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鞍馬刀法



十二月十日




 昨日まで廃寺があったそこには、夢でもなんでもなく濁流の爪痕がくっきりと刻まれていた。その破壊のほどは過去そこに何があったのか手掛かりすらつかめないありさまで、境内であった広場に大きいのやら小さいのやら岩がひしめき合っている。そしてその間隙を埋めるかのように木々が上向きも下向きも関係なくあられもないかっこで挟み込まれ、まさに世の末を暗示するにふさわしい。

 その群がり集まった岩の中に天を突くがごとく一際目立った巨大な石がある。朝日を受けて半分を赤く染め、たもとから細く長い影を伸ばしていた。

 その頂点に僧体の影がひとつ。

 色白で切れ長の目に、薄いが血色の良い唇。そのきめ細かい肌質から歳の頃は十七八といったところであろうか。それが言った。

「来られたのはわしを含めてたった二十三か。百人もいてなんたるざまか、と言いたいところだがしょうがあるまい。にしても」

 その若い僧を取り巻くようにあちらこちらの岩の上に屈強な僧が二十二人立っていた。若い僧が続ける。

「その姿。そのまんま来たか。発想が貧困なだけなのか、はたまた修行が足らんのか」

 若い僧は岩から飛んだ。そして川の岩をわたるがごとくひょいひょいっと、濁流が作った岩垣の背を下へ下へと向かっていく。その後から屈強な二十二人も続いた。




 謙吉、清平、楠次、豪次郎の四人は床だけとなった本堂にノコギリを入れていた。札が張り付いた場の一角を持ち運べるように切り離そうというのだ。

 だが崖直前の岩に食い込み傾いた上、たるんでいるのでノコギリの滑りが悪く、なかなかどうして進まない。そこへきて力任せにやるものだから、歯が本来の仕事をせず、踊るばかりでどうしようもない。クワンクワンとしなるのに、己の腕が原因であろうとも清平はノコギリにあたる。その柄を薙ぐように蹴った。

 よっぽど強く板に食い込んでいるのだろう、ノコギリが起き上がりこぼしを思わす動きを見せた。顔面朱に染める清平であったが、他の者らはというとそれに冷たい目線を送る。

 明け方、薄暗い内から目覚めた乾は再開の順番をたえからと断じた。陽三郎を例にとって安吾に罰がついたと皆に説明し、たえは遮られたのだから救済されないといけない。こんなことも分からないなんて気が動転していた、と謝った。それに対して当てこすりを言う者はだれもいなかった。当然だろう。昨日、おとといで混乱していない方のがよっぽどおかしいのだ。逆に、あの乾に混乱したと言ってもらって皆、ほっとするぐらいだった。

 それから朝飯を食おうということになって、連れ立ってたえの屋敷に降りていく。たすき掛けのたえは安吾を先手に米、食材を運ぶとかまどを起こし、米を炊く。その一方で鍋に野菜やゴボウを放り込み、囲炉裏にかける。二人のてんやわんやの働きで、やがて鍋は湯気が立ち、お結びは大盆にてんこ盛りで運ばれてきた。

 みな待ちに待ったのか、どうぞと声がかかると先を争って貪り、瞬く間に平らげて、それでなんとか心も落ち着いたのか、もう関心は今後の手立てであった。

 『牛鬼』は恐るに足らぬ。なぜなら『遊び』を夜までかけるつもりはない。『刀鬼』はというとある意味やっかいだ。太刀を与えれば済むには済むが、その後は太刀なしで戦うことを余儀なくされる。鉄砲という物があるのだろうが、いざ戦闘になるとどうも心もとない、というわけだ。

 にしても、あの蛇や百足や狐、菅原道真にはどう考えても太刀では通用しない。ならば鉄砲かと言えばどうだろう、ということになる。

 で、化物には化物をという結論に達する。つまり、新兵衛ら三人がばんばん札を捲れというのだ。そしてうまい具合に菅原道真が狐を雷で撃ち、蛇や百足を濁流に流してくれればなお結構。『雷神』の札の出方。そこが要点だというのだ。

 一方で『雷神』はいざ知らず、そんなことは初めから新兵衛も乾も考えていた。目新しいわけでもなんでもない。ただ、手際よく札を捲っていくということがみなの共通認識となったのは大きい。慌てず、騒がず、協力する。出てきていない化物がまだ四体も残っているのだ。

 とにかくも、あの菅原道真に賭けようじゃないかというのがみなの意見だ。それで昨日みたく化物もろとも土石流に巻き込まれるのは愚の骨頂。雨自体はあやかしであろうとも、濁流はあくまでも自然摂理にならっている。ならば対処もできようというもの。

 ということになって四人が板張りに札の広がる一角を切り抜いている。そこから棚田を渡った向こう側、ちょうどたえの屋敷の裏手にこんもりとした高台がある。しかも九尾の業火で舞った灰塵が種火となり焼け野原となっていて、その形跡から水の流れはそこを避けていたようだし、見渡しという点から見ても、広さという点からしても、うってつけだった。そこに場所を移して再会しようというのだ。

「どけ! わしがやるわ!」

 頭から煙が出ているごとくの清平を押しのけると幾之介がノコギリの柄を握った。いらいらと作業をする四人に対し、ただただ冷たく見守る者ら。笑顔でいろとまで言ったら語弊があるが、朝の活気というか、やろうという意気込みが今はほとんどの者にはない。

 世界の終り。朝食の時とは打って変わって、時間がたつとその言葉がみなの心をじわじわと浸食していく。乾の説によれば、『遊び』が終われば時間を巻き戻されるわけではない。十二月六日から別れたこっちの世界は切り捨てられる。恐ろしくないと言ったら嘘になる。それはそうだろう。十二月六日の己と十日の己とはもうまったくと言っていいほど他人なのだ。

 そのいまの己がなくなるほどの価値。それが見つけられるのはたえと安吾、加えて弥太郎か。前者の二人は分からぬでもない。が、弥太郎という男をいえば、どこにいても、どの弥太郎をとってみても勤王なのだ。

 一方で乾はというと良く分からない。別にどうのこうのもなく淡々としている。ただ、闘志を内に秘めるたぐいの男である。心の内では『札合わせ』に怒りという感情が湧いているのかもしれない。乾という男を例えるなら正義漢とでもいうおうか。長年の付き合いの唯八なぞはそんな乾の性格をよく知っているし、一緒に行動すれば最後はどのような結果になろうとも清々しい思いが待っているのも知っている。豪次郎とてそうだ。付き合いは長くはない。それでも分かる人は分かる。謙吉もいうなれば豪次郎とおんなじなのだろう。

 だが、新兵衛は男が男に惚れるなんてそんな手合いでは、全くない。たえや安吾が望むのなら、そしてそれが出来得るのであれば世界なぞなくしてしまえばいいと思っている。この世界を言っているのではない。本当の世界を含めてそう思っている。ともかくも人が嫌いなのだ。それでも、そんな新兵衛のために生きている人、そんな奇矯な人物がいるのも事実である。

 妻のゆきが言った。

「あなたさまはわたしの最後を看取りその墓の前でお友達に殉じようと、お腹を切ろうと思っておいでなのです。そうすれば全てが丸く収まるとお考でしょう。あなたさまがお友達を見捨てるはずはありません。違いますか?」

 それは違うよと新兵衛は思っている。この文句はゆきの気持ちの現れなのだ。ゆきこそ、新兵衛が死んだら頚動脈を掻ききって死のうとしている。そしてそんなことをいつも考えているんだとその言葉の裏を読んだ新兵衛は身につまされる。

 だれがこんなつまらない世にした?

 だからどちらの世界にしろ、世界と名をつくものをたえや安吾が壊そうというならそれで結構。気分が晴れるし、それが二人のためなのだ。

 いずれにせよ、どの世界も狂っている。

 こうなって、逆に存在感を出しているのが寿太郎と小笠原保馬である。寿太郎は半平太の妻側の一族でその本家筋。保馬は半平太側の一族で甥。この二人は半平太の切腹時、介錯を務めた。いや、藩にやらされた。以来、二人は笑ったことはなかったし、寿太郎は死んだ目となり、保馬は顔面神経痛を患った。二人ともその表情から何も読み取れなかったのだ。普段なら不気味に見えるふたりだが、かえっていまはそれが二人を豪胆に見せた。

 その一方で恐れをあらわにしている者たちもいる。万寿弥、孫次郎、金三郎の三人で、そろいもそろって牢獄での地獄を思い出していた。

 土佐藩での拷問は伝統的に搾木と言われる大掛かりな装置が使われる。原理は酒造などで酒から酒粕や雑味を絞り取るために用いられる木槽天秤搾りと一緒である。棒の一端を支点にし、別の先に重石をぶら下げる。当然、その中間には下への力がかかる。その力を利用して足を締め上げる。

 やり方はこうだ。三角の材木を並べその上に足を置く。それを挟み込むように上からもキザキザの板を乗せる。そこに天秤絞り器で上から圧力を加える。拷問をかける側にとってなんと労力のいらないことか。そして無慈悲で、疲れることの知らないその相手は重石であり、装置なのだ。心的外傷を負わせるにも十分効果があった。三人がさんにんともこの世界と、搾木が鎮座する拷問部屋が重なって思えた。

 拷問部屋に入れられた時の恐怖感。感情とか通り越して直接本能が叫びをあげる。あの時、己の運命を呪った。あがくだけあがいて死ぬ。腹を切って逝くこともできない。この状況がそんな想いと重なってきてそれでもまだ砕けそうな心を必死に保ち、かわいそうに万寿弥、孫次郎、金三郎の三人は今度もそれと立ち向かわなくてはならない。

 残りの者たち、清平、幾之介、退蔵、助太郎、楠次、多司馬の六人はというと成り行きに任せるままである。つまり、ぴんと来ないのだ。戦って死ぬでもなく、なにかそれと似た感じのことが身の回りで起こったことがない。当然と言えば当然だが、この不安というか、胸糞悪いというか、それを使命感とかなにかに目先をかえることが、だから出来ない。

 とどのつまり彼らの思考はこうだ。『遊び』を終わらせこの世界を消したとしよう。それがなんの名誉となるのか。名を残すとか生きた証にもなんにもならないではないか。この世界は無かったのである。そして本当の世界はこの世界のことは知らない。その一方で、間違いなく向こうの世界の己は国事に奔走している。倒幕という大業、そして王政復古という壮挙。どういう訳か他人ごとになってしまったがそれを思うと、この期に及んでも向こうの己に嫉妬してしまう。

 そんな別世界の己への想いに、清平ら六人はこころの整理もままならず、戸惑っている。ノコギリと遊んでいる清平に、つるんでいる幾之介はいざしらず、退蔵ら四人は笑えるとか、腹が立つとか、感情の反応にどう対処していいかまごついている。そしてそれを押し隠すように冷静さを装っている。

 見た目に、その冷静さが板についていない。なんのためにそうしているかも、もうさだかではないのだろう。だから装っているはずの冷静さは通り過ぎ、いまはほしくない清平の行動も相まって、冷たい視線に変わってしまう。

 ばらばらな感情が絡み合う中で、討伐隊は浮足立っているといえよう。もはや一番隊も二番隊もなく、上士も下士もない。乾という箍が辛うじて彼らを繋ぎとめている。

 その乾が突然、手を止めろと言う。その視線が指す先、濁流が造った岩の群脈を僧の一団が跳ね降りてきていた。

「隊列―っ 組め!」

 その唯八の一声に、みな反射的に並んで銃を構える。

「唯八、僕が言うまで撃たすなよ」と唯八に耳打ちする乾。

 その一糸乱れぬ動きに目を見張ったのが若い僧である。立ち止まって右手を挙げる。すると一途に、他の僧らがそこに集った。

 隊のだれもが疑問に思ったに違いない。照準から目を離し、やつが首領か? と若い僧を両の目でうかがう。

 どう見てもちぐはぐなのだ。たおやかな青年が屈強な男らを侍らせている。考え得るなら、高貴な生まれか? 公家の二男、三男は寺に入るのを余儀なくされる。それなのかと、引き金に触れるみなの指が緩んでしまっていた。

 それを唯八は見逃さない。「気を抜くな! ここでは何が起こるか分かったものではない」

 その通りだとだれもが思った。一瞬緩んだ緊迫の糸がまた張り詰めた。

 一方で、若い僧はというと、ふーんと感心した目で土佐藩兵を眺めていた。さすがに土佐者はちがうなと思いつつ、このまま睨みあってもつまらんし、と声を出す。

「わたしは高野山金光院院主、空心というものだ。桐の箱を探しに来た。ご存じあるか?」

 若い僧は思う。土佐藩兵がじきじきにお出ましともなれば、そしてこの状況。桐の箱が彼らの手の内にあるのは瞭然。だがそこは初見である。刺激しないためのも謙虚な態度で臨みたい。

