「カレイドスコープ」
夢を見ていた。とてつもなく不思議な夢だ。狭いアトリエで少女がひたすらに真っ白い絵を書いていた。
「世界と言うのはまさにカレイドスコープそのものであると私は思っているのですよ」
真っ白なキャンパスに真っ白な絵の具を塗りたくりながら夢の中の少女はそう言った。
「たとえそれが同じ場所であっても、同じ景色は二度と見ることができないように」
彼女の描いている絵は真っ白だった。それは、そこにある世界を新しく塗り替えているようにも見えるし、またはそこにある世界を忘却しているようでもあった。
「例えば、落ち込んでいる時や辛い時に、『あの日見た景色をもう一度』なんて思って自分の一番記憶に残っている美しい景色を見に行こうとしたりしますよね?」
手を止めることなく彼女は語り続ける。
「そしてそこで見た景色は、昔見たものより美しく感じられたり、あるいは存外美しいものではなかったと思えたり。はたまたあるいは、その景色そのものが失われていて悲しくなったり」
彼女は一度手を止めてパレットに白い絵の具を注ぎ足して再びキャンパスと向かい合った。
「世界とは人間に同じ姿を見せることなく、時に優しく時に厳しく我々を取り巻いているのです。さて、ここからはあなたの番です。あなたの今までに見てきた世界を私に聞かせてください。あなたが今思い悩み、あなたが今苦しんでいることはどんなことですか?」
画材を置いた少女は、俺に正面から向かい合った。その瞳はとても綺麗に澄んでいて、まるで鏡のように俺の姿を写していた。
◇
俺の名前は宮木蛍という。名前の由来はよくわかっていない。聞いてみたかったが、名前の由来を知りたくなったころには両親はこの世にはいなかった。
親戚の家に引き取られた俺は十分すぎる愛情を注がれながら大学に進学し、成人を迎えた。大学を卒業し、就職して、結婚し、子育てをする。いたって普通ないたって平凡な人生。これから俺はその簡単なようで実は難しい「普通の暮らし」を手に入れるのだと分かった時、なぜかとても悲しくなったのだ。つまらない人生だと思った。だがそのつまらない人生を手に入れるために努力している人間の方がよほど自分より輝いていると感じた。
「俺はな! いつか一流のイラストレーターになって超有名になってやるんだ!」
目を輝かせながら夢を語った友人が眩しくて直視できなかった。俺の夢ってなんだ? 俺のなりたいものは? いつからだったか、俺は自分の将来に夢も希望も持てない子供になっていた。それがいつだったのかは、もう、覚えてはいないけれど。
俺にも昔夢があった。それがどんなものだったかは漠然としていてもう覚えていない。ただ一つだけ確かなのは俺には誰かに伝えたい景色があったということ。どんな形でもいい、そのうつくしさを、素晴らしさを誰かに伝えるために俺は○○○を目指したんだ。
◇
「なるほどあなたは自分の夢を取り戻したいと。そういうことですね?」
夢の中の少女は俺の話を聞き終えてから思案するように右手を顎に添えた。
「忘れてしまっているということは、それはあなたにとって忘れてしまいたい記憶になってしまったということです。それでもあなたはそれを取り戻したいのですか?」
「思い出せるのなら思い出したい。俺が何故それを忘れてしまったのか。それを思い出したことでこれからがどう変わるのかわからないが、俺がこんな変な夢を見ているってことには何か意味があるんだろ?」
「そうですか。まぁあなたの予想はあながち外れてはいませんよ。……ではこれを見ていただきましょう」
彼女は先程まで書いていた真っ白な絵を俺に見せた。いや、真っ白に見えていたその絵は確かに俺が昔見た景色だった。
――一筋の小川。蛍の光が揺れるその景色はさながら地上の星空のようで。地上で見るどんな景色よりもそれは美しく見えた。
「これはあなたが伝えたかった情景です。随分昔の話です。あなたのご両親がまだ生きていたころの話。まだ小さかったあなたの手を引いてあなたのお母さんはこの美しい小川と蛍をあなたと見に行きました。それから一年が過ぎようとしていたある日、あなたのご両親は事故で命を落とすこととなります。あなたはどうしてもこの景色の素晴らしさを誰かに伝えたかった。母が最後に見せた素晴らしい風景。絵が苦手だったあなたは文章でこれを描くと決め、『小説家』を目指したのです」
彼女が語り終えると絵はグニャリと形を変えて、巨大なダムの絵になった。
「十五歳になったあなたは忘れかかっていたあの景色をもう一度見たいと思い、記憶をたどり、思い出の場所にたどり着きました。しかし、そこにあったのはあなたが描きたいと思ったあの美しい小川ではなく、巨大なダムへと姿を変えていたのです。そしてあなたはあなたの夢を支え続けてきた思い出が失われたことを嘆き、自分の夢と、その景色を心に封印することにしました。もう二度と、悲しい思いをしないために」
俺は思い出す。あの絶望感を。あの悲しみを。しかしそれは失われた記憶の断片を埋めていくようにどこか優しく俺を満たしていく。パズルのピースが埋まっていく充足感にそれはとても似ていた。
「これをあなたに差し上げます」
少女が渡してきたのはあの一筋の小川の絵だった。手のひらサイズの絵ハガキ。そこには俺が焦がれた景色が描かれている。
「あなたがこれからどうするつもりかは私には分かりません。しかしまぁ、もう一度夢を目指すのもありかと思いますよ?」
彼女はそう言ってクスリと笑った。それと同時に妙な浮遊感に襲われて世界が歪んで見えた。
「もう時間のようですね……。ああそうそう。最後に答え合わせをしておきましょう。あなたは先程私と出会ったこの夢に意味があるのではと仰いましたが、特に意味なんてないのですよ。あなたは心のどこかでこの記憶を取り戻したいと願っていた。だから私はあなたのもとに現れた。それだけのことです」
「あんたいったい何者なんだ? これは夢じゃないのか?」
俺の言葉に彼女は「夢ですよ」と言って笑った。「これは私が見せた夢です。まぁ若干、現実的要素も含みますが」
少女の姿がだんだん見えなくなっていく中、最後にこう言った。
――私はただの、時代遅れのお節介な魔法使いなのですよ。
◇
目を覚ますと自室だった。不思議な夢を見ていたような気がする。そこでふと右手に何かが握られていることにかがついて俺はあれが夢ではなかったことを悟った。あの少女は確かに存在した。ここにいたのだ。
――世界と言うのはまさにカレイドスコープそのものであると私は思っているのですよ。たとえそれが同じ場所であっても、同じ景色は二度と見ることができないように。
少女の言葉を思い出す。まさにその通りだと俺は思った。なぜなら、今の俺には夢がある。つまらないと思えた人生が今では美しく輝いているように感じる。今の俺なら何でもできるそんな気がして、俺はパソコンの電源を入れ、キーボードを叩き始めた。




