!あいつは!!!)
唇を噛んでカルラを睨みつける、がすぐに視線を床に落とし呟いた。
「……悔しい……」
留衣と天茉理も若干興奮気味で話している。
「ねぇ天茉理、あのちっちゃい子すっごく上手だったね!」
「いや、あれは上手とかそういうレベルじゃないぞ」
「カルラちゃん、あなた一体……」
「なーに?」
薫子が恐る恐るカルラに話しかけるが、全く屈託のない笑顔をカルラは浮かべる。
「ほーい、みんな!良いもん聴かせてもらっちゃったね~いろいろ感想もあるだろうけど、そろそろ合奏始めないと時間なくなっちゃうよ」
まだ皆が騒然とする中葛西が声をかけると、薫子が少し焦って準備を始める。
「そ、そうでしたね先生。みんな、合奏始めるわよ。一年生は今日は教室の横で見学していてね」
音楽室の空きスペースに並べられた椅子にぞろぞろと新入部員が移動し始め、薫子は自分の楽器を取り出した。
「それじゃメンコンから始めます、チューニングを」