 一方乾らの反応はそれぞれで、一旦高まった集中力はぱっと拡散してしまった。口々に、桐の箱? なぜその存在を知っている? やはり高貴な出で、桐の箱はあやつの持ち物か? と言葉がつく。唯八も乾を見て、判断を待っている。

 それを察したのか、察しないのか、やっと口についたのは「銃口を外すな」とその一言だけで、乾はまた黙ってしまう。

 仕方ないと唯八。

「構えよ! 私語は許さん!」

 空心はというとだんまりを決め込む土佐藩兵に、どうしたものかと考えた。最新装備から見ても一筋縄ではいかないのは分かり切っている。問題なのは指揮官だ。近づくにはこちらから言葉を発しなければいけない。そしてそれを相手は待っているはず。さて、どこまで教えてやろうかの。

「実は桐の箱はわしらの持ち物だったのじゃが、失のうてもうてな、取り戻しにきた。中に札が二十一枚入っている。絵柄は雲文様じゃ」

 まずは見た目だけを言ってみたが土佐藩兵の動きはない。食いついてこないのに、空心が続ける。

「この地形は『雷神』が造ったものじゃろ? 知ってのとおり、桐の箱は忌むべきもの。見た所、御仁らも散々な目にお会いになったようじゃ。終わらせるのに協力させてもらえぬか?」

 そこで空心もだんまりを決め込んだ。さて、土佐の指揮官はどうでるか。

 これで高野の一団が『遊び』に精通していることは乾らに知れた。いままではほとんど乾の推測でことが進められてきた。ある意味、それが乾への求心力となっていたといえよう。その一方でみなの心には推測の域から脱し得ない現状への不満が絶えず付きまとっていた。それがやっと、分かるというのだ。もしかして世界が分かれたなんて世迷いごとと一蹴してくれるかもしれない。そんな一分の望みに、みなの表情が明るさを見せた。乾はというとそれを止めることは出来ないし、そうするつもりもない。だが、そのまんま高野の一団を隊に紛れ込ませては味方だったとしても、組織として危険極まりない。そう乾は考えていた。問題はだれに高野を面倒見させるかである。唯八という手もあるが、彼は指揮官である。やはり隊長の中から人選するのが順当であろう。朝からの様子から見ても、人あたりの良さからみても弥太郎がうってつけだ。

「大石君、やつらは君に預けるよ。君は一番隊を離れ、高野隊の隊長だ」

 そう言うと矢継ぎ早に、「唯八、かれらのところに行って、銃を向けたのを謝って来てくれ」と命じた。

 果たして乾と挨拶を済ませると空心は札の場の前に立った。ぱっと二十一枚の札を見、次にざっと並んだ顔を見渡す。子供が混じっているそこに目を付けた。

「これを始めたのはお嬢ちゃんと坊かな?」

 安吾が言った。「わしじゃ。川で拾った」

「難儀させたな。で、この状況で一枚も減っていないところを見るとお手付きでもしたのかな」

 安吾が言った。「わしじゃ。ねいちゃんの途中で触った」

 だれも口を出さない。全てを空心にゆだねていた。

「何回順番を回した?」

「一回」

「すると坊が一番目でお嬢ちゃんが二番目か?」

 どうも安吾はしっくりこない。自分たちとほとんど年端の変わらぬ者に坊とかお嬢ちゃんとか言われているのだ。「わしは安吾じゃ。おねえちゃんはたえじゃ」

「これは悪い悪い。つい癖でな。それでどうじゃ? 一回ならわしも入ってやれるのだが」

 一旦、言葉を呑んだ安吾が言った。「ごめんな。おねえちゃんが一番で、わしが二番、それで小松さんが三番」

 この言葉に、空心は入れないことを察した。順番は一巡し、それでたえの番で止まっている。残念なのを大きな呼吸で心の奥に仕舞い込み、言った。

「小松さんというのはだれかな?」

 一斉に、みな視線が新兵衛に向かった。「あ、初めまして」

「こちらこそ」と空心、深々と頭を下げる。「ことの成り行きを説明してくれぬか?」

「え? いや、それは乾さんに」

「どうしてじゃ、そなたが一番よく知っているのじゃないのかな?」

 乾が割って入った。「いいよ、僕が話そう」

 そう言って十二月六日に『札合わせ』が始まって以来、藩校致道館に集まったことも、演習しながら鏡村に入ったことも、全てを話して聞かせた。ただし新月のこととか己の推測は省き、あったことだけを話した。空心はというと無い顎髭を撫ぜ、聞き入っている。その動きがあまりにも板についていて気味が悪い。

 そんな空心が聞き終わるといままでにない険しい顔を見せた。眉間に皺を寄せ、目をがっと見開いている。なにか問題でもあったか?

 みなが不安に駆られているところへ、やっと空心が口を開いた。

「あなた様らはもしかして土佐勤王党の方々ではあるまいか?」

 どんな化物の話よりもなによりも、空心はそこが気になったとみえる。

「そうだ」と弥太郎は誇らしげに答えた。空心が続ける。

「乾という姓を聞いたことがあるが、もしかして倒幕の雄、土佐のあの乾様か?」

「そうだ」とおせっかいにも弥太郎が答える。

 うーむと空心は唸ると目を瞑った。その一方でその仲間らは殺気立つ。「いや、まずは終わらせることが先決じゃ」と空心は配下を見もしなかったが、伏した目線でそう言った。そして乾らに向けて言う。

「わしらは四年まえに恐ろしいめを見た」

 だれもが察した。尊皇攘夷運動が頂点に達したのがちょうど四年まえ。空心の言う恐ろしいめ、とは浪人らが大和国で決起したいわゆる天誅組の変を言っているが、そこで土佐勤王党出身者が中心的な役割を担っていたことは、あまりにも有名だった。

「じゃが、今は恨もうはずはない。私心を捨ててわれらはここに来たのじゃから」

 空心はさらに続けた。

「金光院は後醍醐帝の勅命を受けていてな、この桐の箱、『月読』を代々守っておった。それが百六十年以上も前に紛失してしまって、われらは以来、ずっと探しておった」

 やはりなと乾は思った。『月読』という名。昨日新兵衛が当てた札、月の満ち欠けしてる絵がこの『遊び』の肝であることを暗示している。そしていままでの推測もあながち間違っていないと確信した。その一方で乾は、空心が嘘を言っていると思った。後醍醐帝は南北朝時代の天皇で南朝側だが、その南朝は吉野朝とも言い、吉野山はその頃、高野山とは犬猿の仲であった。それもそのはず、高野山は北朝にくみしていたのだ。だが現時点、それは言及しない。空心らが色々知っているのは確かだし、いまそれを突っ込んで諍いになるのも厄介だ。

 弥太郎が言った。

「空心殿、もしかしてあなたたちはあちら側の世界からきたのではあるまいか?」

 その言葉が空心にとってあまりにも唐突だったのだろう、ぎょっとしている。「どうして」と口走ったが後は大笑いであった。

 その様子にだれもが呆気にとられた。弥太郎のことをばかにしているとは思えない。空心の、一瞬だが、その慌て様。核心をついたのはうかがい知れた。

「御手前は? 名はなんと?」と空心。

「大石じゃ。大石弥太郎だ」

「そうですか、あの大石様でごさいましたか。ご高名は日頃よりうかがっております」

 空心は頭を下げた。弥太郎もそれに返す。空心が続ける。

「まずは最初から話さなければなりませぬな」

 そう言うと『月読』の縁起から始めた。造りだしたのは、鎌倉幕府を倒し親政を復活させたことで知られる後醍醐天皇。当時の名だたる呪術者らの助力を得、『月読』を生みだしたという。

 以来、『遊ばれた』のは三度。一つに当然のことながら後醍醐天皇、一つに高野山金剛峰寺座主良運、一つに紀州藩主時代の徳川吉宗。さらに話は『月読』の決まりにおよぶ。


 一、捲った札が二枚合ったらその札は場から抜けて桐の箱に収まる。合わせた者はさらに札を捲ることができる。


 一、『遊んでいる者』以外、触ってはいけない。助言もいけない。もしこれを犯したならばその者は雷に撃たれる。


 一、『遊んでいる者』の不正は一回。罰は始めからのやり直し。場は配り直される。順番は変わらず。一枚捲った後に不正が行われた場合でも再開後には二枚捲る。ただし二回目の不正は雷に撃たれる。


 一、『遊んでいる者』が死ねば入れ替わることが出来る。


 一、完結すれば遊んでいた時間は失われる。ただし『遊び』に参加した者はその限りではない。



「実は『月読』には裏の決まりがあってな、完結した時点で札を収納する桐の箱を手にした者は、『遊び』に参加しょうがしまいがその所有者になるという。桐の箱は所有者の前でしか開けられない。そして完結後というのがみそじゃな。恐ろしいことに時間が失われるのじゃ。さすれば当然、ここにある全ては無に帰す。その瞬間にその場にいて冷静にいられるとは限らない、どんなに修行を積んだとしてもな。さらに言わせてもらえば『遊ん』でいるその場に行けるかどうか。それでわしらの祖はある術を考えた。思念体をこの宇内に飛ばす。その場に行きさえすれば『遊び』に参加出来ずとも桐の箱はその手に入れることが出来る」

「つまり、あなたたちの本体はまだあちら側の宇内にあると。じゃぁ、こちら側のはどうしているんだ」と弥太郎。

「じっと死を待っているじゃろうよ。そういう約束じゃからな。ま、いま頃、瞑想にでもふけっているのじゃなかろうかの。と、いうわけでわしらも、わしらの前の代の者らも、さらに前も、桐の箱を失のうてからというもの、みな己の生きているうちに使うか使わぬか分からないこの術を日々磨いていたという次第」

 大体のところは乾ので間違いなかった。やはり成す術もなく絶望的でほとんどの者の顔が灰色に変わった。その様子に空心は内心、ほくそ笑む。かわいそうに、相当こたえているようじゃの、消え失せるのからは逃れる手があるにはある。が、教えはせんて。せいぜい仲間同士で足を引っ張り合うんじゃ、勤王の草莽らよ。

 空心が言った。

「残り四体の化物についても知っているが、いま言うてもどうにもならんじゃろ。ただ、ここが海の近くでなくて幸運だったとだけ言っておこうかの」

 唐突に、本堂の残骸がきしむような音を立てた。握りよい太さに長い材木を寿太郎が引っ張り出そうとしている。傾いた柱に足を突っ張り、体重を乗せていたところ、バキッとそれが抜けたと思ったら今度は確かめるように振ってみて、納得いったのか槍を構えるかのようなかっこをする。そこでやっと、みなの視線が己に集まっているのを気付いたようだ。だが悪びれもなく座り込むと木材を削り始めた。寿太郎の島村家は槍術をよくするので名が通っている。暴れまわるうわばみに圧死した甲冑次の父島村寿之助などは半平太と共に道場を開き、そこで槍術を教授している。因みにその寿之助はこの九月、終身禁固処分がとかれると京藩邸の留守居役を命じられ、いまは京にいる。

 手製の槍を造ろうとしている寿太郎になにか感じたのだろう、保馬が人垣から抜けて岩の群脈を上がっていくと木片を拾い上げ、振り回している。その振り感に納得できなかったのか、投げ捨ててまた岩石群を上がっていく。

 みな、顔を見合わせた。考えたのは『刀鬼』である。太刀を渡せば丸腰だ。鉄砲もあるが、ふたりの行動はどういうことなのだろう。呆けていることが置いてけぼりを食ったようで不安に駆られた。我も我もと岩石群を登っていく。だがそんな勝手を唯八が許すはずがない。声を掛けようとしたところ乾が止めた。

「いいじゃないか」

 乾といえども、今度というこんどは従うわけにいかない。そのまま逃げられるということもありうる。唯八は食い下がった。

 乾が言った。「なら、幾之介と楠次は戻してくれ」

 はっとした。ノコギリの作業がまだ途中であったのを唯八は思い出す。豪次郎と謙吉は残っていた。行ってしまった二人を呼び寄せるため、唯八は慌てて走ってゆく。

 


 一、完結すれば遊んでいた時間は失われる。ただし『遊び』に参加した者はその限りではない。


 安吾とたえはというと、ずっと体を硬直させていた。『遊び』に参加した者はその限りではないという部分。それを聞いて忘れよう忘れようと思っていた六日からの出来事が克明に、いや、目の前にまざまざと映し出されていた。それだけでない。血の匂いも鼻についてき、悲しさや恐怖感にも襲われていた。たえなぞはそれに加え、父と喧嘩しただけで桐の箱を持ち出したという後悔の念にもさいなまれる。

 そのふたりの姿を見て、推測とはいえあの時、言ってやるべきだったかと乾は思っていた。『遊んでいる者』が『月読』を知らなければ永遠に同じことが繰り返される。簡単な理屈である。遅から早かれ、知れることなのだ。昨日の時点なら一晩明かして心を落着けさせることも出来ただろうがいまこの時点で、ともなるとこの二人からどんな弊害がおこるか分からない。まずは新兵衛だろう。もともと己の無い男なのだ。だから人の感情に振り回されやすい。果たして新兵衛はふたりを前にして狼狽えている。

 実際新兵衛も、となるとそれはやはり問題だ。この三人には終わらせるだけでなく、『月読』の札を葬るのに協力してもらわなければならない。そういう意味でいうなら空心には桐の箱を渡すつもりはないのだが、いまはそれではない。乾は三人の前に立つと安吾の前にしゃがんだ。

「僕にかたき討ちを頼みに来た時のことを君は覚えているかい。あの時は全てを失ってなんにもなかっただろ。その上で辛い思いがあった。それが今日、辛い思いは消えないと分かった。でも家族は取り戻せると知れた。始めと比べてみなよ。差引一つ、儲けじゃないか」

 そう言うと乾は笑顔を見せた。納得したのか安吾も笑顔を見せた。たえもだ。新兵衛はというと胸をなでおろした。が、内心、二人はなにひとつ儲けていないと思った。六日以前は幸せな生活を送っていたはずなのだ。

 その一方で、もう弥太郎は空心と打ち解けていた。後醍醐帝に勅命されたというのが良い印象を与えたようだ。気持ちよく雑談していると、そこへ多司馬が突然割って入ってきた。空心の言っている意味は分かるが、『月読』が終われば具体的にはどうなるかを教えてくれと言うのだ。

「ぱっと光に包まれてその光ごと桐の箱に吸い込まれると伝わっているが」と空心。

「痛いのか?」

「痛くもないし、怖くもない。消えるだけだという」

「あの子たちは?」

「消えるときは御手前と一緒じゃよ。それで向こう側の宇内で、はっと気が付く。そしてそういえばこんなことがあったなと思う。それだけじゃ」

「そんとき、わしらはどうなっている。箱の中か? それとも閻魔に会っているのか?」

 空心は笑う。「それは知れぬわ。わしじゃなく、死んであの世から帰って来たもんに訊かんとな」

 そんなやり取りも、乾は聞き逃すはずもない。安吾やたえに笑顔を振りまきつつ、さて吉と出るか凶と出るかと思っていた。空心らを加えたことは成り行き上、止むを得ないことではある。とはいえ、空心らを縛りつけて洗いざらい吐かすことだって出来たのだ。そしてその方が弥太郎らの性にも合っているだろう。

 だが、さぐりさぐりでいいと乾は考えていた。現時点、取り敢えず終わらせるという目的は、辛くも空心と重なっている。そこまでは力を借りよう。しかしいずれ空心らの尻尾を掴み、最終的には桐の箱は渡さない。『月読』はその成り立ちから、重大な何かの為に造られたと想像出来る。図らずとも、空心らの弱みは、本音を、大事なことをまだ言っていないとうことろなのだ。

 謙吉、幾之介、清平、楠次、豪次郎の五人は河渡しの蓮台を思わせる担ぎ棒のついた台を作り上げた。当然そこには札の場があり、桐の箱も置かれていて、その蓮台が唯八を先頭に棚田のあぜを運ばれていく。

 果たしてたえの屋敷の裏山で蓮台を中心に人垣が出来る。ある者は顔に血の気が失せ、ある者は生唾を呑む。これからまた昨日のような災厄に見舞われるのかと思うと冷静でいられない。

 その一方で空心らはというと修行の賜物か、はたまた命の危険がないためか、だれひとりとして眉一つ動かしていない。だが昨日を知る者にとってはそれが片腹痛い。札の化物がどんなものか聞かされているだろうが、聞くのと実際その目で見るのとでは訳が違う。いざという時になれば足を引っ張られかねない。清平と幾之介は高野隊の隊長となった弥太郎をうかがった。連中を押し付けられて可哀相に、と二人がふたりともそう思っていた。

 そんな弥太郎はというとひとり逸っていた。時代を超えて帝に御仕え出来る、と考えているのがその様子からありありと見えた。可哀そうでもなんでもない。それがかえって清平と幾之介に苦い笑いを誘う。

 水を打ったような静けさ。たまに吹く風が足元の灰塵を巻き上げ、その塵が蓮台の上に舞い落ちたかと思うと掃かれたように板づらを滑って宙に消える。木目の模様と無秩序に広がる札。図案化された雲の絵が煤けた板目と妙に合い、美しささえ感じてしまう。

「始めようか」

 乾がそう言うと突然、空心が待ったをかけた。「結界を張りたい」

 その配下二十二人が一斉に散った。蓮台を中心に大きく円を描いてそこで胡坐を組んだかと思うと経を唱え始める。

「雷や炎は、やはりやっかいじゃ。で、この修法は超自然的なものを一切受け付けないよう先人が考案なされたもの。つまり『雷神』はもとより『九尾』の侵入を阻む結界じゃ。しかも放たれるその雷や炎をも遮断する。それでもって鬼の『刀鬼』や『牛鬼』にも効く。されど、いいことばかりではない。そっちに傾くあまり、『うわばみ』や『大百足』はもとより『九尾』の小狐には効かない。実際の自然界で象っているものにとってはこの結界はないものと同じなんじゃ。良いのか悪いのか、それで我らも結界の外と中を自由に行き来は出来る」

 すでに結界は張られていた。二十二人のすぐ内を、饅頭状に結界が象り、中の乾らと空心を覆っていた。だが高野の者ら以外、それは見えない。みな、空心の説明をあんぐりと口を開けて聞いていたが、そもそも別世界から来たこと自体、信じられないことなのだ。そういう点から、ある程度は効果を期待できるし、札を前にしたときの態度からよっぽど勝算があるように思える。彼らは百年以上、いや、もっと前からこの日のために準備をしてきたはずなのだ。

 いけそうな気がしてきて、新兵衛と安吾とたえは蓮台を囲んで座る。二十一枚それぞれの位置を目に焼き付けると互いに顔を見合わせた。

 やはり緊張は尋常でない。捲り出したら、捲って捲って脱兎のごとく走り抜けなければならないのだ。そのためか、自然と呼吸を合わせようと互いに息の調子を探り合う。だが三人がさんにんとも、かえって胸苦しくなる。呼吸は荒くなり、唇も紫色を帯びてくる。

 それを見かねたのか、空心が言った。

「終わらせるのに後醍醐帝は数千の軍勢を要した。高野山金剛峰寺座主良運様はたった五名。吉宗公は高野僧、侍合わせて三十余人。帝の場合はいたしかたなかろう。といっても良運様はその法力ゆえに座主についた御方じゃ。そのおふた方らは別として、凡庸な吉宗公が終わらせられたのじゃ。その時の陣容と今回はほぼ変わらぬ。やり方もその通り進める。実績があるんじゃ。心配するでない。肩肘張らず気楽にやれ」

 正直、その言葉に新兵衛ら三人は勇気づけられた。怖いのもあったが終わらせられるかどうかも不安だった。だが、空心らの先人はこの方法で実際に終わらせたという。これほど心強いことはあろうか。

「始めます」

 と、たえらしくもなく声を張り、その手が伸ばされた。


 九本の尾を持つ金色の狐と『九尾』


 さらに捲る。


 黒々とした外骨格の百足と『大百足』


 安吾も続く。矢継ぎ早に二枚捲った。


 白い蛇に『うわばみ』


 雲に乗る公家風な男と『雷神』


 次々に引く、と申し合わせていたにしろ、それをやったらやったで空恐ろしくなる。どの札も生半可ではないのはその身を以って知り得ていた。少なくとも、二人が場を広げたのだ。新兵衛にはそのうちのどれかを引き当ててもらわなくてはならない。生唾を呑んで見守る一方で、新兵衛はというとそんな皆の凝視も気にはならない。刀鬼や牛鬼と戦った時のようなあの集中力を見せた。


 黒々とした外骨格の百足と『大百足』


 おおーっとどよめきが起こる。よくぞ引いたとでもいいたいのか。しかしそんなことはいまの新兵衛にはどうでもよかった。たえが二回目に捲ったのはこの札!

 

 黒々とした外骨格の百足と『大百足』


 歓声の中、その二枚の札が跳ね上がり、すっぽり桐の箱に納まる。だがそれに一瞥もくれず新兵衛は手を進める。

 

 白い蛇に『うわばみ』


 二度連続で初出の札の相棒を引き当てる。そして今度も慌てることなく、安吾の一枚目に捲った札を引く。


 白い蛇に『うわばみ』


 絵の合った二枚の札が跳ね上がる。だれもが声をあげ、手をたたいた。あの巨体が暴れまわることを見ずにして終わったのだ。しかもよくよく考えれば、結界も効かないと脅された化物だった。それを軽々と乗り切った。

 とはいえ驚くべきはいざとなったら発揮する新兵衛の集中力。もうすでに己だけの世界に入っていた。傍から見ていると何かに取り憑かれたようである。いや、祖霊か守護神かなにかがのり移ったと言うべきなのか。まるで人が変わって見える。その新兵衛がさらに続ける。

 

 蜘蛛のような形で頭が牛の怪物と『牛鬼』


 ここで初出である。だが新兵衛は慌てなかった。捲り済みで残っているのは『九尾』と『雷神』。結界が効果を発する相手であった。この『牛鬼』もそれと同様、結界を越えられないという。しかもこいつは夜にならないと襲ってこない。あわてる必要もないが、ひいてしまったのだ。己の手でもう一方の『牛鬼』を是が非でも引き当て、続けざまに『九尾』と『雷神』を屠り、さらに完結に向けてまい進する。

 とはいうものの、すでに狐はあちらこちらの山から湧いて出てきており、逃がさないというつもりであろう、高台を取り囲むとじりじりその間隔を狭めていた。山中に逃げた大百足を襲った時はほとんど追い込み猟であった。今度は取り囲んおいてとどめは首領の九尾にお任せしようという腹に違いない。

 しかし新兵衛は目もくれない。札の場をじっと凝視して動かない。

 どこを向いてもいきり立った狐である。包囲を縮めるたびに個体同士が接近、やがては接触。見る間にもう、芋を洗うようである。高台から逃げ出そうにも、こうなってはもはや遅すぎた。

「はやくしろ、新兵衛!」とだれもがやきもきして空を見上げる。そのうえ、もうそろそろ九尾が現れる頃合い。

 案の定、金色の狐が天駆けてきたかと思うと九つの尾を広げて足を宙に突っ張る。

 開いた口から業火が噴出した。

 みな、肝をつぶす。

 燃え盛る火の渦が向かってくるのだ。だが奇しくも業火は結界に遮断されて届かない。胸をなでおろすのも束の間、今度は豪雨である。

 それにも結界が効果を発揮した。見えない壁に雨粒の弾かれる音が激しく高台に響く。昨日の雨はこれほどまでに強い雨だったのか。そしてだれもが思い出す。うわばみと対峙した時にうけた雨粒の痛み。あれに撃たれないで済んだんだとだれもがほっとしまじまじ空を見上げる。それにしてもあまりにも激しい雨足。山崩れが起こっても不思議ではない。そして土石流も。

 豪雨は結界表面で飛沫をあげ、そして流れ落ち、その形状を浮き彫りにする。まん丸い半球状の屋根にすっぽり覆われているのが分かる。その雨水の流れる結界越しに、ずぶ濡れの九尾がふらふらと宙を彷徨っているのが、にじんで見えた。

 そこに閃光である。

 また九尾が稲妻にやられたかと思ったが、随分経ってから雷鳴が響いた。雷神はまだまだ遠くにいる。九尾はというと一目散に天から駆け降りる。次の瞬間、閃光と雷鳴が同時に起こった。

 落雷したのは真上、結界にである。

 だが、衝撃もなにもなかった。まったくかき消されたのだ。ほっとして見渡すと狐の大群に紛れた九尾の姿がある。以前、稲妻を食らったのは大百足に気をとられていたのであろう。警戒している様子から前回と同じようにはいかないようだ。

 その九尾が健在となるとその眷属が問題である。業火も雷も結界が奇しくも効果を発揮した。空心の解説通りと言っていいだろう。感服はする。するがそれの通りならば、空心の小ばかにしていう『小狐』は紛れもない、脅威である。この数で一斉にかかられでもすれば目も当てられない。九尾の命令一つで結界から追い立てられて業火の餌食か、あるいはそのまま食い殺されるか。

 うまく引き当てていく新兵衛を感心していたのは遠い昔。いまは一転、その名を呼ばわりながら、腑抜けとか、臆病者とか、日頃思っていることを口々に言う。

 新兵衛はというとそれが気にならないどころか、聞こえていない。札を強く見れば、雲の文様を透かしてその向こう、化物の絵が見えてくるように思えた。すると気持もどんどんそこへ入り込んでいく。果たしてほしい絵が札にくっきりと浮かび上がった。


 蜘蛛のような形で頭が牛の怪物と『牛鬼』


 これだ! まるで表を向いていたような札は、裏返すと間違いなく『牛鬼』であった。これも例にもれず二つ合って桐の箱に飛び込む。打って変わって歓声の中、新兵衛はさらに続ける。


 雲に乗る公家風な男と『雷神』


 まさに神がかりとはこの事であった。雷の元凶、その相方の札を見事引当て、安吾が捲った二枚目を裏返す。


 雲に乗る公家風な男と『雷神』


 絵が合い、桐の箱に札が消える。

「おっと、しまった。結界が邪魔じゃて!」と空心が桐の箱を手に取ったかと思うと走っていき、結界の外へ差し出す。そこから渦巻が起こったと思うと雨水を巻き込み、公家風の男も吸い込まれる。すると眼前に、きれいさっぱり雲ひとつない青空がぱっと広がった。

 みな体いっぱいに喜びを表現した。手を突きあげる者、しゃがみ込んで拳を握る者。たえと安吾は手を取って飛び跳ねた。

 そんなことになっているとはつゆ知らず、新兵衛が札の場に手を伸ばす。それを見た誰もがぴったりと動きを止める。そしてその指の先を凝視する。


 九本の尾を持つ金色の狐と『九尾』


 奇跡! 皆の喜び様はほとんど雄叫びである。歓声を上げると一転、新兵衛の次に送る手を見守る。間違うべくもなくそれはたえの捲った一枚目へ向かう。

 きた! きた! きた! 

 紛うことなく新兵衛の指先が、皆が注目する札に触れる。固唾を呑んだ。


 九本の尾を持つ金色の狐と『九尾』


 途端、二枚は跳ね上がった。それが宙を舞ったかと思うと結界の縁にいる空心の手元、その桐の箱へ飛び込む。その瞬間を視認した空心は次に結界の外へ箱を突き出す。

 九尾は竜巻に巻かれた。それがその渦ごと桐の箱に吸い込まれていく。途端、目が覚めたように狐たちは、はっとなって左右見渡し、遂にはおどおどと、山に戻ってゆく。

 年甲斐もなくだれかれ関係なく抱き合った。喜びは一通りではない。これで残すは十一枚。『月読』を除いたら化物は五体。瞬く間の半分をやっつけたのだから残りもそう問題にはならないだろう。終わったも同然だとだれもが思った。

 いや、乾はそうは思っていない。最後の一枚になにかもう一つの秘密が隠されているのではないかと思っている。これだけ大掛かりな『遊び』である。勝者に何もないと言うのも味気ないし、造った人が問題だ。後醍醐帝。呪詛で幕府を倒そうとした経歴の持ち主。

 その秘密がいかなるものなのか。新月にまつわる迷信がある。それから言って、だいたいの想像はつく。だが空心は現時点、どう転んでも『遊び』の勝者とはなりえない。『遊んでいる者』ではないのだから。そこでだ。こういう決まりがある。



 一、『遊んでいる者』が死ねば入れ替わることが出来る。


 つまり新兵衛ら三人は狙われているということだ。空心が順番に入りたかったことからしてみても、だれかの代わりを画策している。

 果たして調子のよい新兵衛に、空心が待ったをかけた。落ち着いたし、これから長丁場になるかもしれないのだから一旦、休憩しようというのだ。これにはだれもが反対した。このままいかせたほうがいいというのだ。当然といえばそうだ。新兵衛はのりに乗っている。弥太郎なぞは特にえらい剣幕である。高野山部隊を率いているのは自分だという自負もある。意見があるのならまずこの弥太郎に相談すべきではないか!

 しかし、それで新兵衛の憑き物が落ちた。まるですっとんきょな顔を見せ、あの鬼気迫る迫力はどこへやら、跡形もなく消え失せていた。

「どうします?」

 いつもの新兵衛がそこにいた。あっけにとられた弥太郎は指示を求める視線を、めずらしく乾に送る。

「休憩にしよう」

 そう言うと乾は空心に切り返した。「これで、よろしいですかな?」

 それに愛想笑いで答えた空心であるが、その手にはちゃっかり桐の箱がある。そんな空心に、勝手な言動のかたき討ちではないが、休憩するならちょうどよいと弥太郎が言った。

「決まりでは、不正は雷と言ったが、この結界だ。逃れられるのではないか? どうじゃ、御坊!」

 


 一、『遊んでいる者』以外、触ってはいけない。助言もいけない。もしこれを犯したならばその者は雷に撃たれる。


 確かにもっともだとだれもが手をぱんと叩いた。もしそうならだれでも横から口出し出来る。特にたえなぞはいざという時、不甲斐ないので指示通り捲らさせる方がいいだろう。

 だが、空心は分かっていた。罰になされるという雷は、落雷というより電撃なのだ。それでもこの言いがかりを逆手にとるのも策としてありかと考えた。丁度、確認したいこともあった。わざと話に乗ってやって、こちらの用事を済ませておこう。

「懐栄!」と呼ばわった。

 結界の外で修法を行っている僧らの中から一人が返事をした。それが空心のもとに駆け寄る。

「札を触ってみい」

 僧は二つ返事で、顔色も変えず札に触る。

 ! 

 消えた。息でふっと蝋燭の炎をかき消したようにその姿が失せてしまったのだ。やはり思念体だからかと空心は思った。結界は先人が使って役立つのは承知だったが、この法力に関していえば、高野山史上今回が初めてだった。

「死んだのか?」と弥太郎。

 みな、目を白黒させている。

 いや、死んだわけではない。「あちらの世界に戻されたのだろう。『月読』はわしらを侵入者だと判断したようだ」

 思念体は画期的であったが万能とまではいかなかったようだった。その眉間に皺を寄せる空心の表情から、乾はその心のうちを察した。雷に打たれない、言い換えれば罰を受けない。そして排除。それは参加者として認められていないということ。空心らはどう転んでも『遊び』に参加出来ない。逆を言えば新兵衛らに危害が加えられることはなくなった。あるいはなんらかの間接的な手を打ってくるか。

 はっとした乾は、まてよと思った。参加、不参加でいうならば、雷に打たれた池田陽三郎は参加したということ。つまりはそういうことか。

 弥太郎が言った。「雷はどうか? これじゃぁ、分からずじまいじゃ」

 うっとうしいな、このガキはと思いつつ、空心は言った。「調べようもあるまい。なにか? お手前らの誰かが雷に打たれてみるか?」

「今の言葉、聞捨てならんぞ!」

「まぁ待て大石君、僕が思うに雷は札から発せられている。陽三郎が札に触れた時、天井は無傷であった。そうだろ、田辺君」と乾。

「たしかに」と豪次郎はうなずいた。

 ちっと舌打ちた弥太郎であったが、納得はしたようだった。

 空心はというと、なかなか鋭いと乾の観察眼と知能に感心した。が、乾は油断ならぬとも思った。やつの目論見通りには進めない。ここはとりあえず目先を変える。

「しょうべん」と結界を出た。

 それを聞いたたえと安吾は思い出したように席を立った。好機かな? それを見とがめた空心は安吾が追ってくるかと待った。男同士である。並んで用を足すに違いない。しょんべんをしながら、揺さぶってみるか。今後に役立つかもしれん。

 そんな考えをよそに、たえと安吾は空心と別の方向に進み、茂みの前で別れて姿を消した。安吾はついて来るだろうと読んでいた空心だったが、まったくの外れであった。期待と裏腹に追って来たのは多司馬で、仕方なく多司馬と茂みの前まで進んで、用をたす。

「わしは死なねばならないのか?」と多司馬。

 また、さっきの話か。くどいやつめと空心は思いつつ、言った。「死ぬと考えるからよくない。無に還るんじゃ」

「誤魔化すな。ここから抜け出す方法はある。それをあんたは知っている」

 知ってても言うものか。「鎌をかけても無駄じゃ」

「いや、あんたの表情を見ればわかる。なんでもお見通しだと言わんばかりだ。わしらを見下している」

 空心は笑った。「これは失礼。じゃが、生まれ持っての性格。いつもニヤついとるよ」

「しょうがない。おまえの体に訊くか」

「ばかな。わしらは思念体じゃぞ」と言いつつ、はたと思う。このばか、利用できる。「とはいえ、ないわけではないが、難しいのう。いまの状況では」

「というと」

「その時になれば言うてやる。待っておれ。それよりあの子たちはようやるの」

「安吾は地下浪人の子じゃ、根性がすわっとる」

「で、お譲ちゃんは?」

「庄屋の娘じゃ」

「知っていることはそれだけか?」

「不満か?」 

 何も答えず、空心は行く。後ろからまだ用を足す多司馬の声。「約束、忘れるなよ」

「はいはい」と言って後ろ手を振って結界に向かう。

 たえと安吾は戻ってきていた。その横に座って、空心は言った。

「どうじゃろう。桐の箱が戻ったら二人にお礼をさせてもらえぬか? 向うの宇内ではみな、あかの他人、知らん人じゃ、だれにも感謝はされんて。じゃが、わしらは違う。ここであったことは向こうに戻っても全部知っとる。なぁ、皆様方。悪い考えじゃないじゃろ」

 それはそうだ、ということになって、みな、たえと安吾に、そうしろと詰め寄る。場は休憩前までに『大百足』二枚、『うわばみ』二枚、『牛鬼』二枚、『雷神』二枚、『九尾』二枚の計十枚済みで、残りは十一枚。僅かではないか。さっきは興奮の絶頂を止められたのでいきり立ったが、場を見返すとたいしたことはない。

「何がほしいんだ? いうとけ、いうとけ」と皆が言った。

「手前みそにはなるが、高野山は大名とそん色ない。いや、そこら辺の大名よりよっぽど裕福だし、力もある。なんでも言うてみい」

「下士を上士にすることなんて出来ますか?」と言ったたえが顔を赤らめた。

「もちろんじゃ、徳川御三家紀州公に働きかければ簡単じゃ」

 高野山は紀伊にあり紀州徳川家の庇護を受けている。

「お願いします。わたしはこの春、嫁ぐことになります。どうか、そのお相手を上士に」

 たえは深々と頭を下げた。けっこう、けっこうと上機嫌な空心。それが続けた。

「安吾はどうじゃ?」

「わしはない」

「ない? そんなはずはなかろう」

「ない」

「聞けばお父上は地下浪人だという。銭が必要じゃろ? 郷士株を買い戻せるぞ」

「いいや、いらぬ。それよりねえちゃんの願いを間違いなく叶えてやってくれ。わしはそれでいい」

 なるほどなと空心は思った。こやつにはこやつの事情ってもんがあるようじゃ。それはそれでいい。空心としても満足であった。

「さて、乾殿。あんたに折り入って聞きたいことがある。わしには愚としか思えんのじゃ。倒幕はそんなに大事なことなのか?」

 和やかな雰囲気が空心の一言で一気に崩れた。いきり立つのも当然といえば当然。ここにいるものは勤王もあるが、大括りでいったら倒幕派なのだ。

「聞き捨てならんな」と唯八が太刀の柄に手をかける。

 乾が言った。

「まて、唯八。御仁は誤解なされている。倒幕が大事ではない。諸外国の侵略に対抗するために挙国態勢を築こうというのだ。それには民衆にとって新たな価値観が必要だ。侍におんぶにだっこではいけないし、民衆が奮い立つのを抑えるようでもいけない。メリケンのようにフリーダムを唱える国家。平等な機会を与える国家。国防の体系。幕府ではなく侍が不必要となったのだよ」

「いや、違う。この国は天皇という支柱によって民族の体をなさなければならない。なぜならばそれが本来の姿だからだ。それを幕府が邪魔している」と弥太郎。

 うーむと唸った空心。「御高説、ありがたく頂戴した。なぁに、深い意味はない。気に召さるな。かの吉田松陰殿が唱えたという『草莽崛起』に興味があって訊いてみただけじゃ。それに触発され、いまや押しも押されぬ皆様方に会えるなんてこと、金輪際こんからの」

 この国の危機を救うべく早くから活動した憂国の思想家が吉田松陰である。尊王攘夷はこの男に端を発したといっていい。その吉田が掲げた『草莽崛起』とは、古い権力者では改革はできない、民間の志高い者が立たなくてはならないという意で、草莽は『孟子』において隠者を指し、崛起は一斉に立ち上がるということなのだ。さらに空心が続ける。

「それにしても残念じゃ。ここに武市殿がいたなら、どんなに心強かったか。なんでも、ご家族が介錯を務めたというではないか」

 その場が凍った。言ってはならないことであった。寿太郎と保馬がいきり立つのに、みなが戦慄を覚えた。

 それを尻目に、にやりと笑った空心は、ぱんぱんと手を叩く。「どうじゃ、雑談で気持が一新したであろ。さぁ、再開じゃ」

 一新どころかむしろ、後退である。新兵衛に限って言えば、思い出されるのは龍馬からの手紙である。そこでも言っていることは乾と同じであった。とすれば間違いなく、侍の時代は終わるのだ。それはどおってことはない。己の代で家伝『鞍馬刀法』も幕引きにしようと考えていたのも確かだ。

 だが正直、複雑な気分であった。だれとも水が合わずひとり過ごす時、それはいつもそばにいてくれた。山に籠って修行した時も寂しくはなかった。新兵衛にとって剣術とは戦う技術ではなく、話し相手だったのかもしれない。それが失われると言うのだ。そんなの、そんなの、疾うに分かっていたはずだった。だがすうっと血の気が引いてゆく。なぜ? なぜ、みな去っていく。いつかわしはほんとうにひとりぼっちになってしまう。

 そんなことを考えている様が周囲を不安にさせた。心ここにあらずなのだ。それが札を引こうとしている。だが止められなかった。あっ、と思っているうちに新兵衛が無造作に、そしていとも簡単にひょいっと札を引いてしまった。


 弁慶のような僧と『刀鬼』

 

 みな、胸をなでおろした。やはり、今日の新兵衛はついている。『刀鬼』は知らない相手ではない。しかも結界を通ることは出来ないのだ。とはいえ呆けている新兵衛がその片割れの『刀鬼』を引くのは難しい。だが、もしそれをやってのけたとしたらどうだろう。もうバカにはしない。心に誓う。

 そんなみなの期待をよそに新兵衛はさらに札を捲る。


 牛若丸のような美青年と『鞍馬天狗』


 がっくりとはしなかった。そこまでうまくはいかないかとだれもが思ったし、絵の感じから『刀鬼』と同じたぐいだと想像出来た。そして単語にあるのは天狗。ならば結界への侵入はない。

 果たして『刀鬼』が結界の外で実体化したかと思うと一途に向かってくる。その反対側に大口袴に直垂姿、黄金造りの太刀を帯びた男も現れた。薄化粧で髪は高く結いあげられている。

 結界にぶつかった刀鬼はそれでもめげない。前傾姿勢をとり、交互に足で大地を削る。不気味なのは、前進を繰り返すその真反対で平然と辺りをうかがっている鞍馬天狗である。やること一辺倒の馬鹿ではないのかもしれない。滅多矢鱈に向かっても来ないし、かといってどこかに行ってしまう風でもない。目の前に繰り広げられた光景に興味があるとでもいうのか、刀鬼、土佐藩兵、蓮台と札、そして高野僧とぐるりと視線を巡らし、最後に目を止めたのが中空。それは結界を見ているに相違なく、明らかにおのが置かれた状況を把握しようと努めている。そのうえで一筋縄ではいかない、見るからにとんでもないことを仕掛けてきそうな、そんなたたずまいを醸し出している。やつには高等な思考が備わっているのか? だがそんなことがあっていいのだろうか。化物は単純一途のはず。弥太郎が言った。

「御坊!」

 刀鬼は太刀の強奪、牛鬼は人の肝、大百足は大食漢。で、鞍馬天狗は? もしやつが故意に札を捲るのを邪魔する役目とかであったら? これは札を捲って化物を倒す『遊び』なのだ。そんな役目のものがいたっておかしくはない。だが、そんなのはおかしい。許されん。反則だ。空心! 空心はやつを知っているはず。「やつぁ一体、なんなんだ!」

 そんな弥太郎の悲痛な叫びもよそに空心は、手を頭に置いて天を仰ぎみる。

「あちゃぁーっ、大ハズレじゃ!」

 果たして太刀を抜いた鞍馬天狗は経を唱える高野僧の胸を一突きした。切っ先だけを肋骨の間に通したようで、動きに全く力感が見えない。

「結界は呪者の内側に出来る。ほかの化物ならいざしらず、見ての通りやつはおそらくそこをつく。なんせやつは戦鬼! 戦闘が喜び。戦闘自体がやつに課せられた役目なんじゃ」

 そんなことを言っている間にも、空心の配下は一人二人と消えていく。その一方で刀鬼はというと結界にへばりついている。

「この大きさの結界を維持するには最低五人は必要じゃ。それまでにやつを止めなくては」と空心。

 みな慌てて銃を構えた。その威力なら十分牽制にはなる。とどのつまり、『鞍馬天狗』の相方の札を引き当てるしか、止める方法はないのだ。

 要は新兵衛ら三人にその時間を与えればいい。とんとんと進めれば、ものの二十数えるかどうかだ。しかし鞍馬天狗の姿がない。札を捲ろうとしたたえが蓮台に影が落ちたのに気付く。

「上!」と三人。

 結界の頂点で鞍馬天狗が右、左とせわしなく腕を振っていた。その動作が新兵衛の目には手裏剣を飛ばしているように映る。果たしてすべての高野僧が消えたかと思うと結界は消え失せ、そこを足場にしていた鞍馬天狗が落ちてきたかと思うと蓮台の上にすくっと立っていた。

 咄嗟に、たえと安吾を抱いてその場を離れたのは空心だった。新兵衛はというと鞍馬天狗の蹴りを食らって吹っ飛んでいた。

 その一撃は、両前腕で的確に防御出来たはずだった。それがどうして意識と肉体を切断した。正気に戻ったのは地べたに頬をうずめてからである。蹴り飛ばされて、背中から地面に叩きつけられ、それから後転を五つ六つさせられてのことだった。

 なんとか立ちあがり、鯉口を切る。とそこへ、鞍馬天狗が手裏剣を放つ動き。反射的に半身に交わした。にもかかわらず洋服の下襟に、肩口に、裾に裂け目が入る。

 念!

 それは新兵衛に『鞍馬刀法』を思わせた。その言伝えにはこうある。鬼三太という厩役の下郎が主人源義経より伝授を受けたという。その鬼三太は小松家の始祖にあたり、一方の源義経はというと源平合戦の英雄であり幼名を牛若丸と称した。

 悠然と立つ鞍馬天狗の足元にはいまだ連台があり、札の場が広がっていた。やつはそこで敵を待っている。『月読』を『遊ぶ』以上、札を捲らなければならないことを知っているのだ。

 それを追い払うべく最初に行動を起こしたのは幾之介と清平である。銃を構え、その照準に鞍馬天狗をとらえたかに見えたその瞬間、どういうわけか突然二人がふたりとも卒倒した。

 驚きのあまり一瞬、間があったにせよ、みな駆け寄ると名を呼んだり、揺すってみたり、顔を叩いてみたりした。が、起き上がる気配もない。それもそのはず、目はかっと開かれたままである。

 みな、息を呑んだ。

 死んでいる。が、何がなんだか分からない。確かに鞍馬天狗はなにもしていない。あっけにとられてみな茫然としているそこへ、唐突に刀鬼の大薙刀が飛んできた。

 まったくの無警戒である。そしてその殉難を一手に引き受けたのは退蔵だった。胴の半分まで白刃を食いこませていたそこで、その柄を握る。自身が両断されれば横にいる弥太郎と金三郎もその憂き目にあう。武骨な男で通っていた。武士の鑑とまで称され、土佐勤王党に入る以前は山内容堂に徒目付を任されたほどであった。その退蔵ごと、勢いの止まらない刀鬼の大薙刀は両断出来ないまでも、弥太郎、次いで金三郎と三人を束にしてもっていった。

 その間に、ほかの者はというと体勢を整える。構えた銃口が一斉に火を噴く。刀鬼は至近距離からハチの巣となり、背中から大の字に地を打った。

 傍でそんなことになっているなんて、新兵衛は露も知らない。鞍馬天狗を強く見据え、間合いを詰めにかかっていた。

 この敵がいま現れた意味。新兵衛はそれがなんなのか知りたかった。といってもこの偶然の出来事が天与によって仕組まれた運命だと思うほど傲慢ではない。これはたぶん、なにかの悪ふざけ、あるいはいじめか、そういったたぐいのことなのだろう。いいや、家伝を捨てようとする新兵衛に先祖のだれかが罰を与えようとしているに違いない。それならそれでいいと思う。その罪を真っ向から受けてやる。やぶれかぶれ、そういった気分だった。

 無造作に近づいてくる新兵衛に、幾之介や清平の時のように鞍馬天狗は眼力を発した。それを新兵衛はちらりと流し目で逸らす。

 戦闘狂としてはかえって嬉しかったのだろう、鞍馬天狗はニヤっと不敵な笑みを見せると黄金造りの鞘から太刀を抜いた。

 それに呼応して新兵衛も太刀を抜いた。いままでにないほど己の太刀に念が込められているのが分かる。一気に間合いを詰めると一子相伝の型を披露した。


 貞恒布木

 恵納頌火

 賛重調土

 応成羅金

 雨献糸水


 これが小松家に伝わる五つの型である。『鞍馬刀法』は先に紹介したとき、念術と言った。事実、新兵衛は牛鬼と戦った折、鞘に気を溜め、それを太刀に乗り移させた。しかし、それは下法である。

 本来、『鞍馬刀法』はその成立ちから戦場でその真価を発揮した。新兵衛がやったように敵の前で端座して気を練っていては、戦場では勝利を掴むどころか、生き残るのもおぼつかない。

 真の方法がある。それがこの五つの型なのだ。それぞれが独立しているが、実はそうではない。一巡するごとに太刀に気力が上乗せられる。太刀を振るえば振るうほど刃こぼれしていくはずのそれが切れ味を増していくという寸法なのだ。

 それだけでない。身体能力も上がっていく。綿密に計算された動きとそれに合わせた呼吸で、丹田に良質な気が練られ、体内の隅々にまでそれが次々と送られるというのだ。つまり戦うほどに神がかっていくのである。その五つ型を瞬く間に新兵衛は出し切った。体中に力がみなぎっていくのが分かる。当然のことながらそこから繰り出される掌術も眼術も威力を増す。ただし新兵衛はその両方をまだ会得していない。

 二巡目になったその途中で、鞍馬天狗が一転、攻撃を加えてきた。『貞恒布木』から『恵納頌火』に移ろうとした矢先のことである。放ってきた技は『雨献糸水』。

 戦場では無敵かに見えたこれにも弱点がある。その名のとおり、この型は自然界の成り立ちを示した古代中国の五行説になぞらえている。木は火に力を与え、火は灰から土を創り、土は金属を生じさせる。一方で木は土から養分を吸い取りその力を奪い取り、土は水を堰き止めたり、吸いとったりする。前者を相生といい、後者を相剋という。

 まさに鞍馬天狗が放ってきたのは『雨献糸水』であり、新兵衛の『恵納頌火』を打ち消したのだ。それから攻防入れ替わった形となり、新兵衛は捌きに回った。

 鞍馬天狗は『貞恒布木』を繰り出し、『恵納頌火』へとつなげる。五つの型を順に繰り出すその太刀筋はなめらかで流れるようである。型と型の間に生じる動きに矛盾がない。

 なぜか。

 新兵衛は追いつめられると後ろに下がった。鞍馬天狗は蓮台の上から動かないのだ。それをいいことに体勢を整えるとまたかかっていく。

 鞍馬天狗が放つ型は、型であってそうではなかった。それでも新兵衛は、それはあの型、これはこの型と目を皿にして太刀筋を追う。

 過去ずっと、繰り返し繰り返し修練する中で、新兵衛は型に寸分たりとも狂いがないように心を配った。いま思えば、型に使われていたのかもしれない。家伝を研鑽することが唯一の楽しみであり、それ以外は目もくれなかった。そもそもが人嫌いなのだ。型に使われているという発想なぞ毛頭なかったし、内に籠ってそればかりをやっていたのに満足していた。

 しかしなんとも鞍馬天狗の太刀筋は生き生きしていることか。家伝をよりどころにするあまり、新兵衛は己の太刀筋をしばっていたのかもしれない。

 そう思うと口惜しい。受け一辺倒から一転、反撃を開始した。その猛烈にかかってくる様子に鞍馬天狗も楽しんでいるかのようで、互いの太刀はまるでじゃれ合うように、あるいは言葉を交わすようになっていた。

 それも束の間、鞍馬天狗は新兵衛に蹴りを食らわせた。結界を破って舞い降りてきたときのあの蹴りである。新兵衛の体は宙を舞い、また意識を飛ばしてしまう。そして地べたに這いつくばって思う。これは念のこもった蹴り。さっきのあれとは格段に違う。五つの型の効力は半端ではなく、事実、新兵衛は大量の血反吐を地面にまき散らしていた。それからなんとか立ち上がったものの、鞍馬天狗はまだ蓮台の上から一歩も動いていない。太刀を鞘に収め手を差出し、来いという手振りを見せる。

 新兵衛も太刀を収めた。一気に間合いを詰め、蹴りを放った。だが鞍馬天狗の蹴りに造作なく迎撃される。弾き飛ばされ身の釣合を失ったところに間髪入れず掌手が飛んでくる。その手には強力な念が込められているのは想像にかたくない。

 食らったら終わりなのをなんとか払ってかわす。ところがその手を取られて振り回されたかと思うと引き寄せられた挙句、その勢いで投げられる。綺麗にその場で回転させられ、地に背を打った。

 仰向けに鞍馬天狗の股下から見上げると、不敵な笑みが見えた。果たしてかかとが落とされる。当然、そのかかとを潔く受け入れるはずもない。それを半身にかわすとその落ちてきた足を脇に抱え、己の頭越しに蹴りを放つ。

 その足先を前腕で受け止めたものの鞍馬天狗は衝撃を止め切れずにいた。自身を支える一方の足を新兵衛に抱えられてはままならないのだ。残った足で一歩後退した。その隙をつき、新兵衛は退避する。ごろごろ転がって間合いを空けた。

 一方乾らの方はというと、これより少し前になる。大の字に倒れた刀鬼が復活する。起き上がってくるのにみな、固唾を呑んだ。すかさず乾が言った。

「みな、太刀を差し出せ」

 その時点、新兵衛は剣で鞍馬天狗と立派に渡り合っていた。だからといって、蓮台から鞍馬天狗をしりぞけるのはだれの目にも到底無理に思えた。もうぼろぼろなのだ。致命傷は避けているものの、服が切り裂かれていく。そこから流れる血が洋服をまだらに染めている。いずれ気力が落ちて、隙か、あるいは手元を狂わすか、殺されるのは時間の問題だと思えた。

 それで乾は、刀鬼を新兵衛と鞍馬天狗にぶつけようと考えた。いま、太刀を渡せばそれを手にしているのはおのずと限定される。あるいはそれで新兵衛が助かるかもしれない。

 刀鬼は太刀がほしい。だから鞍馬天狗にも新兵衛にも攻撃を加えるだろう。一方で鞍馬天狗は戦闘狂だ。目の前の敵をほおっておくわけがない。それでもし新兵衛が太刀を手放したらどうだろう。刀鬼の敵は鞍馬天狗のみ。鞍馬天狗は一人と一体を相手にしなくてはならない。いくら戦いの化物であろうとも蓮台を守るのは至難の業。

 その間に、『鞍馬天狗』の札を引き当てる。それ以外、ここを乗り切る方法はない。乾は太刀を刀鬼に投げ与え、その考えを察した誰もがそれに続く。

 果たして刀鬼は、鞍馬天狗の腰に収まっている金色造りの太刀に向かって一途に向かう。この時点、新兵衛と鞍馬天狗は素手での格闘に移っていたし、考えてみれば当然といえよう。太刀狂ならまず、しょぼくれた新兵衛の太刀より黄金造りを狙う。常人で二十歩ほどの距離を三歩で鞍馬天狗に到達。ヒグマを思わせる掌を上からひっかくように振り下ろす。

 それを鞍馬天狗はその場でくるりと回転してかわしす。その時には刀鬼の腕が回転に巻き込まれており、次の瞬間、刀鬼の体が大きく弧を描く。それが強烈な音を上げて地を打ち、そこから砂塵が噴出する。

 背負い投げ。絶妙な間でそれが放たれたのだ。新兵衛は固唾をのんだ。刀鬼の巨体が上下真反対になった時、その足先が天に向かってピンと伸びているのを目の当たりにした。

 新兵衛は雄叫びを挙げた。

 震えが止まらない。すばらしい! ただその気持ちだけが胸いっぱいに広がった。

 刀鬼はというと丸太のような足を旋回させていた。風が唸り、体が巻き上げられたそこで片方の足を地面につけたかと思うとくるっと身を回して起き上がる。

 鞍馬天狗はニヤッと笑みを漏らした。また強敵が現れたのを大いに歓迎したのであろうか。当然、そんなことなんて知っちゃぁいない刀鬼である。大薙刀を拾うと矢継ぎ早にいくつもの突きを放つ。それがなんとも凄まじい。残像で刃先が二十も三十もあるように思えた。

 その大薙刀がぴたっと止まった。なんと、鞍馬天狗は水平に保たれた朱の柄の上にたたずんでいた。それがふわりと宙に舞い、刀鬼の頭に着地したかと思うといきなり新兵衛に向けて気を放つ。

 その放たれた気を新兵衛は、確かに目で捉えた。剣指を結んだ手が横に切られる。その動きから三日月状の気が現れたかと思うと燕が飛来するかのごとく向かってくる。

 そのことごとくを新兵衛は避けきるとまた、雄叫びを挙げた。『鞍馬刀法』の全てを体得したと感じた。父でさえ到達しえなかった。いや、先祖のどれだけがその域に達しえたのか。

 新兵衛が立つ位置から少し距離を置いて池知退蔵の遺骸がある。その太刀は刀鬼に与えるために弥太郎が拾っていって、無い。だが退蔵自らつくった木刀がその腰に残されていた。新兵衛は走り寄ってその木刀を取った。そして代々伝わってきた己の太刀を鞘ごと腰から抜き、投げた。

 太刀はゆっくり弧を描いて、地面に落ちるとカチャっと金音を立てた。

 太刀を捨てる。やっぱり、悪ふざけだと思った。ひとしきり自嘲するとこんな手の込んだ運命を用意するのは一体どんなやつかと考えてみた。

 ふっと顔が頭に浮かんだ。

 当然、先祖の顔なんて知らない。父でもない。思い浮かんだのは、龍馬。

 龍馬のやつに違いない!

 そう思うとなんだか楽しくなってきた。あいつらしいと思えるし、こんな悪戯じみたことを仕出かすのは龍馬しかいない。それであいつはおせっかいのお人よしだ。

「おまえは強いよ」

 龍馬はいつもそう言ってくれた。強さなんて興味なかったし、人を殴って力を誇示することも嫌いだった。あいつもそうだったろう。だがあいつは口が立つ。それで何度も助けられたことか。その時いつも龍馬が言うのだ。わしなんかより強いおまえを、なんでわしが助けなければならんのじゃ。

 龍馬め。

 涙が頬を伝わってくるのが分かった。こりゃ、仕返しか?

 疾風に駆け、新兵衛はすでに戦いを繰り広げている鞍馬天狗と刀鬼の間に割って入った。

 凄まじい戦いを繰り広げる一人と二体。蓮台はがら空きとなっていた。「いけ!」という乾の声に安吾とたえは蓮台のまえに滑り込む。乾らも走り寄り、戦いに警戒しつつも札の場を覗く。

 一度、大きな息を吐いたたえが一枚捲る。


 円形に並べられた三十個の満ち欠けした月と『月読』


 それが目に入るや否や、みなの心臓を鷲掴みされた。たった一枚の紙切れであるがこの世界を支配者。雷神や大百足、鞍馬天狗なぞこの札に比べればかわいいもの。

「ここはわざと、捲った札をもう一度、捲ってはみてはどうか」

 そう言う多司馬に一同、はっとした。

 確かにそうである。『月読』は半端な札なのだ。次に捲っても化物を消す機会はたえには与えられていない。多司馬が言いたいのはいたずらに化物を増やすなってことなのだろう。

「いいや、行こう」

 それには、乾は反対だった。たえが『鞍馬天狗』の片割れを引くかもしれない。だとしたら続く安吾がそれを逃すはずもない。

「行こう」

 みながそう答えた。あの凄まじい二体と一人の戦い。その均衡がいつ崩れるか分かったものではない。鞍馬天狗の笑顔から遊んでいるようにも見受けられる。やつはまだ本気を出していないのだ。

 たえは己のやるべきことを十分理解していた。絶対に『鞍馬天狗』の片割れを引き当てる。

 

 家々を下敷きに暴れる蛸と『大蛸』


「はずれか!」 みな手を打った。

「そうでもない。じゃが、あたりでもない」

 そう言った空心に視線が集まる。いつのまにか姿がそこにあった。「考えてみろ。ここは山じゃぞ。大蛸が海から這い上がってここまでくるのに何日かかると思う。そういう意味でいうならあたりじゃ」

「それで海辺でないのは幸運だと言ったのだな」と弥太郎。

「ちょい違うな」と思わせぶりの空心。

 まだ海に関する化物が残されている、それもかなりのやつが、とみな察した。残り十一枚。それからして化物は五体となる勘定だ。今しがた捲った『大蛸』を含めそのうち三体はもう発現している。となれば海の化物は残りの二体のうち一体か、あるいはその両方か。

 が、「しかし」と思い返す。これ以上の化物がいるとして、蛸の方はどうだ? その絵だけでも十分に恐ろしい。その巨体に押し潰されている家があまりにも小さい。

 果たして城下は混乱の渦となっていた。鏡川河口にぽっこりと島が出現したかと思うと海中から触手が伸びてきて人々を襲う。見物にきた人々を囲うように巻きつけ束にして海中に引き込むのだ。それが一つや二つではない。いくつもが飛沫をまき散らし人々の頭上から落ちてくる。河岸にずらりと並んだ黒山の人だかりが瞬く間に消えた。

 生き残った人々は蜘蛛の子を散らすように城下町を内へ内へ走った。しかし触手はそれを逃がさない。片っぱしから海中に引き込んでいく。揚句、閑散とした通りから民家の中へ攻撃の手を移す。どの触手もおのおの己の意思があるように家の中を這いまわりどこへ隠れようとも逃さない。一方で海に浮かんだ丸い島は鏡川の流れに逆らって上へ上へとのぼっていく。

 新兵衛の家は江ノ口川沿いにあり、城を挟んでまだ内陸にあった。ゆきは逃げてくる人に驚き、なにがなんだか分からないまま人波に揉まれて常通寺橋を渡った。

 逃げる者たちの一方で、反撃を始める人々もいた。触手の、巨木の丸太のような根元は切り落とせないまでも、人々に攻撃を加える先端の方はなんとか切り落とすことができる。太刀はもとより斧やなたを手に持ち、果敢に応戦する。さらに藩兵も繰り出してきて、大蛸の本体に銃やら大砲やらを撃ちかける。

 ところが触手は損傷したそばから再生を始める。まったく攻撃が効果を示さないのだ。肝を冷やしているところへ容赦ない触手の攻撃である。藩兵も逃げ惑うばかりだ。

 その砲撃の音を、ゆきが聞いたのは大膳様町を抜けて西町に入ってからである。目と鼻の先にはこんもりとした山があり、そこには寺や神社やらがいくつも集まっていた。胸を患っているゆきはあえぎ、足をからませ、山に登っていく。

 そんなことになっているのも知らず、安吾は札の場を睨んでいた。


 捲られてない札

 『雲の図案』

 『雲の図案』

 『雲の図案』

 『雲の図案』

 『雲の図案』

 『雲の図案』

 『雲の図案』


 新兵衛が捲った札

 『刀鬼』(化物発現中)

 『鞍馬天狗』(化物発現中)


 たえが捲った札

 『月読』(単体、この遊びの支配者)

 『大蛸』(化物発現中)


 今だ開いていない札は七つ。現れていない化物の札は二組の計四枚。つまり残りの三枚のうちどれかを引けば発現している化物の一体を消すことができる。七枚のうちそれはほぼ四割である。難しくない。いや、だからこそ失敗は許されない。

 三枚の中でも安吾は『鞍馬天狗』をどうしても引き当てたかった。新兵衛は二体の化物の中にいてほぼ対等に戦っていたが、いかんせん生身の体である。すでに返り血か、己の血かで地の肌が見えないくらい全身が真っ赤に染まっていた。

 小松さんを助けたい。その一念で安吾は札を捲った。


 牛若丸のような美青年と『鞍馬天狗』


 ! みごと引き当てたのだ。みな、あっけにとられて言葉を失っているのに構わず、今度は『雲の図案』の札を掴み、高々と掲げると気合一閃床板に叩き付ける。

 どうだ!


 牛若丸のような美青年と『鞍馬天狗』


 二枚は跳ね上がり空心の持つ桐の箱に収まったかと思うと瞬く間に鞍馬天狗も渦に巻かれその中に消えた。

 だれもが固唾を呑んだ。

 そうなのだ。もし安吾が『鞍馬天狗』の相方を引き当てていなければつぎは新兵衛の番。つまり、進みようがない。だとしたらこの回がもしかして勝負どころだったのではなかろうか。そして安吾はそれを立派にやり遂げた。たえも唯八も弥太郎もみな、嬉しくてそんな安吾に抱き着いた。

 新兵衛はというと両膝を突き、呆けている。すでに刀鬼は落ちている太刀を拾い集めていて、それを両腕に抱え立ち去ろうというかまえだ。村々を彷徨った揚句、また城下へ向かうのだろう。因みに背中の櫃は鞍馬天狗の放った背負投げで全壊している。であるからその格好はまるでさまにならない。見様によっては投げられたおひねりを拾って申し訳なさそうに去っていく旅芸人のようであった

 唖然とそれを見送ったはいいが、はたと新兵衛のことを思い出す。安吾もたえもみな一斉に駆け寄り、大丈夫かと声をかける。すでに瀕死であるにもかかわらず、新兵衛は大丈夫だと答えた。

 それを数人で両側から抱きかかえると蓮台の傍に持ってきた。安吾もたえもそばについていて一緒に腰を下ろす。

「だれの番か?」と虫の息の新兵衛。

「わしの番だよ」

 笑顔を見せて安吾が言った。

「そうだったか、お主が天狗を消してくれたんだな。ありがとう」と笑顔を返す。そして場に目を戻す三人。

 

 捲られてない札

 『雲の図案』

 『雲の図案』

 『雲の図案』

 『雲の図案』

 『雲の図案』

 『雲の図案』


 新兵衛が捲った札

 『刀鬼』(化物発現中)


 たえが捲った札※新兵衛は戦闘中、札の位置は未確認

 『月読』(単体、この遊びの支配者)

 『大蛸』(化物発現中)


 果たして現在発現している化物は『刀鬼』と『大蛸』の二体で、単体の『月読』が一つ。捲られてないのが六枚あり、『刀鬼』と『大蛸』の札の相方を除けば対を為す札は二組。つまり依然としてまだ二体、化物が札の中に潜んでいる。一方で、発現している化物を消す確率はというと六枚の中、二枚で約三割。奇跡を信じるしかない。安吾が言った。

「やるよ。小松さん」

 うなずく新兵衛に気合十分、札の場に手を伸ばす。が、取った札は初出であった。


 真っ黒い背景に鯰と『大鯰』


 地鳴りが響いたかと思うと地面が揺れた。地震である。体を大きく揺さぶられて動くこともままならない一方で、蓮台はというと右に左に勢いよく滑っている。それもやがて収まる。蓮台は十歩ほど離れた位置に移動していた。

 取りに行こうとみなが動いた時、また地震が始まった。今度は先ほどより大きく、揺れる動きも異なっていた。始めのは東西に揺れていたが、今度のは南北の動きも相まってほとんど円を描くようである。

 立っていられないどころか、足元がすくわれた。みな次々に背中で地を打つ。それでどうにかこうにか這いつくばっていると、山のあちこちで地滑りが起こっているのが見えた。木々が根こそぎ持っていかれ、もくもくと砂煙を上げていた。

 その崩れる音が伝わってきたものなのか、どうか。足元の地中からもそれが聞こえた。束の間、地面に裂け目が走ったかと思うと大きく口を開ける。

 それが広がるほどに地面を走る亀裂は先へ先へと進み、その道筋に蓮台があった。

 背筋が凍った。

 もがくように這って、そこに到達したのは乾、弥太郎、豪次郎、唯八、謙吉の順である。蓮台の担ぎ棒の端を握ったのはそのうち乾と弥太郎で、後から来た者らはその背中や足にしがみついた。

 亀裂はみるみるうちに口を開き、蓮台の担ぎ棒の一方が向う岸にかろうじて突っ掛っている。

 だがそれも外れた。蓮台は乾と弥太郎が持つ端を支点に大きく四半円を描いて奈落の底にぶら下がる。

 息を呑んだ。

 なんとか蓮台は落とさずに済んだものの札は舞い落ちたかと思った。だが札は板に張り付いて微塵も動いていない。

 ほっとしたその矢先、今度は乾と弥太郎の身が危険にさらされる。揺れに崖の端が崩れ始めたのだ。がらがらと奈落に土の塊が落ちてゆく。

 紙一重のところで乾と弥太郎は引き上げられた。後から寿太郎やら保馬やら何人かが駆けつけ、始めに来た豪次郎や唯八、謙吉ごと引き上げたのだ。

 丁度この時、揺れは小さくなった。蓮台を囲んで一息ついたはいいが、だれもが考えたのは十三年まえの寅の大変、いわゆる安政南海地震である。

 あの時も十二月であった。突然起こった津波になにからなにまで浚われ、城下は瓦礫と化した。それと同じことが起きる。

 果たして城下に津波が押し寄せた。幸運と言っても良いのだろうか。大蛸から逃れようと人々は内陸に向かっていた。結果として津波が城下町を呑み込んでいくのを小高坂村の小山で目の当たりにした。鏡川と江ノ口川が増水し、その水が町に入って通りを縦横無尽に駆け巡り、さらには家屋を押し流していく。

 驚くべきは大蛸である。波に押されるがまま家々を潰していくかと思うと一転、触手を伸ばし高知城の本丸御殿にへばり付いた。瓦礫が渦巻く潮の中は随分と居心地が悪かったに違いない。逃れるように上へ上へ進み、あげくに天守閣にぶら下がった。そこから八つの触手をぎりぎりと締め上げ、その体を海中から引き上げようとする。

 一方でその天守閣はというと傾き始めた。地震で強度を失ったのか、触手で骨組が痛めつけられたか、あるいはその両方か。小山で見守る人々の叫び声ともに、大蛸もろとも天守閣は倒れていき、海の藻屑に消え去った。

 唖然とする以外ない。日頃より崇めるように見上げていた。それが消えてなくなったのだ。衝撃は並大抵ではない。魂が抜けてしまった様にみな、瞬きもせず口を半開きしている。その中にゆきの顔もあった。

 その光景を見ていないにしろ空心の「ここが海の近くでなくて幸運だったとだけ言っておこうかの」と言った意味が十三年まえを知る乾らには十二分に理解できた。

 早く勝負を決しないといけない。地震は短い時間で終わろうが、津波は長々と続く。「安吾!」と乾は強く呼ばわった。

 その安吾はというと新兵衛のそばに寄り添っていた。たえも一緒にいてその頭を抱いている。もう一度、「安吾!」と呼ばわる。

 はっとした安吾はいそぎ蓮台に駆け寄ると担ぎ棒を手に取って新兵衛の前に引きずっていく。そしてその周りを右へ、左へと動く。どうやら己のいた位置を探っているようだ。札の場の景色と記憶を重ね合わそうとしているのだろう。

 いまだに現れてない化物は一体。つまり二枚一組は全く手付かずである。捲ってない札は五枚。そこから『刀鬼』、『大蛸』、『大鯰』のいずれかを引き当てる。成功の確率は六割。

 位置につくと五枚のうち一枚を選んだ。そして手に取る。


 猿の顔、虎の胴、蛇の尾っぽ、と『鵺』

 

「大あたりじゃぁ!」

 唐突に、そう言った空心に視線が集まる。どういう意味だろうと思ったその矢先、空が暗転した。日が落ちたとか、そんな生やしいものではない。

 皆既日食。

 新月であったのもそうだが、地球は一年で太陽を一周し、月は一月で地球を一周する。その道筋は五度の傾きでずれていてその交点付近に太陽があったのだろう。

 だからといって月が地球に落とす影の中にいなくては、皆既日食は観測できない。果たして青い地球の表面をゆっくりと動く黒い円が日本列島をすっぽりと覆う。

「よかったの、『牛鬼』を片付けておいて。この後では目も当てられん」と空心。

 にわかに東の方角が黒雲立ってきたと思うとその一叢が向かってくる。それが頭上に覆いかぶさると竹笛の音に遠心力が働いたような奇妙な音が鳴った。

 途端、謙吉が卒倒した。続いて豪次郎、唯八と倒れ、多司馬も楠次も助太郎もみんな昏倒する。明らかにこの奇怪な音の仕業であり、それは黒雲の中で鳴っている。

 闇にやっと目が慣れた新兵衛は状況を把握した。見渡してみれば意識を保っていられたのは他に乾と空心だけだったのだ。その空心の方が言った。

「小松殿は予想出来たが、乾殿もとは」

 夜鳴く凶鳥、あるいは雷獣とも言われる。音は雲の中に潜む鵺の鳴き声であり、それは魂に直接働きかける。穢し、そして蝕み、最後は壊してしまう。

 ただ、万人までもというわけでもない。一部の豪胆な、あるいは気力優れた者には効果を示さない。それで空心は、耐え得るのは新兵衛だけだと踏んでいた。あの鞍馬天狗と堂々と渡り合ったのだ。常人とは桁外れに違う。だが立っている乾はというと意外であった。

 仏道修行を積んだ空心は思う。生れ付き力が備わっていたとしても、良い師に出会い、段階を踏んで修行しなければ、それはないものと同じなのだ。

 果たして乾にはそれがない。例えばこの年に帰らぬ人になった高杉晋作という人物。幕府の長州征伐軍を撃退したことで知られるが、一時は出家して東行と名乗った。そういった遍歴の欠片もない乾がどうして卒倒せずに立っていられるのか。

 偶然にも、乾は独自の気息法を編み出していた。子供のころ、病を患って中耳炎となった。以来、耳の痛みは取れず、それでも友達に誘われるがまま川にいって何食わぬ顔で泳いだという。

 中耳炎の痛みは生半可ではない。そこにきて耳に水が入り悪化した。耳は全く聞こえなくなり、痛みは凄まじい。乾は子供ながらに耳に詰まっている膿が原因と考えた。時たまそれが耳から流れ出る。そして偶然にも舐めたその味がそれも時たま喉を通る粘液の味に似ていると感じたのだ。それで耳と鼻が繋がっていると想像した。鼻から吸った息を耳から抜くことはできまいか。乾はその修練を行った。

 そんなある日、耳から膿が噴出した。鼻からの空圧で耳管が通ったのだ。現代なら鼓膜切開が必要なところを自らの力でそれを成し遂げたのだ。

 これをきっかけに乾は気息法に悟るものがあった。以来、体温の調整から感情の操作まで様々なことを試した。そうするうちに並はずれた胆力を得ることになる。

 強さの源はそこにあったといえた。あるいはそれが乾を変人に見せるのだろう。少なくとも、新兵衛は変わった男だと思っている。

「まぁ、良いわ」

 空心はそう言うと、拳銃をぶっ放した。暗闇の間に安吾から奪ったスミスアンドウエッソンである。それが乾の腹に命中した。返す刀でその銃口を新兵衛に向けると引き金を引く。

 カチッと撃鉄が落ちたのみで銃口は火を噴かなかった。空心は弾ぎれを悟る。即座に駆け寄ると新兵衛の喉を鷲掴みにした。

 思念体といえども空心は違った。ドッペルゲンガーというものがある。己の知らないところで自分そっくりな人間が第三者に目撃されたり、己自身がそれを見たりする。もしそれについて空心が述べたとしたならば未熟者めと言い放つであろう。空心のは自由自在でほとんど生身の体と変わらず、その上で姿かたちさえ変えられるのだ。

 そういう点からいえば化身と言っていい。上杉謙信で例えて言うなら毘沙門天がその正体ということになり、その考えで言うならこっちの空心にとって向こうの世界の自身は神や仏となるのだろう。

 だがそれは言い過ぎかもしれない。分身の域から少し出た程度なのだ。それに本体は神や仏ではない。事実、向こうの空心は座禅を組むにしても人の手を借りねばならぬほど年老いていて、やはり生身の人間なのだ。

 あるいは、アバターと言った方がいいのか。それは現代の電子社会で言うワールドワイドウェヴ上のインターネットコミュニティーで、本人になり替わり活動させる存在。

 それから言っても、多司馬に脅された空心が、思念体だから拷問は効かないと答えたのもうなずける。思念体自体は効かなくはないが操っている本人は別世界にいるのだ。

 その空心の握力は尋常ではない。あの新兵衛が動きを完全に封じ込まれているのだ。これも現代風に言うならばカスタマイズ。この法力で空心はだれにも追随を許さない。それだけの潜在能力はあるし、修行量も他を圧倒していた。

 勝ち誇ったのか、その空心が言った。

「あとはあの子供たちとわしとでやる。なぁに、心配いらぬ。わしが手を下さずとも先はもう見えたし、結界なぞは、小さいのであればわしのみの力でつくれる」

 鵺の鳴き声はいまだ収まっていない。安吾もたえも気を失ったままなのだ。その一方で瀕死の乾がそこに向かおうとしている。たどたどしく歩き、連台を前にひざまずく。その道筋には血の跡が点在していた。それを見て空心が言った。

「賢いおまえならもう察していると思うが、この『月読』、上がった暁には褒美が与えられる。おまえもそれがねらいだったのじゃろ、残念だったな、乾。わしの勝ちじゃ」

「聞き捨てならんな」

 寿太郎が立っていた。続いて頭を振りながら保馬が、そして万寿弥、孫次郎、金三郎と身を起こす。みな、拷問で地獄を味わった者たちであった。否が応でも胆力は常人とかけ離れる。

 驚いたのは空心である。その目をまん丸にしているところを、新兵衛は見逃さない。喉を掴まれた腕を自身の体重を利用して引っ張って伸ばし、肩口からその腕と一緒に足を三角に組む。三角締めに固め、たちどころに空心を落とした。

「新兵衛、殺すなよ」

 寿太郎が言った。保馬が駆け寄ってきて気を失っている空心から手にある桐の箱を奪い、寿太郎にひょいっと投げる。それから空心に手際よく縄をかけた。

 寿太郎がしげしげと桐の箱を舐め回すように見ている。それが言った。

「こやつには訊かなくてはならんことがある」 

 縛られ身動き一つ出来ない空心に保馬の平手が打たれた。目を覚ましたところに寿太郎が言う。

「褒美ってなんのことじゃ」

「上がってみてのお楽しみじゃ」

 挑発されたと思ったのか、寿太郎は空心を蹴りあげた。「新兵衛、続きじゃ」

 蓮台の周りには安吾、たえ、乾が横たわっている。特に乾は虫の息である。地面には血だまりが出来ていた。もう手の施しようがない。

 虫の息というなら新兵衛も一緒だ。蓮台の片隅に手をついて膝を落とし、なんとか腰を落ち着けた。そして札を見渡す。たえが捲った二枚を鞍馬天狗との戦いでまったく見ていないのに気づく。休憩を取ってからの枚数は十一枚であった。そのうち安吾が『鞍馬天狗』を消した。現在の場は九枚。


 捲られてない札

 『雲の図案』

 『雲の図案』

 『雲の図案』

 『雲の図案』

 

 新兵衛が捲った札

 『刀鬼』(化物発現中)


 新兵衛は戦闘中、札の位置は未確認 ※たえが捲った札

 『雲の図案』………『月読』(単体、この遊びの支配者)

 『雲の図案』………『大蛸』(化物発現中)

  

 安吾が捲った札

 『大鯰』(化物発現中)

 『鵺』(化物発現中)


 捲っていないのは四枚。そのどれを引いても重なる札がある。だが新兵衛の場合は捲ってないのと同様な二枚があるから六枚の内から選ばなければならない。しかも新兵衛の番で終わらせるならば、すでに捲られているはずの『月読』には絶対に手を出せない。連続して捲っていけるという特典はその時点でなくなるのだ。

 もしそれを犯してしまい、たえに回ったとするならばどうだろう、鵺がまだ頭上にいるのだ。空心が言うようにその結界が必要となってくる。どういうわけか知らぬが、乾を殺さんとした男だ。なにを仕掛けてくるかわかったものではない。やつを自由にさせることは絶対に出来ない。

 とするならば間違いなく『刀鬼』、『大鯰』、『鵺』の相方を狙ってゆくしかない。たえが二枚を合わせられなかったのは場の数を見てわかるし、引いた札の内、『月読』が混じっているのも発現している化物の数からみても間違いはない。にしても『月読』の位置が知れるのと知れないのとでは雲泥の差だ。もし自分が確認している『刀鬼』、『大鯰』、『鵺』の三枚とそれの相方をうまく消していけたとして、やはり行きつく先には『月読』が混ざった三枚が残る。

 あるいはたえが引いた二枚のうち、『月読』ではなく、化物の方を手にとってしまったらどうなるだろう。その時点、特典を失うことは免れる。が、捲っていない四枚と、見ていない『月読』の札の中からそれを引き当てなければならない。いずれにしても後がなくなる。

 結界が必要になるかもしれない。それで空心を殺さなかったのは幸運だったのではないかと思うようになった。なにか仕掛けてきたとしても桐の箱は寿太郎の手のうちにあるし、と弱気な考えにもなる。

 そこへほとんど死にかけの乾がなにを思ったか突然、蓮台の上に手を差し出した。そこから札に触れたかと思うと電撃でぱあっと輝き、あとは黒焦げになった遺骸である。くすぶってちょろちょろと煙を上げていた。

 


 一、『遊んでいる者』以外、触ってはいけない。助言もいけない。もしこれを犯したならばその者は雷に撃たれる。


 だれとも分からない遺骸を見ていると人なんてものはそういうものだと感慨深い。それが乾であったから特にだ。乾の乾たらしめるその個性と、だれともわからない真っ黒い遺骸の落差はあまりにも大きかった。

 にしても、この死に方は乾らしかったのだろうかと考えてしまう。乾自身はこれが潔いと考えたわけではあるまい。腹を切ったのとではまるで違う。どう取ろうが、死を前にして血迷ったとしか思えない。

 だが、その真意を半分だけ理解した者がいた。絶対に乾の死には意味があるはずだ。新兵衛は、乾が最後に触った札を穴があくほど見ていた。

 これが、『月読』か。

 空心はというとその札は『月読』だと分かっていた。当初より場を見ていたので当然だと言えば同然だ。『月読』を出した時点で順番がたえに回ってしまうのだ。乾もそれは回避したかったのであろう。

 だが、そんなことよりも乾の狙いが、それのみであるかということが気にかかる。もし、空心の考えている通りならば最悪の事態を招きかねない。

 多司馬に、この世界から逃れるにはどうしたらいいのかと空心は問われた。あるにはある。が、空心らはこの方法を採れない。思念体ということも差し引いて、基本的には最後までいて札を全て桐の箱の中に入れなくてはならない。その空心の出来ない方法をいみじくも、乾はこの『月読』に触れることで達成した。それを空心らは裏の決まりと呼んでいる。



 一、完結すれば遊んでいた時間は失われる。ただし『遊び』に参加した者はその限りではない。


 その参加とは何をもって参加したということになるのだろうか。



 一、『遊んでいる者』以外、触ってはいけない。助言もいけない。もしこれを犯したならばその者は雷に撃たれる。


 これに抵触した者も参加したとみなされるのだ。たぶん、乾は弟子の懐栄が電撃に打たれず、ただ元の世界に飛ばされたときにそれを察したのであろう。

 となれば、桐の箱を手に入れることは危ぶまれる。元の世界での反撃が予想されるのだ。是が非でも、真の目的を達成しなければならない。

 どうしたものかと空心は考える。まずは幸運を願うしかあるまい。それは新兵衛が失敗し、たえや安吾に順番を回すこと。その願いが天に通じたのか、新兵衛はというと手に取った札を見て血の気を失う。


 家々を下敷きに暴れる蛸と『大蛸』

 

 乾が示した札を外して引いたのがそれであった。新兵衛にしてみれば『大蛸』は初出であった。

 が、それが本当の初出なのかどうかも分からない。いや、それはこの際どうでもいい。相方の『大蛸』が必要なのは変わらないのだ。たえが捲った個所、それが知れないのが口惜しい。捲った札が『大蛸』ではなく、『刀鬼』か、『大鯰』か、『鵺』かであったらどんなに良かったことか。さっさと捲って次に進める。だが、『大蛸』となるとまた勘に頼よわざるを得ない。苦しみは続く。九枚中、新兵衛が分かっている札は五枚。


 捲られてない札

 『雲の図案』

 『雲の図案』

 『雲の図案』

 

 新兵衛が捲った札

 『刀鬼』(化物発現中)


 新兵衛は戦闘中、札の位置は未確認 ※たえが捲った札

 『雲の図案』………『大蛸』(化物発現中)

  

 安吾が捲った札

 『大鯰』(化物発現中)

 『鵺』(化物発現中)


 乾が死をもって示した札

 『月読』(単体、この遊びの支配者)


 新兵衛が捲った札 ※この時点、新兵衛はさらに一枚捲る権利を有している

 『大蛸』(化物発現中)


 にしても、水が飲みたい。

 喉が渇いた。ひりひりする。唾を呑み込もうにも粘々した液が口の中でのたくってどうしようもない。そこへこめかみから頬骨へ流れるひと筋の汗。虫が伝うようで気持ち悪い。追い払うように二回、手で頬を掃く。

 ?

 どれがどの札だったっけ?

 目を凝らせば凝らすほど、思い出そうとすればするほど混乱する。頭を掻きむしって苦しむその様子に、空心は安堵の気持ちが湧く。これはまず間違いなくたえに回ってくる。

 一方で新兵衛は心の整理もつかないまま、手を伸ばしていた。なにも決めていないので手の平は行き場を失い九枚の上で漂う。

 もういい、どうにでもなれ! と思った瞬間、はたと気付いた。

 わしは乾さんと違うんだ。

 出会ってこれまで乾という男を見、こういう人間もいるんだと感心もし、尊敬もした。生まれて初めてである。そして出来うるならこういう人間になりたいと思った。

 それが間違いであった。己はおのれ。

 乾の示した札を凝視する。

 これは、『月読』。絶対に引いてはならない札。そして己の番を続けるには是が非でも残り四枚の中から『大蛸』を選ばなければならない。

 大きく息を吐いた。

 新兵衛の雰囲気が変わった。それが札を手に取る。


 家々を下敷きに暴れる蛸と『大蛸』


 みな、息を呑んだ。『遊び』を終わらせるとか、そんな問題ではない。新兵衛という人間を手放しで認めた瞬間であった。

 合わさった二枚は跳ね上がる。そして寿太郎の持つ桐の箱に収まる。

 真っ暗な南の空に白い筋が垂直に立ちあがっていくのが見えた。いままでの場合、旋風に毛が生えたような渦だったが今度のは大きさといい、形といい見紛うことなく竜巻である。

 空一杯に広げた漏斗状の上端。天をかき混ぜるがごとく渦巻く中心は城下上空に違いなく、一方でその下端は八の字を描きつつ新兵衛らに向けて凄まじい速度で迫ってくる。

 それが寿太郎の手にある箱に着地したかと思うと空を吸引しているがごとくその上端が一気に引き寄せられる。その渦の中にぐるぐる回る巨大な赤い物体。

 固唾を呑む。

 この大きさで暴れていたのかと思うと背筋が凍る。壊滅している城下が容易に想像できたのだ。それが跡形もなくすっぽり桐の箱に収まった。

 呆然とした。この世界は終ろうとも、あまりにむごいとだれもが、新兵衛が、思った。

「実はな、隠しておったことがある」

 唐突に、空心が言った。「後醍醐帝は討幕を願い、良運座主猊下は信長の死を願い、徳川吉宗公は将軍職を願った。つまりはそういうことじゃ」

 だれもがその意味を察した。『月読』を上がればなんでも願いが叶う。保馬が、万寿弥が、孫次郎が、金三郎が、互いたがいに目線を送る。そしてそれが最終的に集まったのは寿太郎にであった。

 その寿太郎は眼をつぶり、なにかを考え込んでいる。

 不穏な空気が流れていた。

 新兵衛はぶるっと体を震わせた。寿太郎が醸し出すのは普段にもまして凍える冷気である。想っていることが凶事であることは紛れもない。果たしてそれが動きを見せたかと思うといまだ目覚めぬ唯八の、その頭に手作りの槍を振り下ろした。

 血しぶきが立ち、どばどばと液体が地面をどす黒く染める。

 寿太郎が怒号した。

「豪次郎と謙吉だ」

 そう指示されて動いたのは保馬である。木刀を握りなおすと豪次郎の頭をかち割った。その返す刀で謙吉のも血で染めた。

 暗闇の中で、新兵衛はその光景を唖然と見送っていた。一体、何がなんだか分からない。そんな新兵衛に五人の目が向けられる。餓えた野獣のようにギラギラと暗闇に光を放っていた。その中の怪しく光る二対が言った。

「子供たちは殺したくない。言うことを聞くか?」

 新兵衛は固唾を呑んだ。「ああ」

「坊主はどうする?」と保馬。

「こやつはまだ大事なことを隠している。このままにしておく」と寿太郎。

 空心は、にたーっと粘りつくような笑い顔を見せた。「隠しておるのではない。その場になったら解説してやるわ。それまで余計なことを言うつもりはない」

 寿太郎は鼻で笑った。空心から『月読』の縁起を聞いて思うところがあった。こんな代物、伊達や酔狂でつくられるはずはない。なにかを得んがため、あるいは政敵を祟るためだったのではないか。それが願いを叶えるためとは思いもよらなかったが、槍を作ったのは『刀鬼』の対策ではあったが、いざとなったら空心をぶちのめすため。そして仲間内での諍いをも想定してのことであった。

「やれ、新兵衛」

 寿太郎の命じると新兵衛は札に手を伸ばした。


 捲られてない札

 『雲の図案』

 『雲の図案』

 『雲の図案』

 

 新兵衛が捲った札

 『刀鬼』(化物発現中)


 安吾が捲った札

 『大鯰』(化物発現中)

 『鵺』(化物発現中)


 乾が死をもって示した札

 『月読』(単体、この遊びの支配者)


 どれが『月読』の札なのかほぼ間違いなく、それを手に取らない限り最後にその『月読』を残せる。そしてその通りとなる。


『鵺』と、安吾が捲った『鵺』


『刀鬼』と、新兵衛が前回捲った『刀鬼』


『大鯰』と、安吾が捲った『大鯰』


 次々に札が桐の箱に飛び込んだかと思うと大小様々な竜巻が湧き立ち、それが桐の箱に吸い込まれていく。

 空は光を取り戻し、青空が広がる。

 残るは一枚。


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